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第167回芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』徹底解説①

はじめに

 今回は第167回芥川龍之介賞を受賞した高瀬隼子さんの作品『おいしいごはんが食べられますように』を徹底的に精読していこうと思います。
 作品の概要については下記にAmazonのリンクを貼っつけておきますので、そちらからご確認ください。

冒頭

 昼休みの十分前、支店長が「そば食べたい」と言い出した。「おれが車出すから、みんなで、食いに行くぞ」と数人を引き連れ、高速のインター近くにあるそば屋まで出かけて行き、二谷と藤さんの二人だけが部屋に残った。
(中略)
「飯はみんなで食ったほうがうまい」というのが支店長の口ぐせだった。前に支店長とカツ丼を食べに行った芦川さんが、青い顔をしてトイレから出てきたところに鉢合わせたことがある。支店長のペースに合わせて急いで食べたらお腹が痛くなって、とハンカチを持った手でお腹を押さえていた。芦川さんもおそらく弁当を持ってきていただろう。それで足りるのかと見る度に驚いてしまうような小さな弁当箱を、昼休みになると自分の席の一番下の引き出しから取り出して食べているのを知っている。

本文(P.3~4)より

 この作品は視点者が途中で変わるのですが、冒頭部分は二谷の視点で描かれています。
 みんなを食事に誘う支店長と、その誘いに乗らない二谷と藤さん、少食な芦川さん、の三名が登場します。
 このあとに「打ち合わせ入っててよかったな」という会話があるので、藤さんも二谷も、支店長からの誘いを疎ましく思っていることがわかります。
 そして芦川さんは少食で、いつも自分のお弁当を持ってきているにもかかわらず、支店長についていきます。おそらく誘いを断るのが苦手な人なのだろうと推測できます。

 部屋に残った二谷はカップ麺、藤さんはお弁当を食べます。二谷は食事しながら、こんなことを考えます。

藤さんはいいよな、おれと同じだけ残業したって家に帰ればああいう食べ物が頼まなくても出てきて、朝飯も昼の弁当も用意されていて、食べることを考えなくたって生きていける。
(中略)
カップ麺でいいのだ、別に。腹を膨らませるのは。ただ、こればかりじゃ体に悪いと言われるから問題なのだ。一日三食カップ麺を食べて、それで健康に生きていく食の条件が揃えばいいのに。一日一粒で全部の栄養と必要なカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。

本文(P.5)より

 ここから読み取れることは3つ。
1.藤さんには家庭がある。
2.二谷は独身で、おそらく一人暮らしをしている。
3.二谷は食に興味がなく、栄養を補給するための手段として食事をしているだけなのではないか? という推測。
 まだ始まったばかりなので、あくまで推測です。しかし、文章から読み取った情報をもとに、「この人物はこうではないか?」と仮説を立てながら読んでいくことが、より面白く、深く小説を楽しむ方法ではないかと、わたしは考えています。

 そのすぐあと、変なことが起きます。
 食事中、藤さんが立ちあがって冷蔵庫のほうへ歩いていきます。そして芦川さんの机の上にある飲みさしのお茶を一口だけ飲むのです。藤さんは中年男性。芦川さんは若い女性です。
 藤さんは「どうしても喉が渇いててさあ」と言い訳しますが、この言い訳は筋が通っていません。なぜなら藤さんは、芦川さんのお茶を飲んだ直後に、冷蔵庫から新しいお茶を取り出して飲んでいるからです。
 冷蔵庫から新しいお茶を取り出す前に、なぜわざわざ芦川さんのお茶を飲む必要があったのでしょう?
 この一連の行動から読み取れることは、藤さんは女性社員の飲み物を勝手に飲むということができてしまう、アンモラルな人間なのではないか? ということです。

 そのあと、支店長たちが帰ってきます。パートの原田さんが登場し、「支店長がおごってくれたの、全員分!」と声をあげます。

支店長は誇らしげな顔で「まあまあ」と頷き、ほらもう来るだろ、と仕事に戻るよう指示した。

本文(P.7)より

 この描写を読むと、支店長はみんなでご飯を食べることよりも、みんなにご飯をおごってあげることに一種の快楽をおぼえているのではないか、と思えてきます。もしかすると、みんなにご飯をおごってあげることが、支店長にとっての矜持であり、それによって自己肯定をしようとしているのかもしれません。これもあくまで推測ですが……。

「あのさあ、それ、その机に置いてあるお茶、こないだ出たばっかの新商品でしょ。ぼくも気になってて、ごめんねえ、勝手に一口もらっちゃった」
(中略)
芦川さんは、そうですかあ、と間延びした声を出しペットボトルを手に取ると、「どうでした?」と藤さんに尋ねた。藤さんは笑顔のまま首を傾げて、「爽健美茶に似てるけど、こっちの方がちょっと苦いかなー」と答える。芦川さんはキャップを外してお茶を一口飲み「ほんとですねえ」と返した。

本文(P.8)より

 セクハラおじさんこと藤さんは、帰ってきた芦川さんに、勝手にお茶を飲んだことを自己申告するのです。自己申告する神経もどうかと思うのですが、すこし驚きだったのが芦川さんの反応です。
 勝手に飲まれたお茶を、わざわざ藤さんの前で一口飲んで、「ほんとですねえ」と言うのです。
 自分のお茶なんだから、わざわざその場で飲まなくても味はわかるはずです。だから飲まずに「そうですね」と言うことだってできたはず。それなのに芦川さんは、わざわざ職場のおじさんが勝手に飲んだお茶を本人の前で飲むのです。
 これにはどういった心理が働いているのでしょうか?
 支店長の誘いを断れないことと併せて考えると、もしかすると芦川さんは自分の意思、特に人に対するネガティブな反応を表に出すのが苦手な人なのかもしれません。
 あるいはみんなに好かれたい八方美人。自信のなさからくる過剰適応。
 さまざまなケースが考えられそうです。非常に興味深い人物です。


視点者チェンジ(二谷→押尾)

 ここで視点者が変わって、二谷から押尾になります。
 押尾は、二谷や藤さんの同僚の女性社員です。

 わたし芦川さんのこと苦手なんですよね、って言ったら二谷さんは笑った。絶対笑った。そう思うのに、一瞬で表情が消えたので自信がなくなる。自信っていうのは、笑ったっていう事実があったことについてじゃなくて、二谷さんは芦川さんよりわたしのことが好きなはず、っていう方の。

本文(P.9)より

 押尾の視点はこのように始まります。
 押尾は二谷に想いを寄せていて、そのうえ芦川さんより自分のほうが好かれているという自信を持っている。しかし、「芦川さんが苦手」と言ってしまい、それに対する二谷のリアクションを見て自信が揺らいでしまう。
 そんなワンシーンからスタートです。

 社外研修の帰り、もうすぐ駅に着くというところで「おれ晩飯食べていくから、ここで」と、二谷さんが言った。

本文(P.9)より

 二谷の一人称が「おれ」であることから、二谷は男であると判明します。ここまで二谷の性別が明かされていなかったのは、視点者が二谷であったからです。
 この作品は一人称的三人称で書かれています。
 一人称的三人称というのは、視点者の名前(たとえば「二谷」)を「わたし」に置き換えても成立する三人称のことをいいます。三人称で書かれているけれども、一人称に置き換え可能であるということです。
 視点者がわざわざ「自分は男であるから~」というような言い方をするのは不自然ですから、ここまで二谷が自分の性別に言及する機会がなかったのも当然と言えます。
 視点者が変わり、二谷を客観的に捉えることが可能になったからこそ、このタイミングで性別が明らかになったのです。

 押尾は、二谷に着いていく形で一緒に居酒屋に入ることになります。
 そこで支店長の悪口を言う二谷。やはり支店長のことをあまりよく思っていないようです。しかし、支店長補佐の藤さんのことはあまり悪く言いません。ここでの真意はまだ謎です。(藤さんが支店長補佐であるという情報もここで初登場)

 笑い声が高まって、それからだんだん小さくなって、はあーあ、と息を吐いたタイミングでビールのジョッキに手を伸ばす。まず二谷さんがそれに口を付けて、従うようにわたしもジョッキを持ち上げた。下に敷かれた店のロゴマークが入ったコースターがじっとり濡れている。ジョッキを顔に近付けて、唇に触れる前に、「わたし芦川さんのこと苦手なんですよね」と言った。

本文(P.11)より

 ここで重要なことは2つ。
1.押尾視点は「わたし」という一人称で語られている。
 先ほど少し言及したように、二谷視点では一人称的三人称が用いられていましたが、押尾視点は完全な一人称の体をとっています。この使い分けにはどんな意図があるのでしょうか?

2.時系列を前後させるテクニックが用いられている。
 この場面の時系列を整理すると、以下のような流れになります。
 ①社外研修が終わる → ②居酒屋に入る → ③「芦川さん苦手」発言
 しかし、叙述の順番は、
 ③ → ① → ② → ③
 という風に、まず③を最初に持ってきています。
 これは③「芦川さん苦手」発言が、読者をひきつけるインパクトを持っているということです。時系列順に語るよりも、インパクトのある③を最初に持ってきて、読者をひきつける。それから③に至るまでの経緯を描く。
 そういうテクニックが用いられています。上手いですね。 

 このあと押尾は、芦川さんの苦手な部分について話をします。
 どうやら二人が参加した研修には、芦川さんも一緒に参加する予定だったのですが、当日に体調不良で欠席になったとのこと。しかも、前回の研修も同じように当日欠席していたことが判明します。
 押尾に直接利害があるわけではありません。ただ、芦川さんは「まわりに汲み取ってもらえている感」があり、それが気に食わないのだと押尾は言います。要するに「みんなあの子にだけなんか甘くない?」みたいな違和感が、押尾の中にあるということでしょう。
 そして押尾は、「このような感情を抱いてしまっている自分は心が狭い」というふうに思っています。しっかりと自分を客観視できている、それなりに頭のいい人だと、わたしは思いました。

「毎日定時で帰れて、でも、おれらと同じ額のボーナスはもらえる。出世はないけど、あのままのらりくらり定年まで働けるなら、それって一番いい。一番、最強じゃん」

本文(P.15)より

 休職したあとに比較的仕事が楽な部署に転属された同僚を例に挙げながら、二谷はこのような発言をします。
 わたしはまだ大学生なのでよくわかりませんが、こういうことはどこの職場にもありそうですね。でも、仕事ができない人はできない人なりの苦しみがあるので、ないものねだりなんじゃないかと、わたしは思っています。人の幸、不幸って明確な定義があるわけでもないし、単純に数値化できるものでもないですから、人と比較して考えること自体ナンセンスなのかもしれません。

 このあと、かなりお酒も進んで、ふたりの関係がだんだんと盛り上がってきます。この部分の文章はある種のトリップ感があって素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。
 そして押尾はある提案をします。

「それじゃあ、二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」

本文(P.17)より

 悪魔のささやきですね。ここで物語の歯車が動きだした感じがします。

今日はここまで

 ①はここまでにしたいと思います。読んでくださった方、ありがとうございました。
 note を書くのはこれが初めてなので、どのくらいの分量がいいか、まだよくわかっていません。(ここまで、だいたい 4,500文字くらい)
 分量とかフォーマットとか、これからいろいろ試しながらやっていこうと思っていますので、よろしければまた読みに来てください。
 また、「この作品を解説してほしい」などのリクエストがあれば、コメントやtwitterでお知らせください。

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