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雑感記録(230)

【積極的無関心】


3月末を以て僕は東京に来て半年になる。何だかこうして「半年」という2文字で表現すると寂しいものがある。半年の間にも様々なことが自身では起きている。それをたったの2文字で全てが全て表現されてしまえると思うと些か腹も立つだろう。しかし、だからと言って延々とここにその「半年」の記録を書き続けるか、書き続けられるかと言えばそんなこともしたくない。言葉では表現しえない経験も当然にしてきた訳だし、今から振り返って書いてみたとて、想い出は美化されてしまう。そんなもの自己憐憫に過ぎない。それに都度都度で僕はnoteに記録しているのだから今更振り返って書くことはしまい。

それでその「半年」という時間を過ごす中で、色々とnoteを書いてきた訳だ。本のことから映画や美術、音楽あとは自身の生活について。様々なことを書いてきた。これだけ書けるということはそれだけ自分自身が考えることが多いということだ。いや、厳密に言えば「暇なんだな」ということである。考えられる余裕があるということである。人間、仕事などで忙殺されてしまうと日々を生きることが主眼に置かれる。それは当然であって然るべきことである。それは生存本能として、つまりは原初的な動物的存在としての人間の行動原理である。だが、そこに文化的存在である人間としての人生の豊かさというものはあるのだろうかとも僕は感じてしまう。

勿論、昨今は「ブラック企業」と言われる会社も存在し、日々仕事にのみ従事する人も居る。SNSではとかく「残業○○時間の会社員の日常」みたいな投稿が最近の傾向として目立ってきている。ただ、まだこうしてSNSに自分の大変さや苦しみを投稿して共有するぐらいの余裕があるなら、SNS以外の所で生活を充実させたらいいんじゃない?とも僕は思ってしまう。それで快楽というか愉しいのであれば別に何も言うまい。だが、本気で苦しんでいる人はそんなSNSにわざわざ動画を撮ってまで投稿する余裕などないはずだ。まあ、これは僕の予想の範疇を出ないからただの世迷言な訳だ。信用しなくていい。

ここまで偉そうに書いているが、実際本当に苦しんでいる人達は大勢いる訳だ。自分が何をしたくて、自分がこれから何を目指すのか、どうしていきたいのかということすら考える余裕がなくなっている。休日はとにかく「休息」に徹する。何をしようにも無気力で、仕事のことばかりが頭を過ってしまう。休日ではなくて「休息」である。何だかそういう人たちを見て自分自身がこうして悠長に文学やら美術やら、はたまた身の周りのことばかりnoteに書いていることに違和感を感じている。何というか平和ボケしているような、そんな気がしてしまう。

別にだからと言って、じゃあ僕は所謂「ブラック企業」に努めて身を粉にして働きたいかと言われたらそれはまっぴら御免である。僕は僕で平和ボケを十分愉しむつもりだ。……と何だかここまでこうして書いていると人を馬鹿にしたような厭らしい文章になってしまった。これ以上は書くまい。


こんな話から書きたい訳じゃなかった。

今更こんなことを書いたところでどうにかなる訳でもないが、しかし書き出してみたらこんな方向へ来てしまった。書くという行為は途方もないことなのかもしれない。自分で書こうとしている方向があって、それに対して僕がいざ書こうとすると他の方向へ突っ走っていく。そうして遠ざかって結局、最初に構想していたものとは別の地点での着地を見せる。こうして軌道修正を図る訳だが、しかしそれでも上手くいかないことが殆どだ。

僕はこの記録を書く時に予めタイトルを決めて書く。「よし、今日はこういう構想で書くから、このタイトルにしておけば迷子になることはない」と思いながら書き進めるのだが、1行目2行目ぐらいまでは問題ない。だが3行目ぐらいから様子がおかしくなってくる。自分でも書いていて「あれ。あれ…」と思うのだけれども、ここでタイピングする手を止めたら先へ進めないので流れに任せて打ち続ける。それで自分の中で「何となくキリがいいな」と感じた所でパッとキーボードから手を放し画面を見てみると、自分でも何が何やらという状態である。最初のタイトルというか構想から1キロぐらい離れた所に居るようなことを書いている。

これは書いているとよくあることだ。というよりも僕の記録の殆どがそれである。最初にタイトルを決めるのはいいが、結局最後にタイトルを書き直している。ただ1つ例外があるとするならば所謂僕の中でのシリーズものである。例えば『古本巡りはスポーツだ!』シリーズ、これは昨日更新した。あるいは『駄文の円環』シリーズ。あとは『マッチングアプリ放浪日記』シリーズの3つである。これらは自分の中でシリーズ化しているので、軸がブレることはない。それに結構大雑把なタイトルなのでその範囲であればある程度の自由は担保されている訳で、伸び伸びと書けるところが良い。

だから実際この文章の着地地点が自分にも見えていない訳で、何だかどうすることも出来ないまま突き進んでいる。これはこれで毎回新鮮な発見があって面白いのだが、何だか指定されたことに対して書けないということは何だか致命的なような気がしなくもない。与えられたものについて文章を書けと言われた際に恐らく僕は書けるかどうか分からない。書くという行為がある程度自由が担保された行為でもある訳で、そこに強制力が働くとどうも書く気が起きないというか、面倒くさくなってしまう。

そういえば、昨日の記録でジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を購入したことについて記録を残した。ところで、『フィネガンズ・ウェイク』をご存じだろうか。これは所謂「ジョイス語」と呼ばれる形で書かれた作品であり、難解も難解を極めた作品である。原文を僕は読んだことは無いが、英語の他にも様々な言語が散りばめられており翻訳するのも非常に困難だったらしい。ところが、それを日本の!柳瀬尚紀という偉大な人が!日本語で!完訳したというではないか!これは読まずにはいられない。という訳で早速昨日から読みだしているのだが、これがまあ…何とも言えない…面白さよ!!

小説や何か文章を書く時、自身のそういった場面を想像して貰うといいのだが、大体主語があって、助詞があって、述語があってというように制度的な言葉の秩序みたいなのがある訳で。それを僕らは無意識的に書いている訳だ。あるいは話す時だってそうだ。主語述語やら目的語やら助詞やら、まあ色々呼び方はあるだろうけれども、とにかくそういった制度にまみれた言葉を僕らは使用している訳だ。ところが、『フィネガンズ・ウェイク』を読むとそんな言葉の制度が如何に馬鹿らしいかがよく分かる。

何だか何を書いているのか分からない。話の筋があったかどうかさえも定かではないのである。そうだな…どう表現していいのか分からないけれども、言葉の自由さみたいなものを感じたのね。一応、その中で主人公とかが居て何かしてっていうのはかろうじて分かるけれども、話の筋を追おうとしたら逆にドツボにハマり抜け出せなくなる。もうおこれは純粋な言語を愉しむものだと割り切れれば存分に面白い作品である。あと、僕は勝手に最近の吉増剛造の詩的なものを感じた。そう考えた時に翻訳者である柳瀬尚紀には頭が上がらない。吉増剛造を翻訳でやってのけているのだから。

それで、話を戻す訳だけど、僕はテーマを与えられるってのが書くことに於いては苦手なのね。何だかその制度みたいなものが無意識的に働いて、それに加えてまた言葉の制度みたいなものが加わって…。結局のところ制度にがんじがらめにされた文章が出来上がってしまう。ここが書くことの1番の難しい所でもあるんだなと思い知らされる。それは簡単な話で、言葉を書くという行為ですら文法という制度に乗っ取って書かれる訳なのだから、制度からいかにして抜け出したい、抜け出したい!って声高に叫んだ所で、言葉を使っている時点でもはや不可能なんだ。

1番怖いのは、無意識のうちに縛られている制度みたいなものだ。これが所謂「慣習」と呼ばれるものである。例えば、会社というよりも業界かな。所謂「独自のルール」的なことがあったりする。その濃淡は置いておくとしてもどの社会にも存在はする訳だ。それが自分自身の生活にとって何かしらの利益を与えてくれるのであれば別にそれはそれでいいだろう。だけれども、それで一部迷惑をこうむっている人間も居たりする訳だ。嫌々ながらもそれに向き合って仕事をしている人だっている訳だ。だが、本当の問題はここからだ。当初は嫌だと思っていた人も何日、何週間、何ヵ月、何年ともすれば「慣れ」てしまうことにある。

「慣れ」てしまうことで感覚がマヒする。僕等の当たり前は彼らの当たり前ではない。転職してこれを身に染みて思い知った。銀行はやっぱり厳しかったんだなと改めて思い知らされる。それはそれでいい経験だった訳だが、お陰で今の職場のちょっとした緩さについていけないことがある。「半年」も経つ訳だが未だに「慣れ」ない。というか「慣れ」たくはないかなといった感じである。「慣れ」てしまうことは言ってしまえば思考せずとも身体が勝手に動くみたいなもので、それを言い訳にどうとでも取り繕えてしまうから怖いと僕は個人的に思っている。

例えば「前の職場でこうだった」とか「前の会社ではこういう運用をしていた」というのが正しくそれで、前の会社のシステムや制度に「慣れ」てしまっている、いやそのシステムや制度に甘んじていることに他ならない。その制度に寄っかかって自分自身で考えることをしなくていいように気が付かないうちになっているのである。そうしてそれは次の会社でも同様のことが起きる。「慣れ」という危険なループから僕らは抜け出す術を知らない。どうしたものかなと日々頭を悩ませる問題である。


それで僕は個人的にだけれども積極的「無関心」な態度を取ろうと思っている。これは自分でも何を言っているのやらと言った感じな訳だ。説明しよう、出来るところまで。

無関心というのはとかく悪いイメージがある訳だが、これは積極的な「無関心」である。つまりは、見ているけど見ていない。分かっているけど分かっていない。という態度を取るということだ。これは新入社員と正社員の関係性が1番分かりやすいだろう。新入社員は「どうしてこうするんですか?」と聞いてくる。その時にどう答えるかということを考えるということを自分自身の中で同様の状況を引き起こすということが、僕にとっての積極的「無関心」である。

「慣れ」というのは経験に寄るところが大きいのでその人の個人的な経験に依拠してしまう。しかし、それを誰かに伝えるということを考えた時、これは非常に難しい問題である。なぜならば個人の経験を言葉で置換できたとしてもそれは実際の経験には劣る訳で、聞いている側としては実感、肌感と言ってもいいだろう、そういうものがやってこない。だから結局何が何だか分からなくなる。諦めて「こうだからこうすればいいんだよ」という何とも投げやりで、その人にしか通用しない方法論でしか伝えることが出来ない。

僕は個人的にだけれども、仕事なんて言うのはそもそも「代替可能性」が前提に在ると思っている。これは如何に自分が好きなことを仕事にしようが全く以て関係ない。どの仕事もそうだ。働くということはそういうことだ。例えば「この仕事は自分じゃなくても出来る」という経験は誰しもあるだろう。むしろそれこそが僕は仕事だと思うし、また個人事業主で本屋やったり古本屋を開業したりするでしょう。言い方は悪いけれども、「他の誰かだってやってるんだ」と誰か別の人間を想定する。終局辿り着くのは「別に自分でやらなくてよくない?」という結論である。正直、僕はこの結論には何も思わない。「ああそう」と言った感じである。

しかし、ここからが重要で、これらの状況を分かったうえで分からないという態度を取ることである。これが肝心だ。そんな状況は百も承知、だけれども俺は知らない態度を取る。分からない態度を取る。そうすることで別の視点から見られなかったことが見えてくるものがあるかもしれない。あくまで「かもしれない」だ。信用はできないぞ。

分かったうえで、「分からない」という積極的「無関心」の態度で臨んでみると意外と自分が見落としていたことや、今まで「慣れ」で済ませていたことに対して疑問が出る。例えば「もっと早いやり方があるんじゃないのか?」「こんな細かい書き方してたら他の人が見にくいよな?」とかその会社によって様々だろうが、そういったことが見えてくるような気がする。だから僕は積極的「無関心」になろうとするのだけれどもこれが中々難しい。

要するに、こんなに文章長ったらしく書いた訳だけど、簡単に言えば自分自身を常に疑うってことだ。「本当にこれであっているか」「この方法が1番やり易い方法なのか」など、とにかく疑い続けるということだと思う。積極的「無関心」と書いた訳だけれども、これも簡単に言えば分かってるけど分かってない演技をするってことだと思う。それが出来ればこういう「慣れ」みたいな問題とも向き合えるんじゃないかなとも思ってみたりする。

疲れたのでお終い。


さて、僕はどこまで来たのか分からない。何ならここまで書くのにかなりの時間を要している訳で、最初に何を書いたかなど振り返ることすら面倒くさい。スクロールすれば先頭に戻れるけれども、それもそれで何か嫌なんだよな…。結局制度に迎合してしまうような気がして、「話の整合性を保たねばならない」とか何とか感じて軌道修正しようとするのは勘弁だ。

だから、何を書いたかすら実はこの段階で定かではないのだが、とにかく「制度」特に無意識に刷り込まれている「制度」には気を付けた方が良い。こうして書いていることも無意識のうちの「制度」によって読めるし書けるのだから。

もしも、僕らに言葉が無かったのなら…。

よしなに。





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