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雑感記録(173)

【駄文の円環 Part2】


週末。何かある訳でもない。いつもの日常である。

今日もいつも通りに仕事を終え、いつも通りに帰宅し、いつも通り家事をこなし、そしていつも通りに眠りにつく。そうして再び朝を迎える。このサイクルの中で生きているのだから何も起きる前兆などありもしなければ、そんなことは僕にとってさして問題ではない。要は「慣れ」というものである。しばしば何も起こらない日常の尊さを謳う人たちがいるけれども、あまりにも何も起きない日常だと辟易としてしまう。刺激を求めることは悪いことなのだろうか。

今日も何事もなくただデスクに座り仕事をこなしてきた。別に誰かと深い話をする訳でもなく、表層的な話をしていた。しかし、表層も重ねて行けば厚い層にはなって深度を持ちうるのではないかとも思ってみたりする。ミルクレープ。あれは美味い。僕は甘党である。あれは1枚1枚薄い皮を上から重ねている。その作業は難しく、そして何よりも難しい。皮を破らずに乗せ加えてクリームを塗っていく。尋常な作業ではない。僕は作ったことなどないが。

先程から僕は「表層」「表層」と書いている訳だが、そもそも"どこの"「表層」のことを言っているのだろうか。僕は「うわべの」という意味あいで使用しているが、辞書的に言えば「表面の層」という事である。先のミルクレープで言えば、1枚1枚の薄皮のクリームが塗りたくられる平面を「表層」と僕は想定して書いた。しかし、これは決して「うわべの」という意味ではないことは言うまでもない。僕は自分自身でつくづく思うが、例えが非常に下手くそである。

とにかく、その「うわべの」会話をしていくことで、いかに乏しい(?)中身であっても(?)重ねて行けばそれなりの厚みを持った会話になるんじゃないかなということを書きたかったのである。しかし、厚みを持った会話ってそもそも何でしょう。乏しいとか中身のある/なしというものは個人的な感情の領分を出る訳ではなくて、あくまでその人に帰結する。つまり、こういうような書き方をするということは、僕自身が「中身のない、うわべだけの会話が重なって厚みを持つことなどありえない」と思っていることの何よりの証左であるはずだ。


話をしていても何だか、僕は浮遊している感じが拭えない。どう表現すればいいのか難しいところだが、話している僕は僕ではなく「僕」という他者なのであるということを言いたい。最近再び柄谷行人に対する熱狂が蘇ってきてしまったせいもあるだろうが、ただそれを抜きにしても、会社に居る僕と、1人で居るときの僕は少なくとも別人であることは言うまでもない事実である。

もっと言ってしまえば、こうして書いている「僕」と書きながら読む「僕」と考える「僕」と会社で働く「僕」と……と様々な「僕」が存在する訳だ。つまり僕は何人もの「僕」を抱えていることになる。多重人格では決してない。多重人格はそれぞれ自我を持っていて、それぞれがそれぞれの意志によって動かされる。僕がここまで表現している複数の「僕」と言うのは仮面みたいなものだ。詰まるところ、僕を含めた大勢の人たち、いや全員が仮面を持っているのである。そのレパートリーが多いか少ないかだけの問題である。

平野啓一郎の「分人思想」について過去に読んで、面白いなと思ったが実家に置いてきてしまったので今この部屋を探しても発見できない。どうしたもんかなとも思うが、忘れてしまったのならば仕方がない。もう1度読むしかないのである。だから僕に語れるのはここまでという事になる。僕が語れる物事と言うのは数限りがあり、しょぼい人間であることが痛感される。

僕は本を読んでわりと忘れるタイプの人間だ。というよりも「忘れて当然」という気持ちで読んでいる。人は忘れる生き物だ。もしも「何かに使うから」「何かを論じるから」ということであれば覚えればいい。それだけの話だ。恥ずかしい話だが、僕はどうも忘れっぽい人間なので、同じ本を何度も何度も開くことが多い。時間の無駄である。でも、僕は何かを論じることが仕事ではない。

じゃあ、仕事でなければ覚える必要はないと?僕は別にどっちでもいい人間だ。別に覚えたきゃ覚えればいいだけの話だし、読んで愉しみたいっていう事であれば普通に愉しんで、忘れたら読み直せばいいだけの話である。読書のいいところは誰にも咎められないところにある。何度でも読み返したって怒られはしないのだから。ただ無論、文筆活動を生業にして生きている人達にとっては咎められる場面も当然にある。例えば誰かとのパネルディスカッションで「この本について話をしてください」と言われ、前提としてその本にまつわる周辺知識やその他の本について知識は入れておかなければお話にならない。

でも、僕はこうして個人的に書いてる訳で、当然に大勢に見られる訳だけれども、この文章を書いているその過程については見えない。もしかしたら辞書片手に書いているかもしれない。もしかしたら本を片手に書いているかもしれない。もしかしたら全て暗記して書いているかもしれない。あるいは…ということを考えたらキリがないのである。ちなみに言うと僕はいつも書く時は手元に数冊の本を置いている。また、「これを引用したい」という場合には部屋の本棚から漁って手元に置きnoteを書くのである。

この記録はタイトルにもある通り『【駄文の円環 Part2】』であるので、手元に数冊の本はあるが、こういう文章を書く時は大体頭に浮かんだ言葉をただつなぎ合わせて書いている。何というかわりとのびのび書いているのだ。「駄文を書く」というある種暗示ににも似たものを僕自身にかけているので、どんな文章でも関係ないのである。


先にも少し触れたが、最近は柄谷行人の著作を再び読み始めている。しかし、これは何度目かもう自分でも分からない。何回も何回も何回も読み続けているので、本当に何度目の正直か分からない。でも、それでも面白いからしょうがないのだ。僕は柄谷行人の書く文章が好きである。それ以上でも以下でもない。

柄谷行人という体験をしたのはいつだったか。と書いてみるのだが、僕の文学的経験なぞの殆どは大学時代に育まれているので、大概が大学の思い出となる訳なのだが…。それで、初めての柄谷行人は何だったか。まず1冊目は『マルクス その可能性の中心』である。

単純にマルクスの「価値形態論」について学びたい人が居ればぜひこれを読むことをオススメしたい。「価値とは何か?」ということを考えたい人が居るのであれば、ぜひ1度読んでみるといいだろう。ニーチェの概念の話から導入。そこからマルクスに於ける、所謂「弾き出された価値体系」の話が続く。非常に面白い作品である。

次の体験は『日本近代文学の起源』である。

これは授業で1冊を読み込んだ。いい思い出である。特に言文一致体に於ける論考は面白かった。加えてここにフーコーの「告白」という制度に関するところも非常に面白いなと僕は思っている。実はこの作品をもう1度読み直そうとしたことがあり、実際に読んだのだが中々その面白さが当時より薄れてしまった感じがする。それでも、やっぱり柄谷行人の書き方が、文章が好きだなと言うところで惚れ惚れしてしまう。「認識論的布置の転倒」というあのパワーワード。

大学生の時は主にこの2冊が中心にあったような気がしなくもない。他にも色々読んできたとは思うのだが、僕の中ではこの2冊が思い出深いのである。本のタイトルや本の装丁を見るだけでも、あの頃の記憶が蘇ってくるのである。忘れ去られた記憶とでもいうのか、そういったものが堰を切ったようにあふれてくるのだ。

柄谷行人の文章にはある種の優しさというか、分からないけれども分かる!というような不思議な感覚を与えてくれる。これも説明するのが実は僕にとって難しい。ただこれも過去の記録で書いたことがあるかもしれないが、とにかく彼の文体は優しい。優しいが故に厳しい。そういう文章が堪らなく僕の知的好奇心を擽るのである。この良さを!どう!説明出来たら!いいのか!

しばしば、難しいことを簡単に説明できる人が凄いみたいな風潮がある。まあ、これについては過去の記録で「そんなわけあるか!」と文句を書いた。しかし、柄谷行人は正しくそれをやっている。確かに語っていることは難しい。内容として難しい。しかし、それでもすんなり読めてしまうその文章力に僕はやられてしまったのだ。

勿論、思想性や考えの相違などで、あまり好きではないという人が居るかもしれない。ただ、僕が言いたいのはそういうのを抜きにして、純粋に(果たして「純粋」なる概念が存在するかは置いておくとして)文章が好きである。書き方が好きなのである。柄谷行人の書く言葉が好きなのである。僕は柄谷行人の言葉に救われたことがしばしばあるのだ。


延々と柄谷行人の作品に対する愛を語っても仕方あるまい。終いにしよう。ただ、僕は『意味という病』に収録されている古井由吉論に於ける言葉に僕は何度も救われている。ある意味で僕が歪曲してるのかもしれないが、しかし、その言葉に僕は救われたのである。

「後へ戻ることで前へ進もうとしている」

何も小説や詩だけが美しい言葉を遺す訳では決してないのである。それは哲学書も然り、またこのような批評も然り。言葉に溢れている世界では、あらゆる言葉が、あらゆる人によって輝きを持って眼前に現れるという現象は往々にしてあるはずなのだ。そして、その言葉に動かされて何か自分自身が変化しようとしていることに気づく。その瞬間こそ掛け替えのない時間であると僕には思えて仕方がないのである。

もはや何の話を書こうと思っていたのか忘れた。

そうだな、ここ最近はだから柄谷行人をもう何度目か分からないけれども読み直している。今は『探究Ⅰ』と『世界史の構造』を読んでいる。本当なら『トランスクリティーク カントとマルクス』を読んでから『世界史の構造』を読めばいいんだけれども、『世界史の構造』の序がそれの反復になっているのでそこに任せることにしてしまった。

まあ、気が向いたら読んでみるといいんじゃないかな。前も掲載したけど、柄谷行人のインタビュー記事。ぜひぜひ。

今日も今日とて駄文の嵐。2回目。常習犯。

よしなに。


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