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雑感記録(176)

【所謂「書込み問題」について】


今日、実は物凄く嬉しいことがあった。それは昼休みに行った澤口書店で、何と!何と!兼ねてより蒐集している『中野重治全集』の持っていない巻、第16巻と第22巻が店頭に並んでいるではないか!?僕はテンションが上がった。それで値段を見てみると、これまた!何と!200円だと…。僕は心の中で発狂していた。のたうち回るぐらいの喜び。これは表現が難しい。

しかしだ、ここで一端自分を落ち着かせる。いやいや待てよ…。

そもそもAmazonで僕は『中野重治全集』をちまちま購入しながら集めているのである。その際の購入価格帯は10,000円ぐらいするのだ。1冊あたりね。でも、それを、200円で売るのはきっと何かがある。そう思った僕はパラパラ捲る。それで僕は納得した。なるほど、そりゃ200円にはなるわな。

そう、表題にもある通り、書き込みがやたらと多くなされていた。殆どのページに鉛筆で書き込みがしてあり、中には目次のタイトルを二重線で消してご丁寧に(!?)ボールペンで修正までしてくれちゃってる。正直、買うかどうか迷いに迷った。僕は書き込みがされている本は嫌いなのだ。しかし
こんな破格で買えるのなら…。我慢すれば別に読むのにも支障はないし、最悪、鉛筆の所は消しゴムで消しながら読めばいいし…。

気が付けばレジに並んで400円支払っていた。


しかし、購入して嬉しい反面、どうも納得できないというか…。気持ちよく「買ったぜぇぇぇ‼‼‼‼」とは言えない、しこりみたいなものがずっと残っている。昼休みの間中、僕は悶々とした気持ちを抱えながら神保町を闊歩する。脇に全集2冊を抱えたスーツ姿の男は街行く人にどう見られていたのだろうか。何だか複雑である。

だったら、買わないで、妥協せずにいい値段がしてもAmazonで購入すればいいじゃねえかという話である。至極、その通りである。それを言われるとぐうの音も出ない。でも、それでも…見つけてしまったのだから仕方がない。と書くのなら文句を言うな!という話なのだが…うーん…。やっぱりAmazonで買いなおすことにしよう(明日もう届くって!Amazon凄すぎ…)。僕はそのぐらい「本への書込み」が大嫌いなのである。もはや嫌悪の対象である。

僕は本当に本に書込みをする人の神経が分からない。僕はそれぐらい本に書込みをされるのが大嫌いである。

別に書込みをするのは勝手だ。別に書込みしたきゃ勝手に書いてればいい。問題はそこではなく、そこまで書いたのなら自分で最後まで責任もって処分しろとは思う。一言で言えば「売るな!」という事である。書込みするならリサイクルに出せ。古本屋とかに売るんじゃねえ。と僕は思っているのである。古本ヘビーユーザーとしては毎回毎回腹立たしく、僕にとっての由々しき問題なのである。

僕はね、何も「書込み」そのものが悪いってことを言いたい訳じゃない。先述したが、別に書込みしたきゃ書込みすればいい。ただ、その書込み後の本を売るなってことを言いたい訳である。自分で購入したんだから最後まで責任もって面倒見ろよってことを言いたい。仮にその責任もって面倒見た結果が「買い取り」という事であるなら、僕ははなから購入するなボケと言いたい。何とも本に対して無責任な人が多いのではないか?何と言うか、資本主義に汚染されたというか…僕の嫌いな商品的本として…。


僕だって小学生や中学生、高校生の頃などは教科書などによく直接書込みしたものだ。よく作者の顔写真にイタズラ書きをしたものである。そしてそれら教科書は年齢を重ねるごとに、部屋の片隅に追いやられ終いには使われなくなる。大概、本というものはそういうものである。ここからが1番考えなければならない重要なことである。

本と言うのも貨幣と同様に蓄積が可能である。しかし、貨幣は当然の如く「何かと交換できる」という質権を持っている。ところが古本にはそんなものはない。正直に言えば、持っているだけ損するといっても過言ではない。ただし、これは資本主義の現代において言えることであり、果たして僕がこうして「持っているだけで損」と言うのが本当の意味に於いて損かどうかは検討の余地があることを付言しておく。

そうすると、古本の場合には3つ程度の選択肢が考えられる。1つ目は「買い取り」、2つ目は「譲渡」、3つ目は「処分」。「売る」ということについては後に述べたい。先に「譲渡」と「処分」について触れておくことにしよう。

まず、「譲渡」に関してだが、教科書のようなものであれば後輩や親戚の人に渡すことが考えられる。しかし、「譲渡」と言うのは詰まるところ無償で行われるものであり、大きくいってしまえば贈与と成り得る。加えて贈与をしたということは、無意識のうちに贈与された者は贈与した者に対して何かしらのお返しをしなければならないという心的負担が生じる。まずそういった意味であまりやりたいとは僕個人としては思わない。

仮に「欲しい」という人が居たなら僕はあげる。別に贈与とかそういう関係なしにあげる(と書きつつも、本を送る行為そのものが贈与なのであり、その制度から逃れるという事を考慮に入れなければその関係性からは逃れられない)。読みたいと思っている人に読まれる方が本も本望であろう。だが、この贈与の支配的関係が生じてしまうという事を考慮に入れるならば、正直あまりやりたくはないかなと思ってしまう。ただ、どうしても読みたいという人が居れば仕方がないとは思う。しっかりと読んでくれる人の手元に渡ること程嬉しいことは無いからだ。

次に「処分」である。何なら僕は積極的にこの態度を取りたい。「処分」というと些か危ういような表現ではあるかもしれないが、単純にリサイクルするという事である。再生紙にして新たな形で世の中のために役立ってもらう。僕はこの方が良いんじゃないかなと思っている。最終的に本をどうにかしなくちゃならないってなったら。

自分が書込みしまくった教科書や本が仮にあったとして、それを「譲渡」あるいは「買い取り」などして他人に見られることがまず以て恥ずかしい。こういう場とは違って、所謂固まる前の生の思考を見られるのは僕的には恥ずかしいことこの上ない。何だか裸を見られている気がするのである。元々、そもそもの話として僕が見られることが恥ずかしいのかもしれない。永遠に葬り去るという訳ではないけれども、でも見られるのは嫌だ。

さて、いよいよ今度は「買い取り」されることに着目しよう。

「買い取り」という場合、これはあくまでも個人的な意見なので真に受けないで欲しいのだが、あまりにも「守銭奴」的態度過ぎて嫌になってしまうのである。ハッキリ言ってしまおう。金にがめつすぎ。

で、こういうことを書くと「金にがめつくて何が悪い」「金儲けして何が悪いんだよ」とかいう阿保みたいな輩も出てくる。違う。そういうことを言っていない。つまりは「守銭奴」的な態度が気に食わないというだけであり、別に儲けたければ勝手に儲ければいいと思うし、勝手にがめつくしてればいいんじゃないって思う。ただ、ここで考えて欲しいのは、そもそも書込みだらけの本にいくらの価値があると思ってるんだ?という話である。

もう少し分かりやすく説明しよう。例えばだ。古本が家に沢山あってこれを売りたいですとなったとしよう。全ての本に書込みがしてあってそれを全て買い取って貰いたいとする。それは果たして高く買い取って貰えるだろうか?あるいはそのどれも書込みは一切なく状態が綺麗だったとしたら高く買い取ってくれるだろうか?これは普通に考えれば大体の人が分かることだろう。要するに、書き込みされている本を買い取って貰ったって、高く買い取りされる訳じゃないってことだ。それだったら綺麗な状態の方が当然高く買い取って貰えるはずだ。

そんなことも考えず、ただのべつ幕なしに「買い取ってくれ」、しかも「高く買い取ってくれ」なんてあまりにも傲慢と言うか、虫が良い話である。たった数円、あるいはタダも同然の本が沢山あるからと言って書込みだらけの本を一縷の望みに掛けて高額で「買い取って」貰うなんて守銭奴そのものじゃないか。仮に書込みとかの状態が酷かったら「いや、これ買い取れませんね」ってなる訳でしょう?それで結局「処理」するでしょう?その労力無駄じゃない?

その何ていうかな、「ちょっとでも金をせしめてやろう」みたいなのが僕は凄く腑に落ちてない。何なら嫌悪感すら感じる。自分が金を掛けて買ったんだから、少しでも元は取らなきゃみたいなその魂胆と言うかが気に食わない。そういう考えを持って買い取って貰おうとするのなら、僕はそもそも本を買うなよって思ってしまう。あんたが書き込まなきゃ高く買い取ってくれただろ、この阿保たれめ。って言ってやりたい。


そのだからと言って、僕は「買い取り」が悪いってことを言いたい訳じゃない。自分自身で「処分」出来ないんだったら当然に「買い取り」してもらうという選択肢が出てくるのは至極当然だ。ただ、そこで馬鹿みたいに書込みだらけの本を買い取って貰おうとする輩共を僕はただ哀れんじゃうっていうただそれだけの話である。

しかしだ、これで僕の最初の回想に戻ってくる訳だが、「買い取り」がなされたなら、その商品は当然また別の誰かの手に渡る。その時に「うわ、綺麗な状態で読みたいわ」と僕はなるのだ。少なくとも僕は。中には書込み本を蒐集している人も居るから一概に言えないのだけれども…。

「古本なんだからそれも承知の上で購入するもんでしょ。馬鹿はお前だ。」

確かにそう。もう仰る通り。別に僕も経年劣化とかでボロボロでとか匂いがとかは気にしない。だけれども!やっぱり書込みだけはどうも許せないのだ。別に知らない人の書込みを見て何になるのという話であるし、本文に直接書込みがなされているのを発見すると怒り心頭である。お前は読み易くても、僕は読み易くない。だから、書込みを本に直接するなら、その本をリリースするのではなく自己完結させろ!ってことを声に出して言いたいのである。

しばしば、「本に直接書込みすると内容が頭の中にすんなり入ってくる」とかいう輩がいる。また加えて「読み返した時に自分がどう考えていたかが分かるからいい」とかいうことを言う輩もいる。僕は彼らに真っ向から反対したい人間である。

「本に直接書込みすれば内容がすんなり入る」と言うのは、言い方を変えればこうだ。「本に直接書込みしねえと内容が覚えられない」という事である。別に本の内容を覚えるとかそういうのであれば別にノートに書けばいいだけの話だし、そもそもその本を絶対的に覚えておかなければならないのかという前提から始まる。これは直近でも記録は書いたが人間は忘れる生き物だ。忘れたら何度でも読み返せばいいのに。その時間ですら無駄だというのか!?哀しいわ、ホント。読書行為もついにと言うか、大分前から侵食される訳よねそら。

それでもっと言うと、大概そこに書き込んだら満足してしまうので、読み返すことなんてそもそもしないだろう。何かに使うという事がなければ。むしろ、自分が書きまくったごちゃごちゃした本を読めるというのであればそれは凄いことだ。さぞご立派な読書家であることだろう。心の底から尊敬するだろう。書込み本を売らなければ。


だから僕は基本的に本に書込みをしない人間である。もし仮に書き込んだ本があるなら「買い取って」貰うことは決してしない。迷わず「処分」する類の人間である。先のこれから読もうとするための読者、よりよき読者に対する礼儀として僕は書込みしたくないのである。

ただ、その場の自分自身の我欲のみに従い、その場で自分自身のみが満足すればいいやという気持ちのせいで、後々になって僕みたいなその弊害を思いっきり被る読者も少なくとも存在しているという事を、今の特に年老いた老人読者たちには言っておきたい。いずれ僕もそういう立場になるのだから、せめて本は丁寧に残しておきたいものであると常々感じている。

だから僕の本には一切の書込みがない。僕はノートに取るか、何度も何度も読み返して反復して頭に叩き込むようにしている。そもそも「頭に叩き込む」ということ自体が僕の読書ポリシーに反するのだが、必要な場合はそういうような形で対応するようにしているのである。

この問題も畢竟するところ、どれだけ想像力を持てるかの問題に直結してくるような気がしてならない。この購入した本はいずれ手放すということは確実に想定できる事態である。そうしたらそのリリースの仕方だって考えなければならない。それは当然である。何故なら我々は死に向かって生きているからである。いつかその本たちが自分の元から手放す前に自分が先に逝くかもしれない。あらゆる可能性を考えることが大切なのではないか。

況してや、本を売って、買い取ってもらって守銭奴的態度を取るのならなおのこと、そういった想像力が必要になるのではないのかと思われて僕には仕方がないのである。結局その書込み本を抱えた古本屋だって売れなかったら困るだろう。ずっと店の在庫として置いておくわけにもいかないだろうから、資本主義的に見れば無駄なことである。

そういう資本主義云々とかを抜きにしても僕は絶対許さないけどね。


まあ、こんな愚痴を並べても仕方あるまい。もう僕は購入してしまった訳なのだからどうすることも出来ない。リリース方法を考えるだけだ。しかし、考えるまでもなく「処分」だ。

仮に僕がこれをまた別の本屋に買い取ってもらったとして、それが誰かの手に渡る、あるいは買われず廃棄処分にされるのならば自分の手で葬ってやるのが筋だろう。これが購入した者のある種の責任であるように思う。で、こういうことを書くと環境問題が云々かんぬんとか馬鹿みてえなことを言ってくる輩ももしかしたら居るかもしれない。勿体ないとか言う人も出るかもしれない。しかし、よくよく考えてみろ。勿体ないことさせてるのは誰?僕?

加えて、こんなようなこと書いてると、「お前は古本とか好きじゃねえだろ」とか「本が好きであることを装ってカッコつけてるだけだろ」とか言われかねない。まあ、そんなことを言う奴らより僕は真面だとまだ思っている。何故なら、蒐集された後のこともしっかり考えているからだ。好きだからこそこういう態度を僕は取るのだ。

本の最後まで看取れてこそ本好きなんじゃねえの?

知らんけど。

とにかくだ。書込み本にイライラしながら過ごした、そんな1日でした。僕は絶対に許さん。

そんな話。よしなに。









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