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雑感記録(241)

【合言葉は「めんどくせぇ!」】


何だか随分と遠くまで来てしまった気がした。

冷静に考えてこれが241本目となる訳で、つぶやきなんかも入れたらもうちょっとになる訳でしょう。まあ、よくもここまで書けたもんだなと感慨に耽ってしまった。実際、自分がここまで書けるとは思ってもみなかったし、好きとは言え、続けるのは中々難しいもんだよなと自分で自分を褒めたくなってしまう。凄い、自分。これで自己肯定感も爆上がりだね。

そんなことはさておき、不思議なことでもないのだけれども、一向に文章が上達している気配が無いんだな。まあ、「文章の上達」というか到達点をどこに置くかにもよるんだろうけれども、何だか僕の書く文章は自分で読んでいて「これ本当に上達しているのか」と疑心暗鬼になる。だが、僕は自分の文章で飯を食おうだなどと、そんな身の程知らずなこと出来る訳もない。況してや、こんな駄文で有料記事を書いてみようだなんて笑止千万な話だ。

そういえば、最近自分は身の丈を知ったということを書いた。正しくそれなんだが、僕は好きなように適当な文章は書けるけれども、誰かの心を動かすとか、誰かの世界をほんの少しでも変えられるような言葉を書けないんだな。そもそも、そういう目的を持って書こうと思ってないから、それはそれで良いのだけれども。でも、自分自身で例えば誰かに何かを伝える文章を書く時に「相手の何かを揺るがす言葉」というのが書けないんじゃないかと思っている。

例えばこれが相手が1人だったらば難しい事この上ないけど、出来なくはない訳だ。相手をよく観察し様々に検証したうえで書けばいい。だけれども、小説家と呼ばれる人間は多数に向かって開かれている訳でしょう。つまり、誰か1人に宛てて書かれたのではなくて、読者という不得意多数の人間に向けて書かれた訳だ。これもある意味で「優しさ」な訳だ。

これも記録で残したけれども、まだこの世界は「優しい」んだなと思う。どこかの誰かが泣いていても、どこかで誰かが苦しんでいても、誰かどうか手を貸してくれようとするじゃない。実際に出来ているかどうかは別としても、でも少なくとも「何とかしたい」っていう気持ちは抱く訳でしょう。それに世界各国でメディアなりSNSなりあるいは本という媒体でもいいよね。そういったものを駆使して僕らに情報を伝えようとしてくれる。

そういう中で、それを利用して悪さをする奴もいる。「優しさ」を利用して悪事を働く。例えばフェイクニュースと言われるものだったり、能登半島地震の時に自衛隊を装って窃盗したり、あるいは避難所での性被害問題とかある訳でしょう。何だかそれが僕は許せないのね。当たり前なんだけれども。どうしてそんなことが出来るんだろうってずっと思っていた。というよりも、これは思いやり以前の問題で、何度も過去の記録で散々書いているが、想像力のない馬鹿がやることだと思う。

僕は自分自身に想像力が多分ないと自覚している。だから日々、気を付けながら生きている訳だ。だが、そんなことを考えなくとも当たり前に「めんどくせえ」と思ってしまう。つまり、ある意味で想像力の育成には怠惰な心持も必要である気がしているのである。「めんどくせえ」これは合言葉である。「優しさ」と「想像力」そして「精神的豊かさ」を育む超絶キーワードだ。

Q:横尾さんは、よく「メンドクサイ(面倒くさい)」とおっしゃいますね。その効能を教えてください。

Y:一種の悟りだね(笑)。もう面倒くさい、ギブアップ、もういらん、何もしない。みんな、何か自分の自我を投入して、これ作ってなんとかかんとかーって、するじゃない?それを全部放棄して、いらんっていう、それはある種の諦め、諦観でもあると同時に、悟りへの道かな(笑)っていう気もしますね。

横尾忠則「裕福なお金持ちの家の美人の飼い猫に生まれ変わりたいね」
『GENKYO横尾忠則-A Visual Stor原郷から幻境へ、そして現況は?』
(国書刊行会 2021年)P.16

これは僕の中でいつも心に秘めていることである。横尾忠則のこのインタビューに出会ってからというものの僕の合言葉も「めんどくせえ」に決めた。しかし、これが功を奏して色々と楽になったというのもまた事実である。周囲からは顰蹙を買うかもしれないが、これが結構大事だったりする。

人間は生きているだけで立派だ。皆それを忘れがちだ。だけれども、様々なしがらみ、例えば家族間の関係であったり、友人関係であったり、自身の悩みであったり…。色々とある。人間そういった時に大抵「どうして自分なんか」というように自己存在の否定をしがちである。だがそんな時こそ「めんどくせえ」と声に出して言ってみて欲しい。相手に何と思われようが「めんどくせえ」と言ってみよう。きっと心が楽になる。確証はしないよ。僕は楽になったってだけだからね。

色々と考えて煮詰まった時、「めんどくせえ」と叫んでみよう。そうするとある程度の距離が保てるので、意外と俯瞰して物事を捉えられるようになる。大概、そこで辞めてしまえるものだったらそこまでのものだったということで諦めも付くだろう。「諦める」という言葉だと正直語弊があるような気がするんだな。つまりこの「めんどくせえ」なる言葉は「いったん距離を置く」ということに他ならない。ここがミソである。

1度何かを始める際に「めんどくせえ」と声に出して言ってみよう。そうするとその事物との人工的な断絶を図る。そこからもう1度考えてみるもよし、それで「ああ、もう考えたくない」ってなるんだったら辞めればいい。この断絶が僕は大切だと思うんだ。距離を置くこと。それも一時的な距離を置くこと。ダラダラと続けて煮詰まるぐらいならスパッと距離を置こう。

これが「優しさ」「想像力」「精神的豊かさ」にどう繋がっていくのか。

それはぜひ声に出して言ってみて欲しい。

あまり大きな声で言っちゃだめだぞ!小声でばれないように、あるいは1人になったことを確認してから「めんどくせえ」って声に出して言うんだぞ。


なんだか今日は何を書きたかったのやら。

よしなに。





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