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雑感記録(316)

【名づけえぬもの】


朝目が覚めて、目が覚めたという事実に安堵する。「今日も生きている」というそれだけでただ安心する。あらゆるものはそこに在るだけで立派だと僕は常々感じている。「あらゆるもの」である。人もだし、自然もだし、事物もそうだし。と書くが、その中には「よく分からないもの」がある。僕はそういうものも包含して立派だと感じる。

それをベケットの小説のタイトルを拝借して「名づけえぬもの」とでも表現しておくことにしよう。世の中にはそういう事物の戯れみたいなものが方々に転がっている。僕は人と接したり、本を読んだり、散歩することでそこに身を投入している。世の中には「名づけえぬもの」によって溢れている。最近本当にそういう事を感じるようになった。


今日も会社に向かう前、僕は窓から外の景色を見ながらタバコを蒸かす。別に大した景色ではない。どんよりした暗い雲に覆われて、民家はただ静寂である。そこにゴミ収集車特有のにおいが時たま僕の方にやってきて、それをタバコの煙で相殺する。網戸と見つめ合い、ただ煙を蒸かすだけである。雨は…降っているのか降っていないのかよく分からない。中途半端な雨である。僕は降るんだったら思いっきり降って欲しい反面、降らないんだったら降らないようにして欲しいといつも感じている。

傘を持ち歩いて出社するのは面倒くさい。ただでさえ満員電車に乗るのだ。傘を持っていたらそこに同乗するお客さんにも迷惑だし、僕自身も乗りにくいので困りものである。自宅を出る前に僕は迷う。大きい傘を持っていくか、折りたたみ傘を持っていくか。些細な問題ではない訳だけれども、悩ましい1つの問題であることは言うまでもない。選択というのは人を悩ませるものである。

この時期は「梅雨」と呼ばれるらしい。

語源的には僕はよく分かっていない訳だが、調べてみると色々とあるらしい。例えば物が湿り腐ることから、「ツイユ」(潰)の意味としてや、それと同じ流れで「黴雨」と書いて「つゆ」と読ませるなど、様々な説があるらしい。別に僕は言語学者でも辞書編纂者でもないからさして興味はない。僕が興味のあるのは、「何故梅雨(黴雨)という名を与えようと思ったか?」という点にある。名前の語源云々ではなく、そこに名前を与えようとした、あるいは与えるその行為に僕は疑念を持っている。

名付けるというのは考え物だ。それは簡単にそれであることを示してしまうからである。その内実や広さ、その奥にある何かをたった一言で表現してしまうからである。例えば「海」。海を見て、「これは海だ」と言うだろう。しかし、この海には語る主体の海を表現しているかと言われると、そんなことは決してないのである。そこで発した主体、語る主体の「海」と字義的な「海」はまごうことなく乖離している。

これについて、僕は「何故、人は自己表現をしたがるのか」ということにも繋がってくるのではないかと考え始めている。


僕たちは自分の言語を持たない。それは昨日少し触れた問題意識ではある訳だが、僕らの言葉を話しているのではなくて、僕らがどう「語るか」ということがその本質であるように僕には思われて仕方がないのである。先述の通り、僕が語る「海」と言葉としての「海」は異なる訳だ。もしかしたら、僕の語る「海」はベーリング海を想像して語るかもしれない。あるいは、カスピ海という名ばかりの湖を想像し語るかもしれない。だが「海」は「海」である。それら含んで「海」である訳だが、どう頑張っても言葉としての「海」は僕が語る「海」を凌駕することは不可能かもしれない。

概念というのは危険である。そしてそれを表現する言葉はもっと危険である。これは柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』の最初の部分を読むと良いかもしれない。ニーチェのことを引き合いに出して概念について語っていた訳だが、これは簡単な話であり、殊更引用して話をする必要もないとも思う。一応僕なりの説明を書いておこうと思う。

概念というものは言ってしまえば、個別の事象を包含して規定するものである。つまり、1つ1つの事象について差異があるにも関わらず、それを無視して大まかな部分での共通項によるもので纏め上げる訳である。例えば先に僕は「海」で話をしたが、ベーリング海とカスピ海には明確な差異がある。また日本海にもオホーツク海にも差異はある。本来ならば1つ1つの事象について書かねばならない所を「海」として纏めているのである。

ある意味で、そういう概念から離れる為に、「語る」という行為、それが文字に書き起こされれば「書く」ということになるだろう。だから僕らが小説や詩や哲学や芸術などの分野というのは存在し続けるのかなとも思われる。振り落とされてしまった差異を掬い上げるその営みこそがそれではないかと昨日からずっと考えている。

自己表現に繋がるということは、それはこの話の流れを踏まえて言うならば、それは氾濫する言葉の概念から逃れ、個別化としての差異を示したいということに他ならないのではないか。ひいては、言葉への懐疑的態度。僕はそういう事なのかなと無理矢理に繋げようとしている。それが例え絵画やインスタレーションであれ、言葉を言葉ではない方法を以てして「語る」ということそのものではないのか。


何故我々は名付けようとするのか。

先にも書いたが世の中には「名づけえぬ」現象や事象などこの世に沢山溢れている。そしてそれに僕等は「○○現象」とか「○○効果」、「○○症候群」と言ったように名付けるのだろうか。それは僕個人の見解だけれども、ただ自分が知らないことに対して恐怖している、怯える人間であるからということではないだろうかと考えている。人間は自分の手の範囲の中で全てを明瞭化しないと済まないらしい。

勿論、名前を付けるというのは大切だ。例えば自分自身の子どもの名前を命名するのは大切なことである。しかし、彼らは生まれてくる子を知ってはいるが知らない。外に顔を出して初めてそれが自分の子だと認識する。でもその先はどうなるか親でさえも、そして本人でさえも分からない。「名前」を与えて家族の一員とする。名前という繋がりを与えるのである。だからこそ親たちはその名前に一所懸命に意味を込め、画数などで我が子に良い事が置き続けるようにと願うのである。

子どもに名を与えるというのは言い方を悪くするのであれば、親の管理下、ひいては家族の管理下に置かれることになる。可視化することで存在を「存在」として認識することが可能となる。言ってしまえば「言葉の呪術」みたいなものである。僕はこれを悪いとは全く思わない。それは1つの繋がりの証として、そして差異化の象徴だからである。

名前によって家族に縛られる訳だが、そこから一度外部へ出たとする。そこでは何もかもが一変する訳だが、そこで唯一繋がれるものは名前である。遠くに離れていても、1つの拠り所としてあるのが名前である。苗字はとなるかもしれないが、結婚したりすれば苗字は変わるし(夫婦別姓を称していればそれはまた別の話だが)、苗字は考えたら氏制度にまで遡らなければならない。僕にはそこまで遡る気概は無い。それに、名前こそ真に考えられて与えられた言葉であり、呪術だからである。

そう考えると、何かを名付けるというのは「何か自分と関係を持ちたい」という現れなのかもしれない。あるいは、「自己所有の欲求」か…。うーむ…どちらかというと後者っぽい気がする。何だかそんな気がしてきた。


「名づけえぬもの」それは畏怖の対象である。

それは自己が所有したいものから拒絶されているからである。どう頑張っても名付けることが出来ない。自分の前に明瞭性を以て現れない何か。目に見えないことが恐怖だ。名前という記号を以てして現れないが、そこに在ることは事実である。それを名付けるのではなく、如何にして語るか。僕はここが肝心だと思っている。

僕等が普段、生活していて何か恐怖を感じたり、世界で発生している物事に対して恐怖を感じるのは、僕は個人的に「名づけえぬもの」だからではないだろうかと考えている。それはもしかしたら「戦争」という概念で括られてしまうかもしれない。だけれども、概念では括れない細く、そしてもっと内奥にある「名づけえぬもの」が存在するのではないだろうか。

ただ、それを「名づけえぬもの」だからと言ってただ畏怖の対象として見ているだけでは意味がない。だからこそ僕は文章を読み、書くのである。分からせようとする文章などではなく、ただユーモアを以て語ること。これが今求められているような、そんな気がしてならない。仮に誰にも必要とされていなくても、僕は勝手にこの場でやり続けるけども。

何だか何を書きたかった文章だかよく分からなくなってしまった。これで終いにしよう。何だか最近、日中眠くて眠くて仕方がない。気圧の変化によるところが大きいのだろう。何だかなと思いつつも、今日も今日とて変なことばかりを書き記す。

よしなに。


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