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雑感記録(19)

最近、僕の周囲では結婚が相次いでいます。さらには子どもが出来たなどの知らせを受けることがしばしばあります。僕は今年で26歳になる訳ですが、中学の親友たちや高校の同級生たちがそうやって結婚しているとなると何故だか不思議な気分になります。

しかし、まあ当たり前っちゃ当たり前のことで、僕は学生時代しか一緒に時間を過ごしていない訳ですから奥の底まで見通せている訳ではありません。親友でさえ、たまに会って「最近どう?」という話題で始まって話をしますがその変化の驚きも勿論ですが、ノスタルジーに浸ることの方が多いかもしれません。

僕は過去に親友の友人代表で光栄にも挨拶をさせていただく機会がありました。本当に僕なんかでいいのかと思いつつも、一所懸命に悩みに悩んで文章を綴った訳です。一生に一度の経験ですから、下手なことは言えませんし、挨拶する以上は記憶に残るような挨拶にしたい。これは誰しもが思うことだと思います。

僕のつまらん記事を読んでくださっている方々はお分かりかもしれませんが、文学を勉強してきた者にとっては些かハードルが高い。前提として「文章のプロ」的な扱いをされてしまうからです。それはそれで光栄なことですが、しかし心的ハードルはやはり高い。

それでこの間、本当についこの間です。とある人から「結婚式の挨拶を作成したから添削してくれ。」と頼まれました。さらに注文が1つ。
「何かの本から引用して、カッコいい挨拶にしてくれ。」とのことでした。いや、さらにハードル上がってる気がするんだが!?と思いつつも頼ってくれてる訳だから邪険にもできない。僕が出ない結婚式ですが何とかして書きあげました。

その時に僕はかなりベタなんですが、『詩経』から引張ってきたんです。

關關雎鳩 在河之州
窈窕淑女 君子好球

【書き下し】
關關たる雎鳩は 河の洲に在り
窈窕たる淑女は 君子の好球

「關雎」『詩経』
※引用は米山寅太郎 鎌田正『漢詩名句時典』(大修館書店1980)P.284より

まあベタ中のベタですね。ただいきなり挨拶の途中で漢詩読み始めたらカッコいいかなと思って選んだ訳です。


話は脱線します。
この挨拶を考えていた時ちょうど『パリピ孔明』をNetflixで見てたんですね。

多分この場面だったと思うんですけど、これラップバトルしてる時の孔明なんですが、凄く個人的に何と言うんでしょうか、ビビッときたんですね。それは僕が元々Hip-Hopが好きだったという影響も勿論あるのですが、このラップバトルの途中で孔明が漢詩を読むんですよね。

正直言うと、別にその漢詩自体にはあまり何とも思いませんでしたが、このラップと漢詩を組み合わせるその面白さに心打たれたんです。まず以て「カッコいい」という印象を受けたんですね。

最近の音楽事情に詳しい訳ではないのですが、やはりHip-Hopなるものがアンダーグラウンドの世界から世間一般にも受け入れられていることの証左であるかなと思いつつ、加えて何故我々日本人がHip-Hopという音楽に対してすんなりと受け入れることが出来たのだろうって不思議に感じたのです。

今回はだいぶ前置きが長くなってしまったんですが、今日書きたいのは
昨今の日本人に於けるHip-Hopの受容のされ方」ということです。


【Hip-Hopの日本に於ける受容のされ方】

まあ、簡単に言えばですけどHip-Hopがなんで日本人にもすんなり受け入れられるようになったのでしょうか。不思議だと思いませんか。

恥ずかしながらまたもこう仰々しく書いている訳ですが、あまりHip-Hopの歴史を知らないので詳しいことは書けないのがまた痛いところではあるのですが…。少し思うところだけ書いてみたいと思います。

そもそもHip-Hopというジャンルは外国製な訳ですよね。所謂「ギャングスタアラップ」などと言われたりもしますよね。これジャンルなのかな?まあそこは置いておくとして、いずれにしろラップなるものはそもそもアンダーグラウンドから誕生した音楽な訳ですよね。

これらの映画を見てもらえれば大体イメージつくと思うのですが、まあ凄いのなんのって…。ドラッグ、セックス、ギャング……なるほどなという世界観が広がっています。ちなみに、これら全部実話に基づいている話ですからね。

『8Mile』はエミネムの話だし、『ストレイト・アウタ・コンプトン』はN.W.Aの話ですしね。何ならアルバムの名前を映画のタイトルにしていますから、そちらのアルバムも聴いてもらえるといいかもしれません。

日本に於いてもHip-Hopを牽引している人たちの多くは、アンダーグラウンド出身が多いのも頷けることだと思います。


さて、ここで問題にしたいのはラップをする側ではなくて、ラップを聴く側です。僕は自分で言うのも烏滸がましいですが、上記映画のような世界を全く以て知らないし、それとは無縁な世界で生きてきました。

それでも僕はそんな背後関係、つまりどこの出身だとかどんだけ悪いことしてきたとかそんなことはどうでもよくて、純粋に好きなんですよね。作品を作品そのものとして好きなんですよね。歌詞にはそれこそ色々と書いてある訳ですが、そのストーリーもさることながら言葉に痺れることが多い。

でもどうして僕はそれを受け入れることが出来たのだろうかと考えてみた訳です。そうして究極は多くの日本人が受け入れることが出来たのだろうかと考えてしまった訳です。

僕は個人的にですが、個人的な見解ですが
既に日本人の底にはラップを受容する素地が出来ていたのだと思っています。これはどういうことか?まあ簡単な話です。

簡潔に言ってしまえばこうです。
「漢詩および和歌、俳句の素養」というところではないでしょうか。

①韻②ダブルミーニング(あるいはもっと)


この2点に於いて非常に関わってくるのではないのかなあと考えてみたりしています。

漢詩なんかは恐らく韻の部分に大きく寄与していると思いますし、ダブルミーニング何て言うのは紀貫之が大成させたシステマティックな和歌、とりわけ「掛詞」による影響が大きいのではないのかなと。あくまで日本人にとってということですが。


とまあこんな感じで考えているというお話です。

よしなに。

最近、これ聴いてめっちゃ痺れました。


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