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私の人生とエモーショナルインテリジェンス 〜 My journey to Emotional Intelligence

みなさん、こんにちは!EQコーチのラーナです!
今日は私のこれまでの人生と感情・EQというテーマで書いてみました。幼少期から今までの経験と感情は深く深く結びついています。それらの感情が今の私を形作り、色々なことを蔭ながら教え、私を高めてくれていました。
この振り返りがみなさまにま何かヒントになれば嬉しいです。

<幼少期は怒りと共に>

私はモスクワの北西50キロに位置するチェルノゴロフカという自然豊かな小さな町で生まれました。ここは、ロシア科学アカデミーの最も有名な拠点の一つであり、私の父は物理学者で、当時は科学センターで働いていました。

当時両親は共働きであったため、私は祖父母に育てられました。当時の記憶は曖昧ですが、その祖父母いわく、私は決して楽な子供ではなかったとのことです。よく祖父母からは、私がいかに攻撃的で、自分の意見を曲げない子であったかを笑い話にします。ロシア(当時はソ連)のキオスクでチューインガムが買えるようになると、私はガムをもらうまで地面に寝転がり足をバタつかせて叫び続けたというエピソードもあります。誰もが顔見知りの小さな町でそんなことをすればどんなに恥ずかしかったか、今であれば想像できます。

ロシアでのその当時、私は自分の小さな世界の中心にいたのです。怒りが私を守ってくれるガーディアンの様なものでした。少なくとも、当時の私はそう感じていたのだろうと思います。

<環境変化で感じた悲しみの感情>

私が生まれたのは1990年4月1日です。その日、父はフランスのグルノーブルにある研究所で実験をしていました。私が生まれるという電話をその研究所で聞いた父は、最初「エイプリルフール」の冗談かと思い信じなかったそうです(笑)。しかし、父のそのフランスでの研究はフランスでの5年契約のきっかけとなり、私も5歳の時にロシアからフランスへ引っ越すこととなりました。

今思えば、フランスへの渡航は、私の世界を広げた最初の決定的瞬間でした。

チェルノゴロフカは、平坦な森と湖が広がる、それはそれでとてもきれいなところでした。しかし、グルノーブルはスイスに近く雄大なアルプスが有名で、私は窓から見えるアルプスにすっかり心を奪われました。(大人になって10年ぶりにグルノーブルに帰ってきたとき、ふと涙が出ました。アルプス雄大な自然に対する感動と懐かしさからでした...)

グルノーブルでは、公立の学校に通いました。言葉はすぐに覚えられましたし、友達もすぐにできました。しかし、大好きな祖父母と離れ、彼らのことを懐かしく思うことが多くなり、だんだんと心が離れていくのを感じました。フランスに引っ越して、全体的には幸せだったと思うのですが、悲しいこともたくさんあったのを覚えています。

今にして思えば、悲しみは、自分と他者とのつながりの大切さを教えてくれていたのだと思います。自分の世界が広がり、他者とのつながりを意識したことで、もはや世界は自分だけがいる小さなものではないと感じたのです。

<世間に馴染むことへの恐怖>

私が10歳のとき、父が日本の研究所に移ることになりました。父が日本に引っ越すと言ったとき、私はその意味を理解できませんでした。日本が地図上のどこにあるのかも、何が待ち受けているのか全くわかりませんでした。9月の初め、私たちはとても蒸し暑い日に日本に降り立ちました。

父が勤務することになる科学センターは兵庫県のたつの市という小さな町にありました。ここでも私は小中高、公立の学校に通うことになります。親の頭の中では、どこにいっても子供を公立に行かせるという考えは当然の様でした。10歳の私は日本語を全く話せず、クラスメートからはさぞ異質な存在に見えていたことでしょう。そこでは、人とのつながりに悩み苦しみ、自分の居場所がないような寂しさを感じながらも、溶け込もうと必死でした。

思春期を迎えた私は、未知の世界に戸惑い、恐怖を感じていました。カルチャーショックを受け、それまでは広がる一方だった自分の世界が、初めて狭まっていくのを感じました。

この経験から、逆に私は他者への共感を育むようになりました。周りの人が何を考え、何を感じているのかを強く意識し、それを感じ取ることができたのです。また、自意識が強くなり、自分の意見を言うのが恥ずかしくなりました。その一方で、それまではどちらかというと主役だった怒りは比較的穏やかな時間を過ごしていました。

しかし、泣きながらの受験勉強を経て東京の大学に進学してからは、初めて「人と違ってもいいんだ」と思えたのです。その思いを強くしたのは、留学でイタリアのミラノに行ったときでした。いろいろな人と出会い、再び自分の世界が広がっていくのを感じました。

<再び訪れた怒り>

大学卒業後、家族は今度はアメリカのニューヨーク移り、一方の私は東京に残りました。私は日本の総合商社でキャリアをスタートさせました。高収入の仕事に就き、20代で他社のエグゼクティブと一緒に国際的な取締役会に出席し、大都会東京の中心部に住んでいました。ある程度のことを手に入れたハズなのに、人生はうまくいっている感じはせず、私は幸せではありませんでした。その時は仕事も人生も、そして自分自身も嫌いでした。最初は、なぜ毎朝起きて会社に行くときに泣きたくなるのかがわかりませんでした。みんなは元気そうなのに。

今から思えば、その時の涙は悲しみのしるしではなありませんでした。それは、私の中に徐々に蓄積されていく怒りの仮面だったのです。

女性は怒りを見せてはいけない、その代わりに悲しみや涙を見せる方がいい、そんな社会的な考えに私たちは知らず知らずのうちに従っているのだと思います。男性はその逆、悲しみよりは怒りという具合に。私は、自分の感情の表し方と内面が一致しないことがあることを、経験を通じて学びました。

私のガーディアンである怒りは、私の価値観や大切にしているものを思い出さる役割があります。自分の価値観に合わない会社勤めをするのではなく、自分の道を切り開くことができると怒りは教えてくれているのです。

パンデミックは、私に警鐘を鳴らしました。コロナ禍で私は再び大切な人たちと離れ離れになり、孤独に陥りました。しかし、悲しみは本当に大切なもの、つまり愛する人とのつながりを思い出させてくれ、怒りは私の内なる勇気を奮い立たせ、飛躍することを後押ししてくれました。そして、私は会社を辞め、夫と暮らすために台湾に引っ越しました。

<すべてのことには意味がある>

会社を辞めてから、自分の人生の旅を振り返る時間ができました。そして私は、自分のこれまでの経験には全て感情が伴っていることに気づいたのです。私はセンシティブで、感情的で、ナイーブだと言われるかもしれません。私はそれを、自分自身と、自分の本能や直感とつながっている証だと考えるようになりました。

感情やエモーショナル・インテリジェンスについて学び始めてから、すべてが更に明確に理解できるようになったのです。

かつて、私は自分の感情に気づいていましたが、それが多くの混乱を引き起こしていたことも承知しています。

今では、ガーディアンである怒りが、私の中の原動力とつながり、自分の道を進み、世界を広げる勇気を与えてくれたのだと考えることができるようになりました。

悲しみによって、他者や生き物、自然とのつながりをどれだけ大切にしているか認識できるようになりました。

恐怖が現れた時は、その恐怖を恐れるのではなく、認識して受け入れ、恐怖を良き味方として考えることができるようになりました。


今ならわかります。エモーショナル・インテリジェンスは、単に人生で成功するためのスキルではなく、自分自身とつながるために私たち全員に与えられている贈り物なのです。

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