【京都からだ研究室】韓氏意拳から学ぶ"自然観"②(22/11/19)
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後藤サヤカさんが昨年2021年から主宰している、"自身のからだと心そして魂の調和をとりもどし、自身を活かすための"からだ・こころ・わたしを探究するコミュニティ"、「京都からだ研究室」。
前回10月の後期第1回に引き続き、小関勲さん(バランストレーナー、"ヒモトレ"創案者、韓氏意拳中級教練)をお招きして、「韓氏意拳から学ぶ"自然観"」をテーマに、後期第2回講座が行われました。
(前回10月のレポートはこちらから ⇓ )
求めよ、そうすれば与えられる(問答一如)
講座当日から1週間(本記事作成時点)が経って、この日のワークショップのことを振り返って思い出してみると、私も含め参加者の皆さん一様に「難しい、分からない…」と、首を傾げるばかりでした。
この、「なぜ私にとって韓氏意拳は難しいのか?」という疑問は、韓氏意拳とは何かを考え、理解し、体認していくための、極めて重要な問いだと思います。
2021年から始まった京都からだ研究室は、「身体感覚を感じる、そしてその掘り下げ」をテーマに、洋の東西問わず様々な分野の先生方をお招きして学んできました。
神経生理学の最新理論「ポリヴェーガル理論®」をベースにした、小笠原和葉さんによる講座。
ポリヴェーガル理論とアレクサンダー・テクニークを接続して伝えてくださった、田中千佐子さんによる講座。
東洋的な"上虚下実"の身体観から繙いてくださった、松田恵美子さんによる講座。
今回の講座で皆で体験した韓氏意拳は、そのどの方向とも違う、ほとんど真逆と言ってもいいくらいの方へ向いているような気がします。
何しろ、
「感覚がない、実感がない、自分でやっている感じがしない、手応えがない」
ほうへ進むから、皆が"分かんない、難しい"と首を傾げるのも無理はないのだと思います。
「韓氏意拳とは何か?」を、とても一言では言えないし、逆に、どんな言い方も無限にできてしまうのです。結局、どんな言い方をしたところで、そのものズバリを100%言い尽くすことは不可能だから。
自らも韓氏意拳をお稽古されている尹雄大(ユン・ウンデ)さんが、その感覚体験・体認を基に、日本韓氏意拳学会会長の光岡英稔さんや、韓氏意拳創始人の韓競辰先生へのインタビューを構成して書かれたこの本には、
と書いてあります。
「分かった、理解した」と、答えに着地してしまうと、もう台無しになってしまう。どこにも拠りどころのない問いの中に漂い続けるしかない。問うて問うて問い続けること、それ自体が、不始不終、始まりも終わりもない答えのプロセス(過程)だというのです。こういうのって、すごくワクワクすることだと私は思いますが、ご参加いただいた皆さんはどうだったでしょう?
今回の後期講座の体験を経た今なら、この本を読み始めることができるように感じています。
時々刻々に、ただ私になっていく
韓氏意拳では、私たちが日常的にとっている立位(立っている姿勢)は、立てているようでいて実は「立てていない」と観ています。なので、"ただ立つ、自然に立つ稽古"、「站樁(タントウ)」をとても重視します。
ただ自然に立っている状態から、手が下から上へあがっていく、手前から向こうへ出ていく、向こうから手前へ寄ってくる…といったシンプルなムーブメントの中に、ただ等身大の私の今の感じが表現されているかを観ていきます。
上がったり前に出たりしている手に添えてくださっている小関先生の手は、ほんとうに軽く触れられているだけ。ところが、少しでも触れられると、「いま触れられているこの手をどうにかしたい!」という反応が、ほとんど自動的に、無意識的に立ち上がってきます。そうすると、ほんの軽く触れられているだけの手に動きが引っかかってしまう。韓氏意拳のお稽古の体系はそう出来ています。
手の動きや位置に、見た目上の違いはあれ、それらはすべて、いまここにいる他の誰でもない私の感じの表現であり、それが拡大されたり縮小されたりしているわけです。
武術である以上、最終的には、いま自分の前には誰か相手が立っていて、その相手との(命の)やり取りになっていくわけですが、韓氏意拳という武術がここで特に注目するのが、相手をどうにかこうにかしようとすることよりも、まずは「いまの自分の状態」に着目すること、そして、その状態から可能な限り離れないでいること。つまり、どこまでも「等身大の自己」で在り続けることだと、私は理解しています。
この「等身大」という言葉は、小関先生が開発した「身にまとったたった一本のヒモが身体の自然な在り様を映し出してくれる」ヒモトレを説明してくださる時によく用いられる表現です。
自分を過大にも過小にも評価しません。価値評価というのが何よりもいわゆる"自我の役目"なのですね。 ヒモトレや韓氏意拳を通じて、どこまでも等身大な(ただの等身大でしかない)自己そのものと、それを過大や過小に見ようとする自我の両方が観えてきます。
ペットボトルキャップのワーク
韓氏意拳の体系に則ったお稽古での感覚体験を小関先生が伝えてくださるためのひとつの方便として、いくつかのおもしろいワークを実修しました。
そのうちの一つがこれ。
表面張力が働きだすくらいに、水がなみなみと注がれたペットボトルのキャップを指先で持って、そー…っと運んでいく。
わずか数ml、ペットボトル全体の何十分の一の重さを、ほとんど感じられないままに、手の指先という"現地"では繊細に感じ取っています。
また、ちょっと揺れただけでも表面張力がこわれて水がこぼれてしまうキャップ、身体のどこか一か所に集中が集まり過ぎて意識が偏ってしまうと、その途端に水はこぼれてしまう。
手の先にあるキャップに、指先、眼、身体全体が集まって、運ぶという動きと一枚になっている様子が、上の写真を見るとよく分かります。
「意(運動の起源)」と"状態"
韓氏意拳の「意」とは、「運動の起源」であると小関先生は説明してくださいます。
例えば、大きなケガをした後のリハビリでは、身体の運動機能を回復するための様々なトレーニングをすることがあります。また、24時間営業のフィットネスジムなども最近流行っていますけれど、そういうお店にも、身体の部位に特化した運動をするためのマシンがたくさん置いてあります。
人間は意識してそういう運動をすることもできるのですが、韓氏意拳が探究するのは「自然な運動」。
自分の身体単独で完結する運動ではなく、このように、自分の外部や周囲に具体的に存在している物事と私の身体との必然的な関係性に、自然な運動は発生してくる…と、韓氏意拳では観ています。
リンゴを取ろうとしたら取れるのに、スイッチを押そうとしたら押せるのに、いざ「韓氏意拳のお稽古をします」となったら、なぜ必然性のない不自然な動きになってしまうのか?
これを考えるカギになるのが、「私の実体視」なのではないかと思います。
マテリアルとしての身体の感覚に、「そこに私がいる」と確認したい、「私」を実体視したいという思いがあります。 でも実際に起きていることは、私の外側にある物事との間に、都度都度に明滅する関係性の、不始不終のはたらきの連続。 手の先に実際に(リアルに)あるリンゴを取ったりスイッチを消す行為として私があるのです。
身体の末端が作用して起こること
今回の講座で皆が体験したのは、日本韓氏意拳学会が主催する韓氏意拳講習会で、会員登録していない方でもオープン参加できる初級講習会での内容でした。そこでは、腕が前後に振られる動き、立ったりしゃがんだりする動きなど、シンプルで比較的大きなムーブの中に身体全体の連関を感じ取っていく「形体訓練」から、ただ立つ「站樁」へとお稽古が進んでいきます。
形体訓練と站樁、そのどちらでも必ず強調されるのが、
運動は末端(指先)から起こる
ということです。
このことの理解の助けになる、とても分かりやすい例を小関先生が示してくださったのが上の写真。ヒモの両端(末端)が左右に広がることで、一定の重量のあるペットボトルを動かすことができます。
また、別のワークでは、動かされないように立っておいて、手を伸ばした指先を小関先生が持って引っ張ります。そこで、指先よりも大きくて強いように思える上腕二頭筋(二の腕の力こぶの筋肉)などを使おうとすると、その瞬間に姿勢は崩れてしまいます。
「感じる」をまっさらに問い直す
身体の"現地、末端"でリアルに感じていることと、「感じていると考えている」のとでは全然違います。 それは、意拳のお稽古を体験してみると、とてもよく観えてきます。そういう違いを観やすくしてくれる体系として、韓氏意拳そしてヒモトレはとても良く出来ているなと、お稽古してみる度に感じます。
リアルとリアリティは全然違う。 考えたり解釈したりすることで感じには色がついてしまうけれど、感じそのものは、何の色もついていないのです。
感覚と知覚というものがあるとして、五感あるいは六感でもって知覚される感覚は、全体のほんの一部に過ぎません。 知覚されざる感覚というものがあって、それは「知覚されざるもの」としてそのまま受け取らなければならないのかもしれません。「感じること」を、瞬間ごとにまっさらに問い直し続けるお稽古でした。
既知から未知へ、それはただの事実
韓氏意拳の講習で、特に小関先生がいつも強調されるのが、
「既知を捨てて、手放して、未知へと足を踏み入れる」
ということ。
既知から未知へのジャンプ。
手放して、手放して、手放し続けること。
それは、私がそうしようと意図してそうすることなのではなく、まさに今この瞬間に未知へ踏み出し続けている、手放し続けているという、言ってみれば「"ただ単なる"、端的な事実」なのではないかと思うのです。特に今回の稽古を体験して、私はそう感じました。
逆に言うと、もし時々刻々に未知へと足を踏み出せていなかったとしたら、もし既知をそのままずっと手放さずにいたとしたら、そもそも私もあなたもいまここに存在していないのではないでしょうか。
すべての存在の基底にその事実はあって、しかし、事実へヴィジョンが開けていくには…
何かの体系にこの身を投げ込んでみないと、この事実に気づけない、体認として実感できないのではないかと思います。その体系が、ある人にとっては武術だったり、別の人にとっては宗教体系だったりするということがあると思います。
混沌・断絶のままに一つ、生死一如の体認
明か暗か。白か黒か。善か悪か。 自我(脳)にとっては、二項のコントラストがよりクッキリしているほうが、認識しやすくて楽なのだと、小関先生は仰います。 ところが、身体が現地で感じているリアルは、淡くおぼろげで、恒に揺らいでいて、未分化で混沌とした無秩序。
「感覚を取りたい、知覚したい、分かりたい!」という欲で出来ている私がいて、既にその欲は手放されているからこそいまここに在る私がいます。
あらゆる二項が対立したままに、いまここで同時に存在している…。「生死一如」の洞察へも開かれていく、貴重な感覚体験・体認の稽古となりました。
最後に、小関先生が今回の講座を締めくくるにあたって参加者の皆さんにあてたメッセージを下記に引用させていただき、先生からの言葉をよく噛みしめて味わってみることで、このレポートの締めくくりともさせていただきます。
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