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熱海の冬の物語

 昭代さんは熱海駅ビル、「ラスカ熱海」の入り口近くに立っていた。彼女とは四年ぶりの再会であった。母の古い友人であるため私も幼少の時から交流がある。

 このようなモダンな駅ビルは私の乏しい記憶の中に存在していなかった。熱海という町は、日本に数多く存在する温泉町の一つであるが、他の温泉町と比較して生き残れる条件が揃っている。JR東海道線の終着駅であることもその一因であろう。

 昭代さんの服のセンスは相変わらず良い。
 羽振りの良かった頃には、彼女は上から下まで全て上質のもので決めていた。

 彼女は、温泉饅頭の湯気の漂う仲見世通りに一瞥をやると独りごちった。

「嫌だわ、温泉街の雰囲気がすごく似てる、思い出しちゃうじゃない」

 彼女はそれ以上何も発しなかったが、彼女の悲運を知る母と私は、彼女の意図することを察した。



 
 彼女はかつて、某大型温泉ホテルの女将であった。
 
 彼女の切り盛りしていたホテルは、私達がこれから宿泊しようとしていたホテルとほぼ同等の規模を誇っていた。

 ホテルが全盛期であった時代には、一寸先に、地球の裏側の面識もないリーマンと称する兄弟が自分たちの境遇を左右することになることなど、皆目想像に及ばなかったはずである。

 栄枯盛衰。

 多くの温泉宿が辿った道。
 玉の輿と、周りから羨望を受けていた昭代さんの人生を揶揄する表現でもある。

 熱海駅の送迎バス乗り場からマイクロバスに乗り込んだ私達は、後部席に座っていた男性の声をBGMとしていた。

 乗り物内における会話を制限されている時勢では、車内で言葉を発する乗客の声は響き渡る。男性は「安いホテル」、「高級ホテル」という言葉を連発していた

 その送迎バスは隣接する同系列のホテル二軒に停車する。男性の宿泊するところは安いホテルであり、私達が予約したものは高いホテルである、ということであった。二軒の宿泊費の差はおそらく二、三千円程度であろう。

 それは彼なりの自嘲的ジョークであったのかもしれない。男性は灰汁の強い男である印象を与えた。


 
 「安い」ホテルにて彼を含む数人が下りた。
 私はその「安い」ホテルからの夜景が絶景であることを知っていた。

 「あの男性、結構裕福なのではないかしら。レアものビンテージのジーパンを履いてたわよ」

 昭代さんが誰にともなく考察を述べた。

 私にはそれがそれほど高価なものには感じられなかった。昭代さんの上質な服を見抜く能力が劣化したのであろうか、あるいは、ファッションに疎いのは私の方で、ジーンズは本当に高価なものであったのかもしれない。


  
 ホテルにチェックインした際、母と昭代さんは、ホテル側から「静岡県で使える商品券」というものを戴いた。

 これが噂の旅行支援というものか。

 地球の裏側から日本のニュースを追っていた時、旅行支援など自分には無関係の制度と、そのニュースは聞き流していた。 

 自分がコロナ渦の日本に居ることを再認識した瞬間であった。


 
 部屋は八階を割り当てられた。私は基本的にエレベーターは使わないため、暑い季節ではなく助かった。

 
 そこは大変人気のあるホテルらしく、十二月に残っていたのはこの一部屋だけであった。和洋室というタイプであり、窓近くのテラス部屋には母と昭代さんの希望していたベッドが二床並べられていた。

 温泉旅館に宿泊する時は、基本的に和室を予約しているが、数年ぶりに寝そべってみた布団を通して感じる床は硬く、心地良い。


 
 食事前に母と昭代さんは湯あみをすることにしたため、私はカメラを掛けてホテルを出た。

 家族あるいは見知った人間と一緒の入浴は煩わらしく感じられるため、出来る限り回避している。

 熱海サンビーチの歩道橋に、ある人物を認めた。

 その人物は三脚を立てて、小型のカメラで景色を撮っていた。あるいは動画を撮っていたのかもしれない。



 
 送迎バスの中で見掛けた、昭代さん曰くレアもののジーンズを履いていた男性であった。

 向こうも私の姿を認めたようであった。

 話しかけて来るであろうか。

 灰汁の強い人は、灰汁の種類にも依るが、基本的に嫌いではない。

 しかし、夕食までそれほど時間も無かったため、先を急いていた。

 私は方向転換をして街の方へ降りて行った。



 なぎさ中通り、ムーラン、サンレモカフェ、ホテルアーバン等々、潮騒の感じられるような通りの名称、パリ、イタリア、米国西海岸を連想させられ
るような通り、建物の名称がさりげなく、また時には強烈に視界に入る。

 昭和の時代にはさぞかし華やかな活気が感じられた街であろう。

 華やかな名称のパブが林立している通りもあったが、いずれの店舗からも
人の気配は感じられなかった。こちらの方は比較的新しく感じられたので、パンデミックの影響であろうか、と、意味のない推察をしてみる。


 この日のハイライト、夕食ビュッフェの大広間が開かれた。





 昭代さんは、元ホテルの女将ながら、テキパキと、私達のためにお箸やおしぼり等を持って来てくれていた。

 甘党の母は豪華なおかずは控えめに、アイスクリームばかりを食べている。私が苦情を述べるにも、母は、ビュッフェなのだから好きなものを食べて良いはずだ、と反論する。

 料理の種類、味においては期待以上のビュッフェであった。

 
 食事の後は、土壇場で予約をしたカラオケ・ラウンジを物色する。


 

 「母をご招待を頂き有難う御座います。ご迷惑をお掛けしていませんか?」

 昭代さんの娘から私の携帯にメッセージが入った。私は昭代さんの笑顔の瞬間を撮って娘さんに送った。

 昭代さんが一瞬だけマスクを外した瞬間であった。

 「今の写真、娘に送っちゃったの?マスクを外していたのに…」
 
 昭代さんが非常に狼狽し始めた。

 「親の嬉しそうな表情を見て喜ばない娘さんではないでしょう」、と、私は昭代さんを宥めようとした。

 昭代さんはナンシー・シナトラに雰囲気が似ている。また、大概は無口で仏頂面ではあったが堂々として、自分が何をすべきであるか常にわかっている人であった。若い時は欧州へ留学をしていたとも聞いている。

 その彼女が、「カラオケでマスクを外していたことが家族に知られた」、という、それだけのことで狼狽している。

 経営していたホテルが破綻してから、彼らは決して平坦ではない道のりを歩んで来た。そして常に日本の片隅でひっそりと生きて来た。その長い年月が彼女の中の何かを変えてしまったのであろうか。

 枯栄衰盛。

 リバウンドした熱海の如く、昭代さんも再び、以前の堂々とした女性にリバウンドしてくれるはずだ、と信じていたい。

 豪華な料理もさながら、私にとって熱海滞在の一番のハイライトは、昭代さんと母が手を繋いで楽しそうにデュエットをしている光景を拝めたことであった。


数分間だけ陽が射した

 

 明くる日は曇天であった。

 朝食バイキングを堪能し、温泉にてひと浴びし、早くもチェックアウトの時刻が訪れた。



 最初の送迎バスは満員になってしまったため、次のバスが来るまで並んで待っていた。タクシーも出払ってしまっていたという。

 「最低のサービスね。臨時送迎バスを出すべきじゃない」
 「料理もひどかったわね」
 
 後ろで並んでいた女性の二人組の聞こえよがしの不満の言葉が耳に飛び込む。

 私達は、非常に料理に満足していたため、彼らの意見には耳を疑った。

 しかし、危惧した通り、社交的な母はその二人組と早々に会話を始めていた。

 「それなら熱海ではどこのホテルが良いのかしら?」
 母が訊ねる。

 「駄目駄目、熱海は全部駄目」
 二人組は、手を振りながらそうこき下ろした。

 昭代さんは会話に加わらず、正面入り口外の霧雨の中に思考を預けていた。しかし、二人組の発言は昭代さんのところまで響いていたはずである。

 昭代さんは、私達に何度も謝意を述べていた。久しぶりに心配事から解放されて、愉しい二日間であったと。

 後ろに並んでいた女性の二人組は、私達の些細な幸福に黒い翳を差す発言を連発している。

 人それぞれ価値観は違うが、自身の価値観を他人に押し着せる必要は無い。

 私にとっては全てが奇跡だった。
 
 ほぼ四年ぶりに日本への帰国が実現し、母が希望していたホテルにギリギリ空き部屋を獲得、当日、誰も病気になることなく無事に集合、料理も温泉も優等なものであった。

 母と昭代さんが近くに居なければ、私はこの二人組に確実に反論をしていた。他人との矛盾を好まぬ母の傍にて、私は咽喉もとまで出かけていた言葉を辛うじて呑み込んだ。

 「そんなに熱海に不満があるならば、何故、熱海に何度もいらしているのですか?」、と。



 昭代さんは無表情で静かに佇んでいた。かつてのホテル経営者として、この二人組の評価を複雑な心境にて咀嚼していたのであろうか。すべての宿泊客を満足させることの難しさは、彼女には身に染みていたはずである。

 サンビーチにて熱海の写真を撮影していた男性が、この場に居合わせていたとしたら、果たしてこの二人組の言葉にどのように反応したのであろうか。

 その二人組は私の母に、自らの離婚、再婚談を語り始めていた。お互い名前も知らないのに奇妙な連帯感が生まれ、数分後には相手の半生について熟知してしまう、それが旅のなせる魔術である。

 私は、その二人組へのせめてもの抗議として、ホテルのレセプションに戻り、「おもてなしもお料理も最高でした」、と二人組に聞こえよがしにお礼を述べにいった。レセプションの方の表情が綻んだ。


 小雨の降り止まぬ熱海駅にて私達は送迎バスを降りた。


晴天であった前日の写真


 私達は帰りに温泉饅頭を買って帰るつもりであったが、昭代さんは直接東京に戻ると言う。

 「これ造って来たのだけど、良かったら食べてくれる?貴方のお母さんの造り方とは流儀が違うけど多分好きだと思う」

 昭代さんは紙袋に注意深く入れられた瓶詰のものを私に渡した。

 ゆず味噌であった。

 羽振りが良かった頃、昭代さんはよくゆず味噌を造って持って来てくれた。私がゆず味噌を大好物とすることを記憶していたのであろうか。

 
 昭代さんのおかっぱ頭が駅の構内の雑踏の中に消えた時、私の日本滞在は、終わりにまた一歩近づいた。


今回は備忘録と旅行案内を兼ねた長文記事になってしまいました。ここまでお付き合い下さった方、感謝致します。日本記事はあと一本を予定しており、舞台はまもなく欧州に戻ります。

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