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女の道を求めて

本の整理をしていると、
自分が何に興味を示すタイプかがよく分かる気がする。

わたしの本棚は、美容系のアドバイス本や
歴史に名を連ねた女性についての本が
多くを占めている。

秘密、
揺らぎ、
気品。

奥深い、人間の美の世界に
もう長いこと魅了されている。



とはいえ子供の頃のわたしは、
「女性的なもの」に興味がなかった。

5歳の時に鉄棒にハマり、
将来の夢は猿になること。

世良公則と両津勘吉という濃い面々が好きで、
筋力を付けることが趣味だったため
腹筋や懸垂が日課だった。

そんな志向が変わったのは中学生の頃。

男子・女子という区別がクラスに根付いたが、
わたしはすっかり置いていかれてしまった。

女の子のムキムキの二の腕は、
フィジカルな力こそあれ
社会的なパワーは持ち合わせていなかった。

だから急いで雑誌を買って、
どういう服を着ればみんなと同じになれるのか
必死に研究した。 

打算がスタート地点だったゆえ、
若い頃は外見を着飾ることに
意識が集中していた。

雑誌の中のモデルを眺めては、
コンプレックスに対する憎悪に苦しんで
ため息をつく日々。

意識のベクトルが自分にしか向いておらず
苦しい時間だった。



このアイデンティティ地獄から解放されたのは
20代半ばになってからのことだ。

年を重ねたことで、迸る情熱が失われたことは
とても幸せなことだと言える。

しかし一方で、
生き方や自分との向き合い方が美しさにつながる、と
知ったのも大きな発見だった。

周囲にちやほやされるための、
人形や道具のような「女の美」には点数がつく。

造形がいかに美しいか、
1mmでも正しく、より強い力を持てる方へと
駆り立てられてゆく。

今は化粧や整形があるから
そういった外面の調整は比較的カンタンにできる。

だが念願叶ったところで、
それは汲めども尽きせぬ欲望の沼へと
身を投じたも同じである。

なぜなら沼の底は足がつかないので
もがき続けるしかないからだ。

相対的に自分がいったい何点なのか
常に気にしながら生きるのは、あまりに切ない。

そこでわたしは思った。

世の中には様々の美しさがあり、
とくに自然には人の想像も及ばない世界が広がっているのに
なぜ私は誰かの目を通して自分を見ようとするのだろうか。

花は咲くが、わたしのために咲いているのではない。

そして藤の花は椿のようには咲かない。
盛りの季節も違うし、美しさそのものの基準が違うのだ。

花だけではない。

若葉や紅葉にも各々の魅力があるし、
貝殻や岩山、苔にだって神秘を感じる。

誰かに認められるためではなく、
存在そのものが美しいということは
揺るがない。

さて、ここで問題なのは
内側の美しさは一朝一夕には身につかない
ということだ。

ものを扱う指先や眼差しの流れ、
姿勢や声色は、取り繕ってもすぐぼろが出る。

しかし日々の積み重ねをしている人が纏う空気は、
街ですれちがっただけでもすぐわかるくらい
洗練されていて美しい。

自分の好きなところ、嫌いなところと向き合って
日々よりよい方へ意識を向ける練習をすると
やがて生き方が外側にも現れていく。



今日、何をもってして「女」というのか議論は多いが、
誰かの人生を限定するために書いているのでは無いことを
お断りしておく。

いわゆる庇護欲をそそるフェミニンさや生物学的な問題でもなく、
わたしが魅力を感じる「女」というものだ。

定義しようにも種類がありすぎて
ひとことでは言い表せないのが現状だ。

ちなみにわたしは現在、
そういう人になりたいなあ
と思いながら自堕落な生活を送っている。

しかし欲望地獄に身を沈めているよりかは
幾分ましに感ぜられる。

このマガジンでは、わたしが学んでいる女の道について
気づいたこと、面白いと思ったことを書いていきたい。

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