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ケナリも花、サクラも花

桜が咲き誇る4月初頭に、とある作品がふと読みたくなった。中学か高校の国語の教科書に載っていた、鷺沢萠の『ケナリも花、サクラも花』という作品だ。国語の教科書で扱ったものなんてほとんど覚えていないのに、ここまではっきりと覚えている作品は珍しい。きっとそれは作品に何か心を動かされたこと、そして著者のプロフィールを見てすでに亡くなっていたことに衝撃を受けたからだろう。

10代の私はこの作品の何に感動したのか。忘れてしまった感情をもう一度呼び起こしてみたくなり、早速Amazonで探して注文し、届いたそばから読み始めた。180ページ弱のエッセイ、鷺沢の語り口が心地よくどんどん読み進めてしまった。

日本とは、韓国とは、ことばとは、社会とは。鷺沢の視点から語られるこれらのことについては、著書が発行されて20年以上経った今でも通じるものがある。殊にことばについて綴った部分はどれも首がもげそうなほどに頷けた。

作品のタイトルと著者は覚えていたのに、実を言うとその内容についてはほとんど覚えていなかった。どんな書き出しだったか、どういう話だったか。覚えていなかったのにいざその箇所に当たると、これだこれだ!と思わず飛び跳ねたくなった。読み進めるうちに今まで忘れていたものが一気に押し寄せてきて、そうそうこんな話だったと興奮した。

該当する箇所は「第七章 ケナリも花、サクラも花」の前半3分の1を過ぎたあたりだ。教科書のページか、それとも内容の関係か、この章まるまるは採用されなかったようだ。そうそうこんな話だったと思いつつ、抜粋された前後や他の章を読み進めてからここの箇所に至るとまた少し違った印象を与える気がした。教科書に載っていたのはこのエッセイの中でも綺麗なところだけを抜粋していたのだ。

抜粋されていた部分の内容としては、ざっくりまとめると次のようになる。語学留学のため韓国のソウルに滞在する鷺沢が現地でいくつか取材を受けるが、通訳の手配や取材の内容を巡って鷺沢が何度も納得のいかない思いをしていた中で、ヤン・スヨンという記者に出会う。この取材が鷺沢にとって滞在中に受けたもので最も印象に残るものとなった、といった感じだろうか。

「韓国で受けたインタビューで、こんなに『自分の言っていることを判ってもらえている』という感触を持ったのはそれがはじめてのことだった」と鷺沢は語る。おそらく10代の頃の私は、この人は今までいろいろあったんだろうな~くらいでこの文を流していたと思う。だが、この章以前に書かれている他の新聞や雑誌の取材を受けたときのエピソードを読んでからだとこの一文の重さが違う。

自分の母語以外で誰かとコミュニケーションをとる経験をしたことがある人には、母語じゃないことばで自分の意思を100%伝えることの難しさが理解できるだろう。ことばも違えば文化も違うため、同じ言い回しでもバックグラウンドの異なる人では受け取り方が変わってくる。ことばが上手くないからと相手にしてくれないような人だっているし、その国のことばを話さず英語を話すような人には冷たい人だっている。自分とは違う文化を突っぱねる人だっている。

鷺沢の語りから読み取れるこのヤン・スヨンという記者の素晴らしいところは、まだ韓国語の学習を始めて数カ月という鷺沢への配慮、そして鷺沢の意思をきちんと理解しようとする姿勢だ。通訳がいても足らないところは自分で英語で訊ねたり、とにかく鷺沢と真摯に向き合おうとしていたことが鷺沢の語りから伝わってくる。さらに、出来上がった雑誌を渡すための電話ではひとことだが日本語を練習してかけてきたというので驚きだ。

そしてその雑誌のある写真のキャプションにはこう書かれていたという。

―鷺沢萠は、私たちの国が愛する花、ケナリの名前を訊ねた。盛りの季節のケナリの向こうでは、サクラの花も美しく咲いているのが見える。

かの有名な「ニクいニクい」の文章である。写真はケナリを背景に佇む鷺沢と、そのケナリのさらに奥に少しだけ桜が写っているものだったそうだ。同行したカメラマンかヤンが意図したものなのか、たまたまあった写真をヤンが見つけて採用しこのキャプションをつけたのかはわからない。だが、10代の私も、20代の私も、同じようにこの文章に感動したのだった。

ことばや異文化との向き合い方において、10代の私はこのヤン・スヨンという人に憧れを抱いたのだった。相手の国のことばをひとことでも覚えて練習して使ってみたり、相手の国が愛する美しいものを尊重しようとする姿勢。私はそうして相手に寄り添える人になりたかったのだ。

誰かにとってのヤン・スヨンになりたかったのだ。


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『ケナリも花、サクラも花』
ヤンがあの文章を書いていなければ、そしてそれを鷺沢が読まなければ、鷺沢はこのタイトルをつけていなかったかもしれない。この本は韓国語にも翻訳されているが、ヤンは果たして手に取っただろうか。

これから桜が美しく咲く季節になると、私は韓国で咲き誇っているであろうケナリにも思いを馳せるだろう。そして桜が散り始め葉の出る頃であろう4月11日は奇しくも鷺沢の命日である。何を思って命を絶ったのか、鷺沢がもし今も生きていたらどんな作品を世に出していただろうかと考える。

少し葉桜になり始めたこの季節には、『葉桜の日』を読みたい。

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追記:かがみよかがみで募集していたテーマ「憧れの人」にも掲載していただきました!


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