P#16 みぞおちのトリック
リエベンと厩舎で雨宿りした日から、パムの空への思いが少し変わった。
それまでは晴れている日に空を眺めるのが好きで、青空に浮かぶ雲の行方はいつまで見ていても飽きることはなかった。
それがあの日からは、いつ雨が降り出すかと気になってしかたがない。外出先で雨が降れば、リエベンと過ごす時間が増えるかもしれないからだ。
リエベンと過ごしたあの日のことを考えるたびに、みぞおちのあたりがぎゅうっと締めつけられる。なんだか息をするのも苦しい。
肩にかけてもらったリエベンのジャケットのぬくもりが忘れられない。パムは自分の肩に手を置いてあの日を振り返った。
土埃で汚れたジャケットを肩からぶら下げて屋敷に戻ったパムは、使用人のハンナや執事のアルベルトをたいそう驚かせた。
ハンナはパムの肩からジャケットを取ると、かわりに、用意していた布をそっとかけた。雨で冷たくなったパムの肌にそれはふわり優しくなじんでいく。しかしその優しさはどことなく偽善的で、それまで肩にあったリエベンのジャケットの武骨な重さをパムはすでに懐かしく思っていた。
部屋に戻ると、他の使用人たちがパムの風呂の準備に勤しんでいる。そのうち、使用人たちの指導係でもあるサラが騒ぎをきいてパムの部屋に駆け付けた。
頭からびしょ濡れのパムはいたずらな笑顔でサラを迎え入れた。
「お嬢様。なんとまあ。」
サラは、よくドレスの裾を汚しては使用人たちを困らせた幼いころのパムを思い出していた。
「バウアー夫人、私は大丈夫よ。最初に言っておくけれど、リエベンのせいではないから、お父様に問われたらそう言ってね。」
パムのピンク色の頬を見て、サラはなんだか嫌な予感がした。
「それから、リエベンに新しいジャケットをプレゼントしたいわ。それもお父様に頼んでおいてほしいの。」
今度はサラの目を見ずに、パムは独り言のように言い放った。
サラはハンナと目を合せて、お互い大変ねと言うように目くばせするとパムの部屋を後にした。
ドアをノックする音でパムはあの日の回想から現実に戻らされた。アルベルトが、ピアノのレッスンの時間を告げに来たのだ。
「お嬢様、先生がいらっしゃいました。」
アルベルトの後ろには、この屋敷の娘たちにピアノを教えているミスターベルガーがなんだか申し訳なさそうに立っている。大柄なアルベルトと同じくらいの背の高さだが、幅はアルベルトの半分ぐらい、ひょろっと神経質な感じがいかにもだ。繊細な指先からは既にメロディーが流れているかのようである。
パムはミスターベルガーに挨拶をした。レディらしい挨拶がすっかり板についてきたパムからは、かつてのおてんば姿が想像できない。今では姉妹の中で一番のピアノの腕前だと誰もが認めるほどになった。ピアノの音色で、誰が弾いているかすぐにわかるほどだ。
リエベンが普段仕事をしている厩舎は屋敷から離れている。ピアノの音が聞こえてくることはない。
しかし、主人の外出で馬車を屋敷まで準備する時にたまたまパムのピアノの音が聞こえてこようものなら、そのわずかな時間をどう引き延ばせるかを画策し、馬たちを撫でたり客車のチェックをするふりをしてピアノの音色に耳を傾けるのだった。
ある日もそんな風に少しの罪悪感を抱きながらピアノの音を「盗み聴き」していたところ、その音が急に止まった。少ししてまた始まる。するとほぼ同時にハンナが息を切らして外に出てきた。
馬車の音でリエベンが下にいると気づいたのだろう。パムはハンナにリエベンを呼ぶように言った。
リエベンは御者に馬車を受け渡すと屋敷へと入っていった。
パムが部屋まで呼びつけることは今までなかったため、自分の不審な行動が気づかれているのではとドキドキしながら階段を駆け上がった。
部屋のドアは開いていた。
リエベンに気づいたパムは、ピアノを弾く手を止める。いたずらな笑みを浮かべ、入りなさいと、わざと高飛車なジェスチャーをしてリエベンを迎えいれた。
リエベンは一礼してピアノに近寄る。こんなに間近にピアノを見たのは初めてだ。
パムは何も言わずにまたピアノを弾き始めた。リエベンの心の中を全ての音が突き抜けていく。
流れるような旋律と、その音が今目の前でパムが作り上げている音だという現実に、リエベンは頭が追いつかない。未知の世界に急に放り込まれた気分だ。
曲が終わり、リエベンが拍手しようとするとそれを制するかのようにパムは言った。
「私がピアノを弾くときに考えているのはリエベン、あなたよ。あなたのために弾いているの。ピアノの音が聞こえたらそれを思い出してほしいわ。」
一つ一つの言葉が意思と魂を持っていた。いつも無邪気なパムが別人に見える。
「あら、もうこんな時間。リエベン、ありがとう。戻っていいわ。」
リエベンが口を開く間もなく、パムは慌ててリエベンを部屋のドアまで見送った。
お互い目を合わせることができなかった。
厩舎に戻る途中、リエベンの心の中でパムの言葉がこだました。嬉しかった。ただただ嬉しかったのだ。
あなたのために弾いているのー
空を見上げると、青空はいつの間にかピンク色に染まっていた。
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