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自然体でいることの難しさ。人は他人の言動から自由にはなれない。

常に自然体でいられれば楽なのだろうと思うけれど、なかなかそうはいられないのが人生である。

自然体というのはありのままの自分でいるということであり、何も着飾らず見栄もプライドも捨て、他人の目から自由になって素の自分でいるということだ。

「何も気にせずそのままの自分でいればいい」というのは簡単だが、実際に自然体のままで生きることは難しい。
口ではありのままの自分でいると言っていても、自分でも気づかないうちに他人に気を遣ったり、世間の目や他人の言動を気にしている人も多い。

おもしろいことに、「私はいつも自然体でいるように、リラックスして生きています!」」と意識している人ほど不自然なのである。
人は何かを「意識」した瞬間から、自然体でいることは不可能になる。
自然体でいようと思えば思うほど不自然になり、かっこつけるほどかっこ悪くなり、丁寧な暮らしをしようと思うほど雑な生活になっていくものなのだ。

「こうしたい!」と思う意識は大切なものだ。
何かを変えたい、理想の生活や自分になりたいと思い、普段から意識するほどその理想に近づいていく。
普通の人はそう思うだろう。

でも実際にはそれとは逆の現象が起こっている。
理想を意識するほど、あなたは自分の理想から遠ざかっていく。
何かを変えたいと願うほど、何も変わらない日常が続いていく。

よく、物事は自然体でおこなうときが一番良い結果を生むと言われている。
変に意識するからうまくいかず、肩の力を抜いてリラックスした状態でのぞめば、何事もそこそこうまくいくのである。
何かを意識した状態というのは自然体とは真逆の状態だ。
寝たいと思うほど寝れなくなる、あの感覚にとてもよく似ているように感じる。

だが、何度も言うように、自然体でいることはとても難しい。
本当に自然体な自分でいたいのであれば、何にも縛られることなく、完全な精神的な自立を果たさなければならない。
不自然になってしまうのは「他人」が関係していることによるものだ。
他人の目や行動があなたの意識に潜りこみ、あなたの言動を少しずつ支配していく。

人間は社会的な生き物であるため、他人との関係を一切断つことは難しい。
そして、他人との関係を維持するには、少なからず気を遣う必要がある。
相手が傷つくことや嫌な思いをする言動を避け、一緒にいて楽しい空間になるように意識しなければならない。
しかし、それを意識した瞬間から、あなたは自然体ではいられない。

「〇〇とはありのままの素の自分でいられる」という人もいるだろう。
昔からの長い付き合いの友達や、お互いを尊重して付き合っている恋人、心から安らげる家族団らんな空間など。
自分が本当に心から安らげる場所を持っている人も少なからずいる。

だが、親しき仲にも礼儀ありという言葉があるように、どんなに仲が良い関係だとしても、何をしても許されるわけではない。
恋人や家族だってそうだ。
どんなにわかりあっていると思っているとしても、人間関係の中にはやってはいけないことがあり、言ってはいけない言葉があり、してはならないことがあるのだ。

もし、それら人間関係のタブー、暗黙の了解のようなものを破ってしまうなら、友人関係も恋人関係も家族関係も崩壊してしまうだろう。

ホッブズは「人間の自然状態は万人の万人に対する闘争」であると述べた。
ホッブズは人間はもともと性悪であり、政府が存在しない自然の状態ではすべての人が争うと述べている。

一方、ジョン・ロックは人間の自然状態は「自由・平等・平和」な状態であると述べた。
ホッブズとは真逆の考えであり、人間は性善な生き物であり、お互い自由と平等を尊重し、平和に暮らすというのがロックの人間観である。

ここではどちらが正しいのかなどの議論はしないが、個人的には私はホッブズ寄りの考えを持っている。
人間を完全な自由の状態、自然な状態になると人々は争い、他人のものを奪い合い、異性を巡って殺し合いをするようになるのではないかと思っている。

だからこそ、現代のような社会の中では本当の意味で自然体でいることは難しい。
ありのままの自分でいるというのは、人間生来の状態で生きるという意味である。
つまり、ありのままの自然体の自分でいる限り、社会や他人との対立は避けられなくなる。

もし、「いや自分は自然のままでいながら社会や他人の中に溶け込み、うまくやっているよ」と言う人がいるのであれば、それは自分で自分を抑圧していることに気がついていないだけである。
人間は嘘をつくのがうまく、他人以上に自分を騙すのがうまい。
自分で自分に「私は自然体で生きている」と言い聞かせれば、自分は自然体で生きているように錯覚するものだ。

さて、何だか暗い話になってしまったが、別に人間に悲観にしているわけではない。
ただ、「自然体でいることはそんなに良いことではないかも」ということが言いたいのである。
ありのままの自分やら、素の自分やらでいるのは気楽だし心地よいだろう。
だが、他人や社会の中でうまくやっていくのであれば、自然体でいることなんて気にせず、うまく調和がとれる状態でいるのが一番いいのかもしれない。

人は常に楽を求めるものだが、自然体かつありのままの状態を受け入れてくれる社会はないだろうし、他人との関係の中に見いだすのも難しい。
社会や他人の中で生きる以上、私たち人間は自然体ではいられないし、他人の言動から自由になることもできない。

本当に自然体でいたいのならば、自然体でいることを捨てることだ。
それが、豊かで便利な現代社会の中で生きる代償なのかもしれない。


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