エッセイ「詩人としての武田鉄矢」

武田鉄矢さんと言えば金八先生。と言っても1980年代生まれの僕には、金八先生は少しばかり暑苦しく感じたりしないでもない。今の若い世代では金八先生を知らない人もいるかもしれない。
 役者としての彼をあまり知らない。しかし歌手としての武田鉄矢さんの魅力については少しだけ書けることがある。今回はそんなお話。先日某ワイドショー番組で彼が出演していて、昭和歌謡の歌詞の変遷について語っていた。その時に、現代の頑張れソングに対して「てめえの都合ばかり歌ってんだよ」と声を荒らげる場面があった。この字面だけを見ると現代ソングを批判してるように見えるが、コンテキストの中で決してそうではなかったことは、付け加えておきたい。基本的姿勢は優しい方なのだと思う。

 武田鉄矢の歌では海援隊名義の『贈る言葉』『スタートライン』あたりが有名で、誰もが口ずさめる、耳にしたことのある名曲である。しかし武田鉄矢名義で映画版ドラえもんの主題歌を歌っていたことは、前者ほどは知られていない。映画『雲の王国の主題歌『雲が行くのは』、映画『宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』の『少年期』なんかがそれにあたる。

涙ふくハンカチの色をした雲が北へと流れていくきっとどこか遠い国で僕よりつらい心の人がいるのだろうおーい雲よ僕はいい我慢できるよその人の心に浮かんでくれおーい雲よ涙を拭いてあげたらその人の心は空の色だろう   『雲が行くのは』より

 人を助けたい・応援したいと願うとき「てめえの都合」を排除するのは難しい。共感は手っ取り早くそれを達成できるからだ。カリスマ的なイケメンや美女のシンガーが「俺(わたし)だって、こんなに辛いんだけど頑張って来たんだ。だからきっと皆も大丈夫だよーっ!」って歌った時の、聴衆の共感を数値化できたら、面白いことになりそうだ。歌詞の力による、一体感や高揚といった効能は否定されるべきものではない。人は古来からそうしてきた。もちろん武田鉄矢さんの歌にだって「てめえの都合」も「共感」も含まれている。
 しかし先に挙げた『雲が行くのは』の歌詞はどうだろう? 〈聴き手〉〈僕〉〈その人〉には一定の距離がありはしないか? この詩からは、雲を眺めて我慢する僕を、遠くから眺める自分が生まれる感覚を得られるのだ。それはカリスマは共感力に身を委ねようとする一時的な陶酔による救いとは違って、僕の痩せ我慢を提示して、自らの足で立たせようと促すような箴言を含んだ詩である。あたかも含蓄に富んだ絵画を見ているような感覚。聴き手は絵の中に入るようで入らない。

 ところで僕が〝文学的ないとなみ〟に目覚めたきっかけの1つにも武田鉄矢さんの歌詞が挙げられる。

悲しいときには町の外れで電信柱の明かり見てた七つの僕には不思議だった涙うかべて見上げたら虹のかけらがキラキラ光る   『少年期』より

 このワンフレーズは幼少期の僕に鮮烈なイメージを焼き付けた。自分がその少年になるのではなく、悲しみに佇む少年を遠くから見守っているような感覚。子どもの頃に聞いたはずなのに、妙に大人びた自分が生まれたときだった。そして、この詩文を何度も何度も書写するうちに、書くことを覚え、自分の言葉が生まれていったように思う。

 いくつもの詩論があって軽く目を通したくらいだけど、自分はこのように整理している。詩には音楽性と絵画性がある。詩の音楽は喚情的で歌い手と聴き手の境界を曖昧にさせる。その救済は劇的で強力だ。一方で詩の絵画は傍観的で歌い手と聴き手の距離を保つ。そこに生まれる詩情は、聴き手の固有のものであり、そこに自我の個性を保たせ、足場を作ってくれるような救済を与える。
 武田鉄矢さんの詩が両方備えているように、現代ソングの多くにも当然両方の要素があるだろう。どちらの要素も大事だし、どちらも好きだ。人には、どうしても人間の共感の場に入っていけない孤独感に苛まれるときがある。そういう時に、武田鉄矢さんの詩が見せる一場面を、離れた場所から静かに観じたら……明日自分が両足で立っているための、小さくもあり大きくもある応援の声が聴こえてきそうだ。


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