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8. アグニ祭壇構築祭(ダルマ③)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。

【前話までのあらすじ】

愛神カーマは、有力なバラモン家系の子息アビルーパとして転生した。なかなか修行に身が入らないアビルーパに対して、父シャイシラカはアグニチャヤナという重要な祭祀さいしの補助祭官を務めることを申しつける。あまりの大任に尻込みするアビルーパだったが、友人ヴァサンタの支援もあり奮起することとなった。

【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
愛神カーマの化身の1つ。聖地ウッジャイニーに住むバラモン一族の子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。クシャトリヤの家系。ヴェーダ(聖典)を学ぶためにアビルーパの家に出入りし、彼に友情以上の好意を寄せている。

シャイシラカ
アビルーパの父。バラモン(聖職者)としてその地域の祭祀を執り行っている。

シュカ
愛神カーマに仕える鸚鵡おうむ。アビルーパの生きる時代(グプタ朝期)ではペットとして飼われている。

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8. アグニ祭壇構築祭(ダルマ③)


 アグニチャヤナ祭の日程が近づくにつれて、次第にアビルーパは修行に没入するようになってきた。祭祀に必要な詩文のほとんどを暗記し、たどたどしかった朗誦ろうしょうもだいぶ流暢になった。このような好転を見せたことには、ひとえに彼の友ヴァサンタの残した書『マヌ法典』が影響していた。

ヴェーダの書を読むものは無知なものより優れている。それを記憶に保持する者は書を読む者よりも優れている。理解し知識として所持するものは記憶として保持する者より優れている。知識として所持する者よりもそれに基づいて行動する者が優れている。『マヌ法典』12・103

 ただ暗唱することだけを目下の目的としていたアビルーパに、マヌの言葉はさらに奥にある地平を開いた。学習に目的が与えられたという風にも言えるだろうが、それ以上に、高いハードルを与えられたことで手前の障害を乗る越える際の逡巡や緩怠が消え失せたことが大きい。元々彼には暗唱する力など備わっていたのだ。

「ゴシュジン、ジョーズ、ジョーズ!」

 鸚鵡シュカが賞賛を投げかけるが、没頭するアビルーパの耳にはまったく届かなかった。

 遂にその日がやってきた。アグニチャヤナ、またの名をアグニ祭壇構築祭。子孫繁栄や豊穣などの現世利益を祈るために使用する祭壇を造る祭祀である。今回のアグニチャヤナの祭主は町の有力なクシャトリヤの家長で、彼の依頼を受けたアビルーパの父シャイシラカは、同門の師弟らを集めこの日に臨んだ。その中には当然アビルーパも含まれているし、祭祀場には老若こもごものバラモンの顔が並んでいた。

「いくらシャイシラカ・ジーの子息だからといって……」

「あんな若造で本当に大丈夫なのか?」

 バラモンたちは値踏みするような視線をアビルーパに向ける。聞こえよがしな声は彼の耳にもしっかり届いていた。しかしそれらはアビルーパの祭祀を完遂しようと意志を揺るがすほどのものではなかった。
 祭祀の最中にヴェーダの賛歌を唱える3人の祭官のうちのひとり、それが今回アビルーパに与えられた使命だ。彼はこのひと月で全身に染み込ませた詩文を唱え切ることだけを思い、静かに佇んでいた。

 白い腰巻を巻いた大勢のバラモンたちが祭場に煉瓦れんがを次々と運び込む。煉瓦には大小あるが、その形はすべてよく整えられた正方形か直角三角形をしていた。

 一人目の祭官がヴェーダの朗誦を始めると同時に、祭場の中央に煉瓦が並べられていく。一枚一枚、小さな煉瓦は子どもらが、大きな煉瓦は剛健な男たちが。パズルの如く隙間なくぴっしりと。

 ややあって一人目の朗誦が止む。ついにアビルーパの出番が来たのだ。祭祀の進行を監督する父の姿がすぐ目の前にあった。また祭場を囲んで坐すバラモンたちの奥に、友ヴァサンタの姿が見え隠れした。アビルーパはいちど大きく息を吐き、意を決してその口を開いた。

『われは羅刹の殺戮者・勝利に富むアグニを誘致す。われは友アグニに最も広汎なる庇護を乞い近づく。アグニは点火せられて、思慮により研ぎすまし、彼はわれらを昼、彼はわれらを夜危害より守れ……』

 アビルーパの朗誦はいつかの日と打って変わって、いたく流麗りゅうれいだった。そればかりでなく、祭祀の場にふさわしい荘厳そうごんさすら醸し出していた。父は安堵し、友は得意げに彼を見つめ、それまで不信の目を向けていたバラモンたちはすっかり聞き入り、彼の功労に感心していた。

『……自身の驚嘆すべき威力より、独一の詩人は勝れたる活動により、高大なる光輝をほとばしらしめたり。その両親、子種ゆたけき天地両親を称賛しつつ、アグニは生まれたり』

 自身のパートが滞りなく終わり、彼はホッと胸を撫で下ろす。気がつくと祭壇の構築は大方完成しており、煉瓦でかたどられたわし双翼そうよくを広げ東の地平へと頭を向けていた。朗誦はすでに三人目のバラモンへと引き継がれている。

 アビルーパは自身の心臓が速く高く鳴っていることに今更気づいた。朗誦の最中、緊張している意識はなかったものの、実は体はそうでなかった。神経はずっと昂り、張り詰めていた。そして朗誦を終えた今もなお止まない。

(なんだ、この感じは?……)

 祭場に焚かれた香の匂いがやけに鼻につく。これまでに経験したことのない妙な心地がしてきた。隣でバラモンの朗誦する声が、次第に小さくなっていく。やがて視界のどこからともなく陽炎かげろうが立ち上り、アビルーパの意識は大きく揺さぶられた。

(……マ……カーマよ……)

 アビルーパは脳の奥深くに響く声があるのを察知した。目を閉じその震源の方へと注意を向けてみる。すると暗闇の底にひとつの祭火が灯る映像を見た。火はゆっくりと育ち、猛き炎と変わり、その前面に揺らぐ陽炎の中から人影が立ち現れた。火炎光背かえんこうはいを有する神の降臨。

「シヴァを射る者、愛神カーマよ。我は火神アグニなり」


── to be continued──


【簡単な解説】

作中に登場するアグニ祭壇は、大煉瓦2000個を使って築き上げられ、大鷲が飛翔するさまを写したものです。

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神々に献じられた供物を祭主がこの鳥の背に乗って天界の神へと届けると考えられています。
ヴェーダの世界は、大地/中空/天上の三界区分が一般的です。それぞれの世界の神として、火神アグニ/風神ヴァーユ/太陽神スーリヤが代表とされます。アグニは地上の神として、また他の世界の神との交信役として、もっとも身近に信奉されていました。

なお祭祀の場面における手続き・作法・朗誦内容などはまったくの創作ですのでご留意ください。


参考・引用文献)
・猪狩彌介「ヴェーダ祭式の祭火とその象徴思考について」『聖なるものの形と場』(2003年)
・渡瀬信之訳『マヌ法典』平凡社(2013年)
・辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫(1970)

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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