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7. 学生期の本分(ダルマ②)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。

【前話までのあらすじ】

愛神カーマは、有力なバラモン家系の子息アビルーパとして転生した。親友ヴァサンタとともに教典ヴェーダ暗唱の修行に明け暮れるが、思うように覚えられずやきもきしていた。その日の学習を終え自室に戻ったアビルーパの元に、父であり師であるシャイシラカが姿を現した。

【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
愛神カーマの化身の1つ。聖地ウッジャイニーに住むバラモン一族の子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。クシャトリヤの家系。ヴェーダ(聖典)を学ぶためにアビルーパの家に出入りし、彼に友情以上の好意を寄せている。

シャイシラカ
アビルーパの父。バラモン(聖職者)としてその地域の祭祀を執り行っている。

シュカ
愛神カーマに仕える鸚鵡おうむ。アビルーパの生きる時代(グプタ朝期)ではペットとして飼われている。

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7. 学生期の本分(ダルマ②)


「シャイシラカ・ジー……今日は、その、お見苦しいところをお見せしました」

 アビルーパは己が不勉強を恥じ、父に対して深々とこうべを垂れた。師でもある壮者に呼び名で敬意を示しながら。

「どうも修行に身が入っていないように見える」

 シャイシラカは身じろぎひとつせず静かに息子を諭す。

「面目ございません……」

 しばし沈黙が居座る。裏庭に面した窓から日が差して、2人の間に柵杭を打っていた。日が傾くような長い沈黙、打ち破ったのは師の方だった。

「お前に、来月のアグニチャヤナの補助祭官を任せる」

 突然の通達にアビルーパは目を見張った。しかもそれは決定事項として断定的に言われた。

 共同体を挙げて執り行われる祭式のうち、高い権威を有するものがいくつか挙げられる。アグニチャヤナはそのひとつで、アグニ祭壇を構築するための極めて重要な儀式だ。
 人々は火神アグニの力に頼って供物を天に届け、恩寵として様々な利益を受けている。その際、天地を行き来するための乗り物となるのがアグニ祭壇であった。

 そんな大きな祭祀の補助祭官を俺が?

 若輩のアビルーパにとっては突飛すぎる任命であった。

「そ、そんな大役……私には無理です」

 両手を広げ一歩踏み出しながら必死で訴える。しかしシャイシラカは眉ひとつ動かさず、

 「今月中に賛歌サンヒターの暗唱を、あとミーマーンサー学派の経典にも目を通しておきなさい」

 そう言い残してついと背を向けた。その瞬間、アビルーパは大声でがなり立てた。

「父上! あんまりです。来月など土台無理な話。私に恥をかかせるおつもりですか?」

 振り向こうとすらしない父に、息子はさらに捲し立てる。

「暗唱ならヴァサンタの方が得意じゃありませんか……彼ならつつがなく大任を務めあげるでしょう。どうか考えをお改めください!」

 しかし子の必死の哀願が父の足を止めることはなく、シャイシラカは廊下の奥へと消えていく。

「…まえ……くては……ないの……」

 去り際に発せられた言葉は石造の壁に阻まれ、アビルーパにはうまく聞き取れなかった。青年はただ立ち尽くす。どう考えても無理な話だった。

「ゴシュジン、スゴイ、カラ!
 ゴシュジン、ダイジョーブ!!」

 背後から送られた鸚鵡の声援も虚しく、アビルーパはうなだれて深く嘆息した。

 寺院の裏手にある庭園で、草木に抱かれて天を仰いだ。アビルーパは己が資質と血統の不一致に思い悩んでいた。

(なぜ俺はバラモンの家に生まれてしまったのか)

 風に木の葉が揺れるたび、前世の記憶が脳裏をかすめた。元々は人々を蠱惑こわくし愛欲の沼に陥れる悪魔だった。その次の世では人々に恋情を呼び起こす愛の神だ。ともすれば遊蕩児ゆうとうじたる俺がいったいなぜ修行者として転生したのだろうか。
 いくら思案を巡らせたところで、答えは出そうになかった。

「……アビルーパは浮かない顔をしていても美しいんだね」

 春めく声が響いたと同時に、親友の顔が視界の中心に現れた。

「ヴァサンタ。少し一人にしてくれないか?」

 アビルーパは、覗き込むヴァサンタの顔を押し除けつつ、おもむろに上体を起こしそっぽ向いた。その挙動に彼の親友は眉尻を下げた。

「心配しているんだよ。もし何か僕にできることがあるなら……」

 そう言って肩に触れようとした手を、アビルーパは振り払った。

「なら俺の代わりに補助祭官を引き受けてくれないか!?」

 怒号にも近い声にヴァサンタは一瞬怯んだが、すぐさま平静さを取り戻し、ゆっくりと告げた。

「アビルーパ、僕がどんなに君のことを大切に想っていても、こればかりは代わってあげられないんだ」

「なぜだ。父上も君もどうしてそんなにも酷なことが言えるんだ?」

 次第に自棄になっていく青年に、親友は優しく微笑みかけた。

「それが君の義務ダルマだからだよ。僕の義務ダルマは、きっと他にある……」

 取り付くしまもないアビルーパを気にかけつつ、ヴァサンタは木々の隙間から空を覗いた。そしてかしこまってその薄桃色の唇を開いた。

〝あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならない。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を同一のものと見よ〟

 親友の朗誦する詩は相変わらず美しい調べを湛えていた。

「バガヴァッドギーターの詩節だよ。これほどまでに正しく神の啓示を聞き取った詩は、他にないと思う。でも……愛も……春の季節も……果実を求めざるを得ないものだ。この詩が真に訴えているものを理解するのは、僕らにとって難しいのかもしれないね。愛神カーマの生まれ変わりの、君よ……」

 言葉の終わりと共に、暑季に似つかわしくない乾いた風が通り抜けた。アビルーパは我に返り、声がしていた方角へ向き直ったが、すでに友の姿はなかった。
 代わりに程よい大きさの石がそこにあり、大事に祀られるかのように、春の花びらに囲まれた一冊の本が置かれていた。本というものがあったかどうかも知れない時代。その表紙には洗練された文字で『マヌの法典』と書き記されていた。

(おまえでなくてはならないのだよ)

 アビルーパは今度ははっきりと、父と春風とが残したメッセージを受け取った。


── to be continued──


【簡単な解説】

 ダルマ(dharma)は「法」と訳されることが多い単語ですが、第一義的には「支えるもの、保持するもの、維持するもの」を意味します。作中ではこの語に「人の義務」という意味を当てており、これは紀元前後頃に発展した概念になります。
 ダルマは時代とともに変遷していくもので、遡ってヴェーダの時代(前10数世紀〜前数世紀)では、ダルマは天理や宇宙秩序に関連して用いられた用語でした。人々の関心が、自然界から人間界・社会へと移ろうと共に「支えるもの」が天理・宇宙原理から、人の本来のあり方・生き方・義務・規範といった意味に置き換わっていったと考えられています。
 バガヴァッド・ギーターの詩節は上村勝彦先生の訳より引用しました。大叙事詩マハーバーラタに挿入されるこの「神の詩」には、クシャトリヤとしての理想的な心構え、つまりダルマが教示されています。それはクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)の言葉として説かれており、民衆の義務ダルマが神的な不動の権威に裏付けられたものだったことが分かります。このように古代インドにおいて、自然現象、信仰、社会制度は無関係でなく、その中心にはダルマの観念があったという見方ができます。

参考・引用文献)
・猪狩彌介「ヴェーダ祭式の祭火とその象徴思考について」『聖なるものの形と場』(2003年)
・渡瀬信之 訳『マヌ法典』(2013年)平凡社
・上村勝彦 訳『バガヴァッド・ギーター』
(1992年)岩波文庫

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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