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prologue【花の矢をくれたひと /連載小説】

〜prologue〜


「おのれ、王子め……解脱などとたわけたことを抜かしやがって。おい、お前たち。アイツが欲望の領土を侵そうとする我々の敵だ。取り囲め!」

悪魔マーラの号令に3人の息子たちと3人の娘たちは足を進め、そびえ立つ聖なる菩提樹を包囲した。
王子の体はすでに樹に取り込まれ、そこから眩い光を放っている。悪魔の息子、娘たちはそれぞれに禍々しい武器を手にしていたが、王子も樹も怯むことなく輝き続けた。

「いいか、お前など今すぐにでも愛欲の渦に巻き込んでやる」
マーラは黍(きび)で作られた弓を構え、弓弦に5本の花の矢をつがえた。そして不敵な笑みを浮かべつつ、弦を引き絞った。

「さぁシャカ族の王子よ、覚悟しろ。欲望に買われろ。愛人の奴隷となるがいい!」

悪魔の手から放たれた矢は、聖なる樹へ真っ直ぐに飛んでいった。息子と娘たちは勝利を確信した。その矢は、かの貞淑なヒマーラヤの女神をも恋に惑わせたほどだったからだ。
しかしまさに突き刺さろうとした瞬間。矢羽の花が萎れ、勢い減じて大地へと落ちた。

マーラは困惑した。
「なぜだ、なぜ花が萎れてしまったのだ!? 王子に弾かれるならまだしも、その手前で落ちてしまうなんて」

輝く樹の根本に落ちた矢は、一本、また一本と色褪せ始めていた。それを目の当たりにした悪魔の三女・トリシャは慄き叫んだ。
「父上、欲望が足りませぬ。欲望が!」
みるみる枯れていく花は、トリシャの言う通り欲望の枯渇を示していた。その間も王子は聖者となるべく、菩提樹に抱かれ瞑想を深めていった。

「父上、我々では到底敵いませぬ! 撤退をご決断ください」
次男のハルシャが弱気な声をあげる。しかしマーラは俯いたまま黙って動かずにいた。
樹が眩さを増してゆく。3人の息子と3人の娘はその膨張する光に圧倒され、後ずさるしかなかった。

しばらくしてマーラの脳にある記憶が閃いた。
「……そうだ、妻は、妻はどこに行った!?」
彼は突如として天を仰いだ。

「私の妻は……あの花の矢を授けてくれた、麗しく優しい妻はどこへ行ったのだ? ああ、愛しい妻よ、私にまた矢をおくれ。私にもっと愛欲をおくれ、さぁ、さぁ!」
空に向かってしきりに、狂ったように叫ぶ。

その言葉を聞いた息子、娘たちはひどく困惑した。慌てて父に尋ね、窘めようとした。

「父上、大丈夫ですか? 我は母など知りませぬ」
「父上、お気を確かに! 我らに母などおりませぬ」
「父上、どうか、どうかご撤退を。あなたに妻などはおりませぬ」
しかしその声はどれもマーラの耳には届かなかった。

「妻よ! 愛欲をおくれ! 妻よ! あなたに会いたい!」
マーラの体が宙に浮いた。
「父上、いったいどこへ!?」
「父上、我々を置いていかれるつもりか?」
「父上、父上ーーー!!」

マーラは菩提樹の傍から姿を消した。
前世の妻を捜す旅が始まったのだった。


〜to be continued〜

かんたんな解説とご注意

この作品は、悪魔マーラと同一視される愛神カーマと妻ラティの恋物語です。登場人物・舞台設定はインドの古典や神話をもとにしています。あくまで二次創作です。

作中の「王子」とは、いわゆる仏教のブッダ(釈迦牟尼仏陀)のことです。解脱をめざすブッダは菩提樹の根本で瞑想を行います。これを邪魔したのが悪魔マーラと伝えられています。仏伝文学では、放たれた矢に一切動揺しないことで、ブッダの超人性が描かれています。

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〔悟りを開こうとする釈迦牟尼仏陀を攻め入るマーラの絵です。敦煌出土。魑魅魍魎や女人たちを引き連れているのは仏典の通りで、どれがマーラかはよく分かりません〕

そしてここで登場する「花の矢」は、ヒンドゥー教の神話に登場する愛神カーマの武器でもあるのです。カーマは親玉的な神に頼まれて、シヴァ神と、後に彼の妻になるパールヴァティーに向けて矢を放ちます。この矢によって、パールヴァティーはシヴァに恋をするのです。しかし、このことでシヴァ神の怒りを買い、焼き殺されてしまいます。

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〔愛神カーマの絵です。緑の駆体をしており、作中にも登場した弓矢を構えています。鸚鵡に乗った姿で描かれることが多いようです〕

西洋のキューピッドとも言える愛神カーマ。彼が悪魔マーラと同一視されているところにインスピレーションを感じ、本作に取り掛かりました。

更新は不定期です。のんびりやりますm(_ _)m

*なお本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。
*解説中の画像2点はいずれもパブリックドメインのものを使用しています


参考文献

・上村勝彦『インド神話』ちくま学芸文庫

・梶山雄一ら『原始仏典10 ブッダチャリタ』


ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!