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6. マヌの洪水神話(ダルマ①)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。

【これまでのあらすじ】

前世において仏陀と対決した悪魔マーラは、別の時代では愛神カーマとして生き、弓矢の名手としてシヴァ神と対峙する運命を背負っていた。その歯車を廻すために降り立った更に別の時代で、彼はアビルーパの名で呼ばれており、運命の鍵を握る少年との出会いを果たす。花を咲かせる神の化身として顕れた親友ヴァサンタだった。

【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
愛神カーマの化身の1つ。聖地ウッジャイニーに住むバラモン一族の子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。クシャトリヤの家系。ヴェーダ(聖典)を学ぶためにアビルーパの家に出入りし、彼に友情以上の好意を寄せている。

シャイシラカ
アビルーパの父。バラモン(聖職者)としてその地域の祭祀を執り行っている。

シュカ
愛神カーマに仕えるオウム。アビルーパの生きる時代(グプタ朝期)ではペットとして飼われている。

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6. マヌの洪水神話(ダルマ①)


 太陽は天の中心に座し、菩提樹の真下にその日もっとも小さく濃い影を落としていた。

 樹の根本には石の台座が置かれ、1人の壮者が結跏趺坐を結んでいる。口周りと顎に髭をたくわえた男で、褐色があらわになった上半身には首から木製の数珠が幾重にもかけられていた。両肩から無造作に垂れる白い布は、下半身を覆う腰巻きと同じ素材のようだ。額には白の染料でUの字が描かれ、その間に赤の縦線も入れられている。この地域の祭祀を取りまとめるバラモンで、名をシャイシラカという。

 彼の膝元で2人の青年が地べたに座す。壮者の息子アビルーパと、その友人でクシャトリヤの家系のヴァサンタだ。

「マヌはこのよう…に…魚を飼育して……海に放した…………魚…があらかじめ……指示……指示したその年に……マヌは船を…設えて……」

 たどたどしく詩を朗じているのはアビルーパ。読みは途切れ途切れとなり本来の韻律がすっかり失われている。必死さに顔は俯きがちとなり、焦りのために皺が寄った額に嫌な汗が滲んでいた。

「それ……それゆえ……祭祀のちゅうか……えーと……えーーーと……」

「もうよい、アビルーパ」

 朗誦を制止したのはシャイシラカだった。アビルーパがおずおずと顔を上げると、そこには厳しいとも穏やかとも、何とも言えない表情をした父の顔が浮かんでいた。

「ヴァサンタ……続きを」

「はい ──それゆえ祭祀の中間であるから。子孫を欲して、彼女と共に彼はたえず讃歌を唱え、苦行をしつづけた。彼女により彼はこの子孫を生んだ、すなわちこのマヌの子孫、人類と呼ばれるものを──」

 ヴァサンタの朗唱は流麗さを失することなく続き、ほどなくして章の最後まで到達した。聴き終えた師はおもむろに立ち上がり、一切口を開くことなく菩提樹の下を後にする。

 父の背を見送る間、アビルーパは忸怩の想いに囚われて一切の声をかけられなかった。

「ふぅ……やっと終わった。またうろ覚えのまま学習に臨んでしまったな」

「ははは、途中までは良かったのにな」

「ヴァサンタ、君は一体いつの間に暗唱を完璧にしたんだ?」

「僕にとっては君に一目置いてもらうことより大変なことなど何一つないんだよ?」

「ヴェーダの暗唱と恋の手管を並べて語るなよ」

「ふふ、そういうところ、君はやっぱりバラモンの子なんだね。真面目で……魅力的だ」

 ヴァサンタは流し目でアビルーパを見やり、彼の方へと手を伸ばす。その指先が頬に触れる寸前、

「あ、あぁっ! そろそろシュカに餌をやる時間だっ!!」

 アビルーパはふつと飛び上がり、ヴァサンタにいかなる隙も与えないまま、館へ足を急がせた。
 庭にひとり取り残された親友は熱っぽい瞳のままその背を見送り、そしてゆっくり立ち上がる。垂れ下がった菩提樹の枝にフッと息を吹きかけると、そこにクリーム色の花が開いた。


「まったくヴァサンタ、遠慮を知らない奴だ。いつか喰われてしまわないか……」

 アビルーパが廊下を抜けて自室に戻ると、鸚鵡おうむのシュカが籠の中で何やら騒ぎ立てていた。

「──サカナワイッタワタシハアナタヲスクイマシタフネニキヲオツナギナサイシカシヤマニイルアナタヲ──」

 どうやら鸚鵡は、先ほどまで弟子2人が朗誦していたシャタパタ・ブラーフマナの一節をすっかり覚えてしまったみたいだ。

「なんだよ、お前まで俺を置いてけぼりにすんのかよ」

 軽く拗ねた素振りを見せながらも、餌の入った小瓶を手に取り、匙で鸚鵡に差し出してやる。シュカはすぐさま朗誦を止め、夢中で餌を啄み始めた。

「鸚鵡のお前がすぐ覚えられんのに、なんで俺にはできねぇんかなぁ〜」

 アビルーパが頬杖をつきながらボヤいたところ、浮かない顔に気付いたシュカは暗記したものとは違う言葉を喋り始める。

「ゴシュジン、スゴイ!ケド!
 ゴシュジン、スゴイ!ドンクサイ!!」

「どっちだよ!」

 苦笑いを浮かべつつ匙でシュカの眉間を軽く小突く。どの時代どの世界に居ても鸚鵡が一言多いことに変わりはない。アビルーパはこんな小競り合いに既視感を覚えつつ、心の底では楽しんでいた。

 戯れのさなか、アビルーパは背後から向けられる視線を感じ取りふと振り返った。部屋の入り口には、つい先ほどまで師として対峙していた父シャイシラカの姿があった。


── to be continued──


【簡単な解説】

 作中でアビルーパとヴァサンタ、シュカが朗誦しているのは、ヴェーダの中にある『シャタパタ・ブラーフマナ』と呼ばれる神話群より「マヌの大洪水の物語」です。
 マヌという男が魚を助け、後に訪れる大洪水の日に、以前助けた魚に救われるという「恩返し」系の神話です。洪水の生き残りが現在の人類の祖先になっているという点で、世界諸地域にある大洪水神話と全く同じテーマをとっています。
 後に『マヌ法典』という古代インドにおける精神的主柱たる法典が登場しますが、ここでのマヌとはマヌの子孫(=人類)のことを示したものです。
 またヴェーダは口伝でのみ継承されてきた聖典であり、現代においても作中に描いたような暗唱の試験があるそうです。作中場面は4-5世紀を想定していますが、ヴェーダが文字に起こされ始めたたのは14世紀以降のこととされています。もちろんこの「ヴェーダ詠唱の伝統」はユネスコ無形文化遺産に登録されています。

引用文献)
辻直四郎ら 訳『世界文學体系・インド集』
(1959年)筑摩書房

【ご注意】

本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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