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掌編小説 『童話 奇跡の雪』

 彼は実によく笑う少年だった。彼のことを知る者はみな……ひと目見かけただけの者も……、万物を照らすようなあのくったくのない笑顔を褒めたたえた。彼の笑顔にはつねにこの世界への感謝と喜びがあふれていた。それは寸分の疑いもない純粋のものであり、見る者の心を率直に打った。
 彼にはかけがえのない弟がいた。三つ年下の弟は、まだ赤ん坊の頃から重い病と運命をともにさせられていた。小さなからだで、苦い薬とはげしい痛みに日々耐えている。彼は弟の前ではことさらよく笑った。自分が笑うと、病気疲れの弟も、看病疲れの両親も、ほうっと頬をゆるませて、笑う。そのことが彼は嬉しい。だけどもわざと笑うのではない、みんなといるだけでしんから楽しいから、笑うのだ。まがいものの笑みなど、彼は生まれてこの方いっぺんもうかべたことがなかった。
 今年の春になって、弟はとうとう外に出ることすらかたく禁じられた。あとわずかの命だと、街で一番の名医が断言した。両親も、彼も、別の家で暮らす祖父母も、そして弟自身も、みなそのことを知っている。弟には直接告げたのではない。だが弟は、誰かが囁くのを聞いてしまったのだろう。もうじき僕は死ぬんだねと、ずいぶん落ちついた様子で呟いて、母親を嗚咽させた。
 弟はありふれた自然を愛する子どもだった。そんな繊細な感性の持ち主にとって、庭の花にもふれられないと云うのは、どれほどさびしいことだろう。日がな一日、清潔に整えられたベッドから、窓の景色を遠く眺めるだけ。本来なら無邪気なさかりのはずなのに、外出を禁止されても、痛い注射を何本も打たれても、何の不満も、泣きごとも、云わない。わがままも、一言だって口にしない。幼いからだに似つかわしくない辛抱強さは、むしろそばにいる者たちをせつなくさせた。
 彼は弟の為に何でもしてやりたかった。その思いは、もちろん両親も、祖父母も、同じだった。もっと何か欲しがって。欲しがってちょうだい。母親がそううながしても、弟は大丈夫、十分だよと云うばかり。ああもっと、何か欲しがってもらえるなら。おしみなく与えて、おしみなくあの子を喜ばせることができるのに。あの子が本当に満足するには、一体何をすればいいのだろう……両親は弟に対して、深い罪の意識があった。それは全くもって無実の罪だと祖父が慰めても、母親はかぶりを振って聞き入れなかった。
 もっとあの子に存分にわがままを云わせてあげればよかった。何も知らない赤ん坊の頃から我慢なんてさせなければよかった。そうでないと病気とは戦えないからと、耐えることばかり強いてきたのは、私たちのあやまちだった……母の悔恨が、彼の胸にも苦しく突き刺さった。
 もっともっと弟に、楽しい思いをさせてやりたい。彼は弟がかわいそうだった。弟はまだほんの子どもで、しかも人生のほとんどをベッドにくくりつけられてきた。同じ年頃の子たちと遊んだことだって、数えるほどしかない。だから弟に友達と呼べる相手はいない。世界にはたくさんの面白いこと、すてきなことがあるのに、それらをまるで経験しないまま、世界と別れていくのか。
「お兄ちゃんはいつも楽しそうだ」
 弟は大きくふくらんだチューリップの花を持ち上げて、重たい、と、呟く。彼が驚かせようとして、ベッドに寝る弟の胸に、にわかに投げてよこしたのだ。弟は彼の想像どおり目を見開いて驚いて、ほら、ひっかかったと、彼は手を叩いて喜んだ。ああ、びっくりした、何かこわいものが空から降ってきたのかと思った。だまされたと判った弟も、声を立てて笑った。
 それから彼は弟に、今日体験した愉快なできごとを、身ぶり手ぶり話して聞かせた。
「だって本当に楽しいんだよ」
 彼は座っている椅子を揺らして、がたがた云わせる。本当の本当は、今日のできごとを全て、弟と一緒に楽しがりたかった。冒険のさなか、この感官ゆたかな弟が隣りにいたのなら。
「これまでいっとう楽しかったことは、なあに、」
 弟は甘やかな綿の声で、内緒話をするようにたずねた。彼は即答する。「そりゃあ、あの雪の日だよ」
 弟は微笑む。「僕も、あの雪の日が、いっとう楽しかった」
 はじめて弟が雪にふれた日。家族全員で、ひとしく楽しがった。だからあの雪の日が一番だ。弟は雪の美しさに驚き、つめたさにまた驚いた。父親まで子どもみたいに張りきって、雪玉を投げ合った。
「今年も雪が見られるかしら」
 弟は吐息する。
「そりゃあ見られるさ。絶対に見られる」
 彼は力強く答える。
「僕、寒くても、つめたくても、雪が大好きだ。あんなにきれいで、やわらかいのだもの。僕また雪にさわりたい」
 赤いチューリップの花びらを、弟はやせた指でなでる。
「きっとさわれるよ。知ってるか、雪は食べることもできるんだぞ」
 ふふふ、と、弟は肩を揺らす。
「だったら僕、今度は雪をめいっぱい食べたい」
 その日から彼は神さまに毎晩祈りを捧げた。今年も弟が雪を見られますように。
 勉強机に置いた神さまは、願いが叶うと人に教えられ、母親が買ったものだった。牛乳瓶ほどの大きさの木彫りの像に、金や白や赤や青で着色がほどこされている。たいそう高値であったらしく、事情を聞いた父親は、すごい剣幕で母親を叱りつけた。
 何が神だ。こんなものにすがって、一体何になるんだ。奇跡でも起きると云うのか。
 窓から投げ捨てられた神さまを、彼はこっそりと拾って、自分の部屋のたんすに隠した。
 父はそもそもあまり信心のある人ではないし、お金のかかることは好きではないから、あんな風に母親を怒ったのだろう。けれども神さまは神さまではないか。この神さまは他の神さまと比べてずいぶん質素だけど、それでも神さまは神さまだ。神さまはこの世界を創ったお方なのだから、大事にして、敬わなければいけない。
 他の神さまはやさしく微笑んでいることが多いが、この神さまは全く無表情だった。お祈りをしながら、神さまも笑えばいいのに、と、彼は思った。神さまが笑わないかわりに、自分が神さまに笑いかけた。それは神さまへの感謝の表現だった。このすばらしい世界を創って下さったことへの、最大級の感謝。どれだけくたびれきった日でも、彼は決して神さまへの感謝と祈りをかかさなかった。
 ある日ついに弟の命は死の間際まで追いやられた。もういけませんと、医師は重々しく家族に宣告した。その場に泣き崩れた母親を父親が支え、彼は弟の枕元へ飛んでいった。高熱にあえぐ弟に、懸命に言葉をかける。ほら、わがままを云ってごらん。わがままを云ってごらんよ。何でもお前にくれてやるから。
 ……ゆき。弟はかぼそい息で答えた。そうか、と、彼は大きく頷いた。お前は雪を見たいのだな。あの雪の日に帰りたいのだな。みんなでひどく楽しがったあの雪の日に。
 だが今は夏のなかばだ。奇跡でも起きないかぎり、弟に雪を見せることはかなわない。
 彼は自分の部屋に駆け戻り、神さまの像を机に置くと、ひざまずいて夢中で祈った。どうか雪を降らせて下さい。たった一日だけでいいのです。たった一日だけ、この街に雪を降らせて下さい。
 ──どうしてお前、今日は笑っていないのだ。
 神さまのおごそかな声がした。
「弟が……もういけないから」
 彼は知らぬ間に泣いている自分に気がついた。
 ──私はお前の笑う顔が好きなのだよ。いつもお前は笑って、この私に感謝する。そう云うお前が、私はとびきり可愛いのだ。さあ、今日もいつものように笑ってごらん。
 神さまの声は彼の頭の中にじかに響いてくる。彼は笑おうとした。しかしとうてい笑えるはずがなかった。全然楽しくないのに、こんなにも胸が潰れそうなのに、笑えるはずがない。
「神さま、弟が本当にもういけないんです。どうか弟の願いを叶えてやって下さい」
 ──そうだね。
 神さまは思案するように間を置いた。
 ──可愛いお前の頼みだから、ひとつ叶えてみようか。
「ああ、ありがとうございます。たった一日だけでいいんです。どうかこの街に雪を降らせて下さい。弟に雪を見せてあげて下さい」
 彼は感激して神さまを両手で包み込んだ。やはり神さまは神さまだ。どんな奇跡でも起こしてくれる。
 ──いいだろう。だがそれには材料が必要だ。
「材料?」彼は首をかしげる。
 ──この夏のさなかに雪を降らせるのだから、当然、材料がなければいけない。雪の元となる材料が。
「それは一体なんですか」
 弟の望みを叶える為ならば、どんな材料でも調達しようと、彼は勢い込んだ。
 そうだね、と、神さまはまた思案する。
 ──お前のその涙にしよう。お前に涙は似合わないからね。大体、涙など必要ないだろう? お前だって、毎日楽しく笑って暮らしたいだろうよ。
「はい、そうです」彼は頷いた。
 ──だからお前の一生分の涙を、凍らせて雪の材料にしよう。お前、いいだろう。弟の最後の望みを叶えてやりたいのだろう。なら一生分の涙くらい、安いものだろう。
 彼は飛び上りたくなった。ああ本当に、この神さまはなんとすばらしい神さまなのだろう。
「もちろんです。どうぞ僕の一生分の涙を材料にして、この、街に雪を降らせて下さい。弟に雪をみせてやって下さい」

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 あくる朝、一変した街の景色に、人々は仰天した。何と云うことだ、真夏の奇跡だと、あちこちで興奮と感動の声が上がった。
 彼は大喜びで弟の寝室のカーテンを開けた。
「ほら、雪だよ。雪が降ったよ。お前の為の雪だよ。見てごらん、さあ」
 弟は弱々しく首をかたむけて、窓の外を見た。白く染め上げられた街に、ひとみが輝きに波打つ。
「ああ、本当だ。雪だね、お兄ちゃん」
 彼は弟の手を握った。「そうだよ、本物の雪だよ」
「なんてきれいなんだろう。あの日の雪と、ちっとも違わない」
 一晩中、弟のそばに付き添っていた両親も、雪を見て涙ぐんでいる。
「そうだよ、雪はいつだって美しいんだ。永遠、美しいんだよ」
「そう。雪はえいえん、美しいんだね」
 弟は微笑んだ。これまで見たことのないくらい、幸福に満ち満ちた表情だった。
 そうしてその晩に弟が息を引き取るまで、奇跡の雪は降り続いた。
 臨終の際も、別れの儀式の間も、彼は一滴の涙もこぼさなかった。胸の底から衝き上げてくる悲しみは、行き場なく再び胸の底へと沈んでいった。
 それから彼はいっさい泣かなくなった。どんな悲しいことがあっても、辛く苦しいことがあっても、彼の両目が涙を流すことはない。しかも消えたのは涙だけではなかった。あの印象的な笑顔も、なぜか同時に失われてしまった。
 あれだけよく笑い、生きる喜びを全身であらわしてきたのに、まるきり笑い方を忘れてしまったかのように、彼は表情を変えない。誰かと楽しみを分かち合うことを、しない。全く別人のようになってしまった。大切な弟がいなくなったせいだろうと、人々は彼をいたましく思った。だが長い年月が過ぎても、彼に表情は戻らない。感情は戻らない。次々と家族を亡くし、それでも涙を流さぬ彼を、人々は冷淡な人間だと遠巻きにするようになった。
 ひとりになった彼は、いつしか神の像を彫るようになった。
 ──これはにせものの神さまだ。けれど誰かがひたむきに祈り続ければ、やがて本物の神さまになれる。宝物のような願いを、叶えてくれる。
 飾りけのない素朴な木彫りの神さまは、どんな望みも叶えてくれ、幸福を授けてくれるのだと、口づてに広まっていった。いずれも作った者の姿を写し取ったかのように、無表情だった。


《 終 》
(2021年作)

*素敵なイラスト作品をお借りしました。どうもありがとうございました!

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