掌編小説 『華の國』
狂おしいほど甘やかな花の香りは、容易にユウイの夢に忍び込んで、意識を揺さぶった。遠くから玲瓏と鈴の音がして、ゆっくりと近附いてくる。
すぐ傍らに、跪く人の気配がするけれど、瞼は開けない。瞼は重い。心ゆくまで睡っていたい。目覚めることが尊いとは、とうてい思えないのだし。
ならば飽くまで惰眠を貪っていたい。天成の怠け者の肉躰は、するすると夢の世界へと舞い戻ろうとするけれど、この花の香りが邪魔をする。憎らしく覚醒をうながす。掛布をたぐりよせ、胎児の如く背を丸める。
「さ、お起きになって」
その声に、つい、答えてしまう。「あと五分」
「なりません」
水面を、叩いた飛沫のつめたさのような返し。それでも夢境の名残り惜しくて、「あと三分」
「いけません」
男の手で容赦なく掛布は剥ぎ取られる。内股がすうすうとする。いつの間にか下着をつけてはいなかった。裸の足先をこすり合わせながら、観念して瞼を開ければ、寝台のまわりは多彩の花が妍を競っていた。
「どうして花なの、」
「みな貴方様へ捧げる花ですよ」
まだぼんやりとする少年の躰を、長躯の男は羽毛のように抱き上げて、そのまま寝所を出て隣の間に移る。男の玄い足袋が、床に敷きつめられた花の頸を散らした。
このうえなく丁重に、きらきらしい縁飾りのついた茵の上に下ろされる。男は薬草の浮かんだ湯桶から水に浸した布を絞ると、大きな手に相反するような繊細な手つきで、ユウイの顔を拭いた。目くそや抜けた睫毛をも拾って膚を整えると、今度は白粉をはたきだした。
「どうして、」
思わぬ仕打ちに、ユウイは咳き込みながら訊ねた。「どうしてこんなことするの、」白粉など、これまで無縁のものだった。粉は鼻孔にまで入って、粘膜をつんと痛めた。
男は長い指の先に紅を取ると、ユウイの眦にその紅をぼかした。
「あなたは神になったのです」
「──そう」
ユウイはようやく合点がいった。「道理であれこれおかしいと思った」
「はい。まだお成りになったばかりですからね。しかしじきに慣れることでしょう」
淡々と男は云って、ユウイの髪を梳く。なりたての神の髪は、まだ芯の無いやわらかさだった。只の人間であった昨日よりも遥かに長く、引きずるようなのも、以前の黒髪とかけ離れた白銀色をしているのも、神の身となった所為だと考えれば、何ら不思議ではなかった。燦然と輝いて、まるで新しい神を讃えているかのようだった。
男の櫛が、つ、と、髪のひとすじをつった。
「いた……、」
思わずユウイが呟くと、男はただちに三つ指をついて、頭を垂らした。
「申し訳ございません」
こんなことくらいで大仰な、と、ユウイは愕きながら、「うん」と、簡単に返事をして済ませようとすると、
「私を祟りなさいませ」
と、男が云ったので、さらに仰天をした。
自分は全体いつ祟り方なんぞ識ったのか、どう頭を捻っても、皆目憶い出せないので、弱って、正直に白状をする。
「どうやって祟れば良いのか判らない」
いくら新米と云えども間の抜けた神だと、男は呆れただろうか。こわごわと表情を窺い見れば、やはり男は怖い顔をしている。
「そのようなことでは困ります。さあ、存分にお怒りなさいませ。私を祟りなさいませ」
怒っているのは男の方だった。ユウイはますます窮して、どうしたものかと迷った挙句、
「お前の口の中に、でっかい口内炎が出来れば良い」
などと云ってみると、男は満足そうに、
「そう、そう、その調子です。このたびの神様は上出来です」
左の口の端を指で引っ張って、頬の内側を見せるようにすると、そこにはユウイの云ったとおりに、大きな口内炎が出来ていた。なるほど神とはこのように人に罰を与えるのかと、ユウイは密かに学習をした。
化粧が終わると、続いて男は一枚ずつ花びらを包むように、ユウイに着せていった。幾重にもかさねて、肩が凝る。いずれの衣にも全面饒かに刺繍がしてあって、おまけに光る石やら金やらの装飾も、過剰につけさせられる。
「これ、全部つけなくちゃ駄目なの、」
「もちろんです。おおいに着飾れば着飾るほど、たくさんの人の尊敬を集めますから」
「そう」
息苦しさに溜息をつきながら、ユウイは頷いた。
「さあ、お勤めのお時間です」
「お勤めって、」
「もちろん、神様のお勤めです」
男はずっしりと衣装の重みを増したユウイを平然と抱き上げると、支度の間を出た。隅々まで清められた長い廊下を、いかにも厳かな足取りで進んでいく。
自分の足で歩けるのだから、わざわざ荷物にしなくても良いのにと、ユウイは羞しくなったが、男はさも当然と云う様子なので、黙っていた。まだ自分は、神の振る舞いの全てを理解していないのだ。
大きな広間に祭壇は拵えられていて、その後ろの格子戸で仕切られた結界の内に、ユウイは鎮座させられた。祭壇には米や酒や農作物が供えられ、寝所同様に多種多様の花々が、馥郁と彩っていた。
世話役の男はユウイの背後に控えるようにして坐った。鉦を叩く音が鳴り響いて、透き徹るように揺曳すると、場の空気が引き締まった。いったんの静寂の後、祝詞だか経だかが始まって、格子の隙間からちらちらと見えるのは、黒衣を着た坊主たちだった。
祝詞だか経だかが終わると、坊主たちは去っていった。これから何が行われるのだろうと待っていると、人影が向こうからやってきて、祭壇の前で手を打ち鳴らし、ごにょごにょと何ごとかを唱える。唱え終わると、一礼をして帰っていき、また新しい人影が来て、ごにょごにょである。
どうも願いや祈りやそうしたものらしいけれども、睡たくてたまらないユウイには上手く聞き取れない。欠伸をすると、男が後ろから咳払いをした。
「そのようなことではいけません。どの人もみな、一心に貴方様に向かって祈るのですから」
「そう」
ユウイは再び込み上げる欠伸を噛み殺して返事をする。「それはせつないね」
「そう、せつないのです。昨今ぞくぞくと新規の神々が台頭していますが、人々は真に頼れる、勁い神を求めているのです」
その気持ちは、ユウイにも理解出来るような気がした。生きると云うことは、まこと、まこと、心繊い。
「それで、その勁い神になる為に、僕はどうすれば良いの、」
ふかふかの座布団の上で坐り直しながら、ユウイは訊ねた。
「素晴らしい心がけです。まこと、このたびの神様は上出来です」
男は微笑んだようだった。
「ご安心下さい。貴方様はいちいち私の申し上げるとおりにすれば良いのです。全てこの私が、善きように導きます故。そうすれば、誰もが崇め奉る立派な神となれますでしょう」
「つまり、人気商売ってこと、」
「そのような俗なことではありません。貴方様を信じ、崇める者がいればいるほど、貴方様の神力は高まり、その分だけ多くの者を救えると云うことですよ」
さ、悩める者たちの祈りにお耳を傾けるのですよ。まず肝心な、貴方様のお勤めです。
男の教えに、ユウイは素直に従った。
「そう、判った」
慥かに退屈ではあるけれど、勉強や運動をするよりかは、怠け者のユウイには良かった。それに、神だ神だと讃えてくれるのならば、お勤めの後にはさぞや贅沢なご馳走が出てくるに違いない。
けれどもようよう本日のお勤めを終わらせて、くたびれ果てたユウイの前に出された膳の中身は、真っ白の粥と、椀にたっぷりと注がれた緑色の液体だけであった。
期待を裏切られ、「これだけ、」と、情けない声で訊ねてしまう。「肉が食べたい」
男はきっぱりと頸を横に振った。
「なりません。穢れを口にされることは、断じてなりません」
「そう」
ユウイは仕方が無いと、粥を匙で掬って口に運んだ。ほのかに塩味のするだけで、さして美味しいとも思えないが、腹が減っていたのでたいらげた。椀の中のどろどろとした緑色は、どうやらさまざまの野菜の汁のようだった。野菜は苦手である。
「これはいらない」
「いけません。米も、作物も、貴方様に捧げられたもの。貴方様の血肉となり、力の源となるもの。さ、残すことなく召し上がりなさいませ」
「そう」
ユウイは渋々と椀を傾けた。食事は散々だった。コンビニエンスストアで売られているフランクフルトが恋しくなった。
「コンビニ行ってきても良い、」
「いけません。彼処は穢れが多すぎます」
「そう。じゃあ、ゲームしても良い、」
「いけません。お躰に障ります」
男は全然聞き入れてはくれない。どうも神と云うのは不便な身のようだぞと、ユウイは水風呂に顫えながら思った。
明くる日は男と共に街へ出た。男がユウイを抱き上げたまま歩いた。その後ろを、坊主たちが鈴を鳴らしながらついてきた。
「自分で歩けるけれど、」
「私は貴方様の車ですから」
そう、と、ユウイは答え、人にあふれた通りを見回した。ずいぶんと久し振りに見た景色のように映った。人々はユウイに何の興味も示すことなく横切っていったり、値踏みをするような目つきをしたり、手を擦り合わせて拝んだりと、いろいろな反応をした。
ハンバーガー屋の看板を見つけて、ユウイは懐かしくなって男に云った。
「ハンバーガー食べたい」
「いけません」
男はすぐさま却下する。店の入り口から出てきた人たちが目を繊めて齧りつくハンバーガーを、ユウイは指をくわえて見つめた。
拍子木の音がして、向こうから別の神様がやって来た。その神もユウイと同じように大男に抱き上げられて、後ろを一人の小男が拍子木を打ち鳴らしてついてきていた。
神仲間に出会えたのが嬉しくて、「こんには」と、ユウイは話しかけた。歳も近いようだし、友人になれれば心勁い。けれどもその別の神様は薄く唇を開けただけで何も云わず、ユウイの横をひっそりと通り過ぎていった。
後ろ姿を見送りながら、ユウイは彼の衣装が酷く色褪せているのに気が附いた。ユウイと比べて、装飾品も少なかった。
男がひややかに云った。
「たいしたご利益がなければ、人の心は簡単に離れていきます」
別の神様に向かって拝む者は、一人としていなかった。
「良い神にお成りなさいませ。誰もが敬愛し、信じ、崇める勁い神に。貴方様には、かつてないほどの素晴らしい神になっていただきたいのです」
ユウイを支える男の手に、力がこもった。
「どうして僕なの、誰が選んだの、」
「別に誰でも良いのです。私たちの求めるように、ただ完璧にこなしていただければ」
「そう」
ユウイは拍子木を打っていた小男が、拍子木を捨ててハンバーガー屋に走っていくのを眺めながら頷いた。
「お前の云うことを聞いていたら、本当に良い神になれるの、」
「私の申すことではありません。多くの者が、望むことです」
「そう」
ユウイはもう一度頷いた。「それならきっとそうなんだろうね」
それからユウイは男に云われるままに、お勤めをして、粥と野菜の汁を啜って、水風呂に浸かって、日々を過ごした。
「ハンバーガー食べたい」
「いけません」
「ピザが食べたい」
「いけません」
「チョコレートパフェが食べたい。それならいいでしょう、」
ほんの子どもだった時分、好物だったものの名前が、不意に転げ出た。
「いいえ、いけません」
このようなやりとりにも飽きて、自分の躰がだんだんと、水晶のようにきよらかになっていく実感がした。
日を追うごとに信者の数は増えていくようだった。お勤めの時間が始まると、ひっきりなしにユウイを拝みに来る。はじめの頃はさっぱり聞き取れなかったのが、今ではどの願いも、祈りも、鮮明に聞こえるようになった。誰も彼も些細のことから生死のことまでユウイに頼みにきて、いつかこの声を耳にしたような気のすると云う声も、幾つかあった。
「貴方様の為に、巨大な鳥居を建てましょう。その表面に、おしみなく金箔を施すのです」
心なしかうきうきとした様子で、男が云う。
「どうして、」
「皆が望むからです」
「そう」
人間であった頃はたくさんのものを欲しがったような気がするが、今では祭壇や寝所に飾られる夥しい花の香りを嗅いでいるだけで、自然と心は満ちていく。粥にも緑色の汁にも水風呂にも慣れて、もうかつてのような我侭も、云わなくなった。
そろそろ自分は神らしくなったのかしらと、ユウイは思った。
朝、目が覚めると、両の足が動かなくなっている。掛布をめくって、まるで人魚の半身のように横たわるおのれの足を、ユウイは凝視した。酷く白く、酷く繊くて、血の通っていない、無機のもののようだった。
男が来て、支度の間に連れていかれる。顔を拭かれ、白粉をはたかれる。お互いに何処かそらぞらしく黙っていた。
続いて男はユウイの髪を梳きはじめる。その手は微かに顫えているようだったが、櫛の歯が髪に引っかかることはなかった。
ユウイはさほど勁い慾求でない慾求を、発した。
「ハンバーガー食べたい」
「いけません」
思ったとおりの答えが、言下に返ってくる。ユウイは自分がまだ声を出せるのだと云う事実に、安堵した。
支度が済み、男に抱き上げられる。不浄を脣にすることなく百日過ぎた躰は、一茎の雛菊よりも軽いだろう。
ユウイは力無く垂れ下がった両足を指で差した。
「これ、一生このまま?」
男はわずかに間を空けて、答えた。
「──ただ相応しいかたちになられただけのことです」
いずれ両の手も、足と同じく動かぬようになってしまうのだろう。そうして私の神格は、ますます高まるのだろう。
「そう」
ユウイは頷いた。男は立ち止まり、ユウイを見据えた。陽光の降り注ぐ中にあっても深い闇の色をしたその睛を見つめ返して、この神の世話役の男もまた、一心に救いを求める一人なのだなと、ユウイは思った。
「……パフェでも食べますか、」
無表情を崩すことなく男は云った。うん、と、ユウイは頷き、男の頸にすがりついた。
【 終 】
2018年作
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