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「建国記念の日」とテレビ番組『日の丸』、映画劇『無理心中日本の夏』

 日本の暦法

 『月刊しにか』 (大修館書店)1995年(平成7年)4月1日号に掲載された、岡田英弘(1931年1月24日~2017年5月25日)「『史記』と『ヒストリアイ』」を、2007年(平成19年)5月24日発行、「WAC BUNKO」、76歳の岡田英弘著『日本人のための歴史学こうして世界史は創られた!』(WAC、本体933円)、第1章「偶然の積み重ねが歴史をつくる」、「『ヒストリアイ』と『史記』と『日本書記』歴史はここに始まった」より引用する(49~50頁)。

 建国の動機が中国の侵略に対する自衛運動だったから、天智天皇の弟の天武天皇が命じて編纂が始まった『日本書紀』も、対抗文明の歴史らしく、『史記』に始まる「正史」の枠組みを全面的に採用しながら、中国からの影響を完全に否認している。日本建国の年代を、百済の滅亡の翌年六六一年辛酉(しんゆう)(「辛酉革命」)から一千三百二十年前の紀元前六六〇年辛酉に置き、日本列島はその時以来、常に天皇のもとに統合されていたとする。一千三百二十年は、後漢の鄭玄(じょうげん)の理論では文明の一サイクルの長さである。『日本書記』がこのサイクルを採用したのは、『史記』の、黄帝に始まり紀元前一〇四年に終わるサイクルという、中国史の枠組みの換骨奪胎である。しかも仮想の日本建国者・神武天皇から、皇統は万世一系で『日本書紀』編纂当時の天智天皇・天武天皇兄弟までつながるとしている。これは「正統」の日本版である。

 2016年(平成28年)2月25日発行、「中公新書」、遠藤慶太(1974年~)著『六国史(りっこくし):日本書紀に始まる古代の「正史」』(中央公論新社、本体820円)、同書、第1章「日本最初の歴史書」より引用する(36~38頁)。

 時代をさかのぼるほどに、歴史事象が「いつ」起きたのかは明瞭でなくなる。某々天皇の御代とあるのが伝承の原型であろう。ところが『日本書紀』は日本最初の公式の史書として、あくまで年紀を立てることにこだわった。
 そこで初代神武天皇の即位であれば、辛酉(かのととり)の年の春正月庚辰(かのえたつ)朔として記載する。古代中国の思想に従い、大変革(革命)が起きるとされた辛酉年、それも推古天皇九年の辛酉(六〇一)から一二六〇年さかのぼった紀元前六六〇年の正月一日に初代天皇が即位したと設定したのである。
 このような紀年操作の結果、『日本書紀』の紀年そのものも延長されることになる。歴代天皇の在位年数・年齢が異様なまでに長寿であるのは、紀年の延長に理由がある。

 大陸の中原の戦国時代(前403~前221年)に暦に用いられはじめた、60年を1周期とする干支(かんし)の最初の年は甲子(こうし)年だ。
 漢代に、道徳習慣の模範を記した「経書」に付属して人事を神秘的に予言した書物は「緯書」と呼ばれた。60年単位の周期性をもつ干支も予言の学説だ。
 後漢代の経学の学者、鄭玄(じょうげん、127年~200年)は、経書と緯書の本文校訂をおこなったが、多くは散佚した。
 日本の三善清行(847年~919年)が、辛酉年の901年(昌泰4年)にあたり、元号の昌泰延喜と改元することを勧めるため醍醐天皇(885年~930年)に献納した「革命勘文(かくめいかんもん)」に、『易経』の緯書に「辛酉爲革命 甲子爲革令」とあり、『詩経』の緯書に「戊午革運、辛酉革命、甲子革政」とあると記されているが、その原典は見つかっていない。

 辛酉年は60年周期の58番目の年、戊辰年は60年周期の5番目の年だ。「革命勘文」以後、日本では甲子年と辛酉年に改元するならわしが定着した。  
 「革命勘文」によると、鄭玄は「天道不遠 三五而反(天道遠からず、三五にして反る)。六甲爲一元、四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗。廿一元爲一蔀、合千三百廿年」と述べたとされる。

 「三五」は「三正五行」のことで、天の定めた運命が周期的に繰り返すことを意味している。
 「六甲爲一元、四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗。廿一元爲一蔀、合千三百廿年」はこう解釈される。
 「甲の年」は「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の10年なので、「六甲」は60年だが、60年を「一元」とする。
 「六甲」(60年)が4回の「四六」(240年)と「六甲」(60年)が2回の「二六」(120年)が交互に「変」をもたらす。
 「七元」(420年)が「三変」(1260年)、3かける7は21なので「廿一元」(1260年)を「一蔀」とし、合わせて1320年。
 つまり、60年周期の変革の上位の変革、「四六二六交相乗」「七元有三變」「三七相乗」が重なる、「廿一元」=「一蔀」の1320年が大変革の周期だという。 
 しかし、60かける21は1260であり、1320は「22元」になるので、1360年は1260年に「60年」を足した数と解釈するほかない。
 「四六二六交相乗」が240年に120年を加えた360年だとすると、その3倍は1080年になるので1320年には240年足りない。
 そこで「六甲爲一元、四六二六交相乗」を60年に360年を足した420年が変革の周期と解釈すると、420年の3倍は1260年になる。
 意図したものか意図しないものかわからない計算間違いがあるとしても、「革命勘文」では革命の周期に1260年と1320年を混用しているらしい。

 それが大陸の教養人のあいだで有力な説だったかどうかは別として、万物を統治する「」により、地上の人間世界の「天下」の統治を命じる「天命」を授けられた「天子」が周期的に代替わりするという説は日本の朝廷で受け入れられた。その周期は1260年とも1320年ともいわれた。ただし、暦法によって閏月をどのように組み込むかの計算は複雑だ。 

 紀元節、建国記念の日、テレビ番組『日の丸』

 1872年12月15日(明治5年11月15日)、日本政府神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。 

 日本では1872年12月31日(明治5年12月2日)の翌日を明治6年(1873年)1月1日とし、太陰太陽暦から第226代ローマ教父(Papa)グレゴリウス13世(Gregorius XIII、1502年1月7日~1585年4月10日)が1582年10月4日の翌日を10月15日として、これより実施が始まったグレゴリアーヌム暦(Calendarium Gregorianum)へと国家の公式の暦法を移行させた。
  改暦と同時に時刻法も定時法に改正され、一日は二十四時間と定められ、午前と午後という概念が導入された。
 天保15年(1844年)暦から使用された天保暦では、日の出前の薄明から日没後の薄明までを、正午を中央に12等分し、日の入り後の薄明過ぎから日の出の薄明になるまでを12等分し、「明(あけ)六つ」「暮(くれ)六つ」などと刻数を数えていた。しかし、昼夜の長さは日々変化するので、一刻の長さが伸縮する不定時法だった。

 1873年1月29日は、旧暦(太陰太陽暦:天保暦)の明治6年1月1日をそのまま新暦(太陽暦:グレゴリアーヌム暦)に置き換えた日付だ。

 1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。

 1873年(明治6年)10月14日、政府は新たに神武天皇即位日を定め直し、「2月11日」を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。
 2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅(1833年11月25日~1885年2月5日)が審査して決定した。

 1889年(明治22年)2月11日には「大日本帝國憲法」が公布され、これ以降、2月11日は憲法発布を記念する日にもなった。大日本帝國憲法は1890年(明治23年)11月29日に施行された。

 その55年後の1945年(昭和20年)の大日本帝国の敗戦後、アメリカの占領統治下の日本で、1947年(昭和22年)、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された「日本国憲法」にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により削除され、1948年(昭和23年)7月20日、「国民の祝日に関する法律」が公布・即日施行された。

 日本国が独立を回復した1952年(昭和27年)から紀元節の復活運動がおき、1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出され、紀元節の復興は自由民主党の目標となった。

 1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める「国民の祝日に関する法律」の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。
 そのため、同年12月9日、65歳の佐藤栄作(1901年3月27日~1975年6月3日)内閣は、「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布し、「建国記念の日」を「2月11日」とした。同政令は即日施行され、1967年(昭和42年)2月11日に実施された。

 1966年(昭和41年)11月20日、午後10時30分~11時30分、TBSのテレビ・ドキュメンタリー『あなたは……』が放映された。
 インタヴュアーは、36歳の萩元晴彦(1930年3月7日~2001年9月4日)、31歳の村木良彦(1935年11月15日~2008年1月21日)演出、31歳の寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)脚本、村木真寿美(1942年~)、古垣美智子、18歳の高木史子(1948年2月~)だった。
 音楽は36歳の武満徹(1930年10月8日~1996年2月20日)だった。

 さまざまな職業、年齢の男女829人に、「いま一番ほしいものは何ですか」「戦争を思い出すことがありますか」「あなたにとって幸福とは何ですか」など17項目を、駅、深夜喫茶、デモの横田基地、結婚式場など東京都内20数か所で、いきなり質問し、その映像記録で構成したインタビュー集だ。

 この手法は1960年(昭和35年)5月末から8月末にかけて軽量撮影機材で撮影され、1961年(昭和36年)10月20日に公開された、43歳の映像人類学者ジャン・ルーシュ(Jean Rouch、1917年5月31日~2004年2月18日)と39歳の哲学者・社会学者エドゥギャール・モラン(Edgar Morin、1921年7月8日~)共同監督の同時録音方式のフランス映画『ある夏の時事記録』Chronique d'un été(90分)をまねている。この映画ではパリの労働者、学生、芸術家などに「お幸せですか?(Etes-vous heureux ?)」と即興的な街頭での突撃取材を試み、記録している。

    1953年(昭和28年)5月16日創刊の戦後フランスの教師、大学生、文芸教養人向けの代表的な総合週刊誌『急報(L'Express)』1957年(昭和32年)12月5日号と12日号に、41歳の編集者フランスワズ・ジル(Françoise Giroud、1916年9月21日~2003年1月19日)「若者についての全国報告」Rapport national sur la jeunesseによる最初の若者アンケート「あなたは幸せですか?(Etes-vous heureux ?)」の回答が掲載された。

 北アフリカの植民地でのアルジェリ戦争(Guerre d'Algérie)が深刻化しているにもかかわらず、生活が豊かになったフランス全土の若者の24%が幸せ(heureux)、61%がまあまあ幸せ (assez heureux)、14%がとても幸せ(très heureux)、1%が無回答だった。


 1958年(昭和33年)5月、パリで、41歳のフランスワズ・ジル著『新動向若者の肖像』 La Nouvelle Vague: portraits de la jeunesse(Gallimard)が刊行された。

 早稲田大学教育学部社会科一年の高木史子は早稲田のサークル劇団「なかま」の制作のため寺山修司を訪れたのがきっかけで『あなたは……』に起用され、1967年(昭和42年)1月1日に結成された寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」に制作部長として参加した。

 1967年(昭和42年)2月9日、初の「2月11日」の「建国記念日」を前に『あなたは……』と同じ手法のTBSのテレビ・ドキュメンタリー、萩元晴彦演出、寺山修司脚本、高木史子がインタビュアーの木曜・午後10時30分から11時放送の『現代の主役』「日の丸」が放送された。

 質問は「日の丸といったら、まず何を思い浮かべますか」「あなたの家には日の丸がありますか」など10種類を用意して、1月中旬から2月上旬まで約200人を取材した。取材場所は、佐藤栄作首相の選挙区である山口県田布施町、宇部市、大阪心斎橋筋、東京新宿、浅草などだ。

 日の丸の尊重に強硬に反対する論者が出ていないにもかかわらず、この番組の放送開始直後からTBSは大量の抗議電話を受け、電話20回線が全部ふさがった。これによって、TBSは村木良彦が5月3日の憲法記念日に向けて同手法で企画していた『ドキュメンタリー・憲法第九条』を中止した。

 映画劇『無理心中日本の夏』

 「1967年の長く暑い夏(Long, hot summer of 1967)」はアメリカで黒人差別から生じた暴動が159回起きた1967年(昭和42年)の夏のことだ。中でも最大規模だったのが7月12日から17日のニューワーク(Newark)と7月23日から28日のデトゥロイトゥ(Detroit)だった。

 事件から半世紀後の2017年(平成29年)7月28日、キャスリン・ビグロウ(Kathryn Bigelow、1951年11月27日~)監督の映画劇『デトゥロイトゥ』Detroit(143分)が公開された。

 1967年(昭和42年)7月25日から26日にかけてデトゥロイトゥ市内のホテル、アルジアーズ・モウテル(Algiers Motel)で黒人3人が警察と軍に殺された「アルジアーズ・モウテル事件」を描いている。

 2018年(平成30年)1月26日、『デトロイト』Detroitの松崎広幸(1963年~)訳の日本語字幕スーパー版が公開された。

 1967年(昭和42年)夏、新宿駅東口緑地帯(フーテン用語で「グリーンハウス」(緑の家))に、汚いTシャツ、ジーパン、素足にサンダルを履き、洗っていない長髪の浮浪者の若者フーテン族が集まり始めた。
 数十人のフーテン族は時間に縛られた行動習慣、仕事を嫌い、 フリーセックス、ゴーゴー・ダンス、幻覚性の薬物を好んだことから、反社会的とみなされた。

 1967年(昭和42年)7月18日、TBSの朝8時放送の『おはようにっぽん』でフーテン族が取りあげられ、8月20日には、TBSで朝11時半に『新宿フーテン族』、12チャンネルで夜10時半に40歳の教育評論家・無着成恭(むちゃく・せいきょう、1927年3月31日~)の『無着先生フーテン族と語る』が放映され、フジテレビ夜10時15分の『スター千一夜』に35歳の大島渚(1932年3月31日~2013年1月15日)とフーテン娘が出演した。

 『平凡パンチ』(平凡出版)1967年(昭和42年)9月4日号(60円)の27歳の大橋歩(1940年6月16日~)デザインの表紙の見出しに「デビ夫人とデートする」「横尾忠則の死亡通知」「フーテン女優㊙ポーズ」「日産の完璧な機密管理」「100の質問 川口小枝」とある。
 目次には「デヴィ夫人と三泊四日のデート旅行」「横尾忠則とつぜんの死」、グラビア「フーテン女優のシンボル・ゾーン」「産業スパイの暗躍を封じた秘密設計室《スタジオ70》NEW BLUEBIRDの機密管理作戦」「ある学生女優のセックス意識川口小枝」とある。

 インドネシアの66歳のスカルノ(Sukarno、1901年6月6日~1970年6月21日)元大統領の第3夫人デヴィ夫人ことデヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、1940年2月6日~)は当時27歳で、同年3月11日に東京でスカルノの娘カリナ(Karina)を出産した。

 当時31歳の横尾忠則(1936年6月27日~)の記事は架空死亡記事だ。横尾は「天井桟敷」設立時に美術で参加したが、9月1日~7日の第3回公演の32歳の丸山明宏(1935年5月15日~)主演『毛皮のマリー』(新宿文化劇場)の前に脱退した。

 横尾は1969年(昭和44年)2月15日公開の大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』(94分)に岡ノ上鳥男と名のる青年の役で主演することになる。

 モノクロのグラビア「フーテン女優」とは、1967年(昭和42年)9月2日公開の大島渚監督の映画劇『無理心中日本の夏』(98分)にフーテン娘・ネジ子の役で主演した桜井啓子のことだ。

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 『週刊現代』(講談社)1967年(昭和42年)9月7日号(70円)「フーテン族から村八分にされた桜井啓子」を、2007年(平成19年)6月4日発行、45歳の難波功士(1961年9月7日~)著『族の系譜学ユース・サブカルチャーズの戦後史』(青弓社、本体2,600円)、第5章「'Youthquake'とフーテン族」より孫引きする(161頁)。

 「父親は新潟県長岡市の大きな紙問屋の専務。四人きょうだいの末っ子で、上の三人はすでに結婚して独立。彼女は私立十文字高校を二年で中退後、青山の高級洋装店でお針子見習いをしたり、姉の経営する洋装店を手伝ったりしながら「父の送金をうけてフラフラして」いるうちに大島作品の主役にスカウトされたしだい」。

 武智鉄二(1912年12月10日~1988年7月26日)と川口秀子(1922年5月30日~2009年1月5日)の一人娘・川口小枝(かわぐち・さえだ、1947年2月7日~2016年1月12日)は大学1年の時、1966年(昭和41年)7月15日公開、大島渚監督の映画『白昼の通り魔』(99分)で失神中に通り魔に強姦される篠崎シノを演じた。同作で川口秀子は大島夫人・小山明子(1935年1月27日~)の演じる中学校教師・倉マツ子の母を演じた。

 34歳の田村孟(たむら・つとむ、1933年1月5日~ 1997年3月28日)、30歳の佐々木守(1936年9月13日~ 2006年2月24日)、35歳の大島渚脚本、創造社『無理心中日本の夏』は写真家・吉岡康弘(1934年~2002年4月17日)の初の映画撮影監督作だった。

   三島由紀夫と大島渚の対談「ファシストか革命家か」

「映画芸術」1967年1月号

 『映画芸術』(映画芸術社)1967年(昭和43年)1月号(244号)「特集'67不毛の論争を結実させるために」(250円)掲載の41歳の三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)と34歳の大島渚の新春対談「ファシストか革命家か羽田事件と暴力の構造を追究する」(司会・小川徹(1923年2月25日~1991年2月10日))「『無理心中日本の夏』への二つの疑問」より引用する(23~24頁)。

三島:そこで、ぼくはあの映画でふたつだけ大島さんに質問したいと思ってきた。そのひとつは、女とセックスの問題。セックスが何かを解決するか、あるいはセックスに対する関心が、政治問題にひとつの安らぎ、慰藉になりうるか、ということ。もうひとつ、あなたはインターナショナリズムをどう考えているのかということを、一番聞きたかったんです。はじめあの女の子が出てきて、いくらくどいても男がみんな興味を示さない、女は誰とでも寝たい、殺し屋とも寝たい、イデオロギーもへったくれもありやしない。今度アメリカ人が人を殺していると聞くとまた寝たくなる――彼女の人間への関心というと寝ることだけでしょう。それは『にっぽん昆虫記』などよりも、もっと端的で抽象化されている。彼女は最後に男と寝て、それが『無理心中日本の夏』となるけれども、その問題がひとつある。さらにインターナショナリズムといい出したのは、つまりアメリカ人のああいう少年みたいな男が日本にやってきて、日本人を殺している、それがどうなるかとぼくは息をこらして見ていた。するとあの連中がやってくる、そして仲良くなってしまう。ははァ、このドラマはどうなっちゃうんだろう、と思っていると、「テレビ」が日本の旗を持って裏切ってむこうへ行こうとする、するとそれを殺してしまう。ああ、なるほどこういうことかと思ったわけだが、そのときにぼくは、非常にわからなくなってしまったのは、それを迎えている警察側のほうにひとりも白人がいないことなんだよ。それで、もしあなたのインターナショナリズムというものにもうひとつひっくりかえしがあれば、防衛陣というか警戒陣のほうに何か白人がひとりいなければいけないんじゃないか。そうしないとあの映画で日の丸の旗を持ってゆく行為がきかないんじゃないか――それについてあなたに聞きたかった。このふたつをわかるように説明してくれたら、話がほぐれると思いますが。
大島:答えやすいほうから答えますと、あとのほうは外人がいたほうがよかったですね。しかしそういうことは、それこそ予算の都合もあって考えもつかなかった。あれは警官に対して旗をふっていくようになっていますが、当然自衛隊が来たほうがよかったわけです。
三島:そう、そうすれば日の丸の孤立感というので、ぼくはちょっと泣くかもしれないね。つまり日の丸ははじめからくり返されているでしょ。ぼくははじめ橋の上で日の丸が見えたり、軍楽隊が来るところで、これは大島さんにしてはサタイアが少し表面的だなあ、こういう人間を出して、日の丸とはいかんじゃないかとぼくは思ったけれど、その後日の丸は出てこなくて、得体のしれない連中が出てくる。終りにまた日の丸が出てきてテレビという男が命を助かりたいんだな、なるほどな、と思ったわけ。それがもうひとつひっくり返るためには、むこうにも白人がいる、白人が白人を殺さなければいけないと思いましたね。予算のことはわかるけれど……。
大島:まあ予算の問題は別として、それは確かだと思いますね。つい敵側のことは書き込めないんですよね、ああいう場合とくに。インターナショナリズムを意図した私としてはそうあるべきですね。
三島:テーマの論理的発展としてはそうあるべきでしょうね。こちら側のインターナショナリズムというのは弱いんですね。しかし弱いものがインターナショナルではしょうがないんで、何というか敵側もインターナショナリズムで来るから、ことら側もやるというなら戦術的にわかる。敵側がナショナリズムならこちら側もナショナリズムでゆくということならわかる。それが映画の結論の部分だと思うのですが。

 1980年(昭和55年)12月15日発行、41歳の片岡義男(1939年3月20日~)、47歳の小林信彦(1932年12月12日~)著『対談昨日を超えて、なお…』(角川書店、780円)が刊行された。

 同書の改版、1984年(昭和59年)12月25日発行、「角川文庫」5931、小林信彦片岡義男著『星条旗と青春と対談ぼくらの個人史』(角川書店、300円)、「1960年代 根こそぎの十年」より小林の発言を引用する(133~134頁)。

 そのころ大島渚さんが、「無理心中日本の夏」でヒッピー風の女の子を主役に使ってたですね。ぼくは、どうして、ああいう人が存在するんだろうなということを大島さんに聞いたら、(彼はぼくと生まれた年がおんなじだけど)いや、それは要するに、日本の経済が豊かになったからですよ、とズバッといってましたね。だからとりあえず食えるんですよ。というのは、それまで若い人は食えなかったわけですね。ぼくはそのときも食えないわけですよ。(笑)だから豊かになったという実感がなかったですね。これは本当に食えなかったです。テレビの仕事をやっても、ぼくは、そんなには食えなかったですね。
 そのときに大島さんが、日本が豊かになったから、とりあえず何もしないでも食える人間ができてきて、それが何人か集まって、そんなにたくさんの金を要らんのだと。ぼくらの年代だと、家が欲しいとか、アメリカ映画で見たプールのついた家が欲しいとかいう欲望が、いまはないけど。夢としてあったわけですね。大島さんがいうに、彼らの欲望というのは大したことないんだ、と。とりあえず海へ行って一日遊びたいとか、その程度の欲望で、逆に、物質的な欲求というのは非常に少ないんだ、ということをぼくにいってましたけどね。それはちょっとぼくらとは違うんだということをいってましたけども、ぼくはわからなかった。とにかくコカコーラ飲んで、ちょっと何か食べられればそれでいいんで、あとブラブラしてるというのが事実、たくさんいましたからね、あのころ。新宿の東口のグリーンハウスとかいった、芝生のところにたくさんいたでしょう。それでシンナーをやってましたよ。あれがわからなかったですね。日本の場合、所詮は、風俗の一種だったというふうに思いますけどね。ま、ベ平連の活動とか、脱走兵をかくまうとかいうことはあったと思うけども、アメリカのように徴兵はないわけだから、〈ヒッピー風〉が権力に対してどうするという強い姿勢はないですね。

  『無理心中日本の夏』のあらすじ(ネタバレ)と歌

 『無理心中日本の夏』は女子公衆便所の出入り口の壁にチョークで書かれた「ニホン」という落書きのショットで始まる。

 左右から両手で目をふさぐ形のサングラス代わりの白い日よけ眼鏡をかけた18歳のフーテン娘・ネジ子)が大きな道路橋の上でパンティとブラジャーを脱ぎ、はるか下の水面に投げ捨てる場面で、橋の下を白い水泳帽の男たちが列を組んで平泳ぎで通過するが、そのうち4人は「日の丸」を端から見えるように捧げもって泳いでいる。

 橋の向こうから軍服を着た男たちのやはり「日の丸」が掲げられている軍楽隊に続き学生服の青年たち、さらに「日の丸」の鉢巻きをして、小さな「日の丸」を掲げた男女を含む人びとが行進してくる。

 ネジ子が橋の上で出会った迷彩柄のジャケットとバミューダショーツのオトコ(オス)()(佐藤慶、1928年12月21日~2010年5月2日)を誘って海辺に行くと、暴力団組長のひげ面の「彼氏」(福田善之、1931年10月21日~)とその他3人の制服の暴力団員がシャベルで土を掘り、銃器弾薬入りの木箱を掘り出す。オトコとネジ子は彼らの廃屋のアジトについていく。そこに集まった組の男たちは翌朝の別の組との出入(でいり)に備えている。ネジ子は誰でもいいから男とセックスしたいと思っているが、オトコは誰かに殺されたいという願望をもっているようだ。

 このアジトにライフルを盗みに来た17歳の少年田村正和、1943年8月1日~)が忍び込むが、組員の一人「おにいさん」(観世栄夫、1927年8月3日~2007年6月8日)に見つかり、翌朝まで外に出ないよう命じられる。

 翌朝まで監禁されることになったオトコとネジ子と少年は、「一本独鈷」の助っ人たちの集められた大きな廃屋に閉じ込められる。助っ人たちの中に姫路出身の「姫路」(芦田鉄雄、1930年~2005年11月3日)、四国松山出身の「松山」(小沢文也)、広島出身の「広島」(野崎善彦)がいる。

 見境なく人を刺す「」(小松方正、1926年11月4日~2003年7月11日)は柱に縄で縛られているが、男とセックスしたいネジ子は縄を解いてやる。「鬼」がナイフでオトコを刺そうとすると、座っている51歳の「おもちゃ」(殿山泰司、1915年10月17日~1989年4月30日)が拳銃を出し、「鬼」を止める。

 「おもちゃ」はオトコに対し、殺されるより病気や交通事故で死ぬほうがいいと諭すが、オトコは、殺される時、殺す人の目に自分が映るのを見て、自分が何をすべきか知りたいと言う。

 「鬼」は長崎の海兵団から復員して大牟田で花札博奕に狂っていたと語る。35年(1960年)に釜ヶ崎にでっかい博奕場があると聞いて出てきたが何もなかったので腹を立て、出刃包丁を買ってそこらの野郎を刺してやったという。それ以来、人が喧嘩をしているのを見ては、割り込み、両方を刺してきたという。

 夜、新幹線に乗って、自分のあとに従う「付け人」(溝口舜亮、1942年8月25日~2016年10月9日)に小型テレビを運ばせ、テレビ放送をイヤホンで聞きながら歩く「テレビ」(戸浦六宏、1930年4月30日~1993年3月25日)が到着する。本部の組員は飛行場から来る予定だという。

 テレビのニュースが、1時間のうちに、姿なきライフル魔の3人目の犠牲者が出たと報じる。おそらく犯人は身元不明の外人だという。

 ネジ子が踊りながらオトコに巨乳を押しつけて誘惑していると、「テレビ」がテレビをつけ、43歳の三波春夫(1923年7月19日~2001年4月14日)と児童合唱団の歌う1970年(昭和45年)に開催予定の日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界のくにからこんにちは」が流れる。

 作詩は37歳の島田陽子(1929年6月7日~2011年4月18日)で、毎日新聞社主催の一般公募で1万3,000を超える応募作品から選ばれた。審査委員長は75歳の西條八十(1892年1月15日~1970年8月12日)だった。作曲は36歳の中村八大(1931年1月20日~1992年6月10日)だ。1967年(昭和42年)3月15日、大阪市の毎日ホールで「万博テーマソング発表歌謡大会」が催された。

 同年3月、テイチクレコードから、毎日新聞社選定・日本万国博覧会協会後援、日本万国博覧会テーマソング、三波春夫テイチク児童合唱団テイチク・レコーディング・オーケストラ世界の国からこんにちは」(福島正二編曲)(3分07秒)、三波春夫テイチク・レコーディング・オーケストラ万国博覧会音頭」(宮田隆(1913年~1982年7月8日)作詩、長津義司(1904年3月24日~1986年1月10日)作曲)(3分25秒)のシングル盤(SN-464、330円)が発売され、140万枚を売り上げる大ヒットとなった。

……笑顔あふれる
こんにちは こんにちは 心のそこから
こんにちは こんにちは 世界をむすぶ
こんにちは こんにちは 日本の国で
一九七〇年のこんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

 テレビのニュースでライフル魔の外人が国道1号線を盗んだフォード・タウヌス(Ford Taunus)64年型でアジトの方に向かうことがわかる。「鬼」がナイフを取りに行くと、組の男たちは姿を消していた。

 テレビを直しながら「付け人」が尾藤イサオ(1943年11月22日~)「ワーク・ソング」の一節「貧しさとひもじさが、すべての理由さ」を口ずさむ。

 「ワーク・ソング」は松尾実作詩、N・アダレー(Nat Adderley、1931年11月25日~2000年1月2日)作曲、小田啓義(1939年12月23日~)編曲だ。
 ナットゥ・アダレイのアルバム『ワーク・ソング』Work Song(Riverside Records ‎– RLP-1167)は1960年(昭和35年)に発売された。A面1曲目に「ワーク・ソング」が収録された。

 1962年(昭和37年)12月、日本ビクターから、53歳の野口久光(1909年8月9日~1994年6月13日)、藤井肇、44歳の油井正一(1918年8月15日~1998年6月8日)、54歳の植草甚一(1908年8月8日~1979年12月2日)の「名盤蒐集会」が毎月2枚のレコードを選定する「モダン・ジャズ名盤蒐集会選定盤 37-12」、ナット・アダレイワーク・ソング』(SR-7012、1,800円)が発売された。

 ジャケット裏の29歳の岩浪洋三(1933年5月30日~2012年10月5日)の「ワーク・ソング」解説を引用する。

 キャノンボール・アダレイ五重奏団の演奏で一躍有名になった曲だが、もともとナット・アダレイの作ったものであり、この演奏こそ本命盤というべきものだ。
 ナット・アダレイのミュート・コルネットに、サム・ジョーンズのセロとヒースのベース、ウェスのギターのピチカートの合奏が呼応していくテーマの部分は、黒人労働者たちの重労働にも負けぬ力強さと頑健さに溢れたワーク・ソングの精神が脈打っている。セロとギターのピチカートの合奏は珍らしいが、スリリングで成功している。ナット・アダレイのミュート・ソロもイマジネイティブでよいが、つづくウェスのアンプの増幅を小さくした生ギターに近い、チャーリー・クリスチャンばりのソロも細かいながら光っている。ティモンズも個性的なソロを挿入している。やはり「ワーク・ソング」の理想的な1例といえる。

   1964年(昭和39年)6月、東芝レコードから、20歳の尾藤イサオ(唄)、ジャッキー吉川とブルー・コメッツベビーに逢う時」Quando vedrai la mia ragazza(漣健児(1931年2月4日~2005年6月6日)作詩、Enrico Ciacci(1942年11月21日~2018年3月13日)作曲、井上忠夫(1941年9月13日~2000年5月30日)編曲)(2分48秒)、「ワーク・ソング」Work Song(2分42秒)のシングル盤(TR1084、290円)が発売された。

 1966年(昭和41年)11月、東芝レコードから、22歳の尾藤イサオ(唄)、ジャッキー吉川とブルー・コメッツワーク・ソング」Work Song(3分00秒)、「日はまた昇る」(橋本淳(1939年7月8日~)作詩、井上忠夫作曲・編曲)(3分08秒)のシングル盤(TP-1357、330円)が発売された。

 「おにいさん」が武器を入れた木箱を引き摺りながら入って来る。「おにいさん」は上の者が飛行場で警察に捕まり、出入りが中止になったが、助っ人に他の組員が潜るまでの時間稼ぎをさせるため彼らを逮捕させると説明し、拳銃を出す。
 「付け人」がテレビを直しながら「ワーク・ソング」を歌う。

ちょっとそこのけぶちわるぞ
でっかいその岩
さあどけ さあどけ

判決がおりたとき
あの娘は……

神様この俺が
犯したこの罪
貧しさとひもじさが
すべての理由さ

 尾藤の歌では「ちょっとそこどけ」「神様俺らの犯したあの罪」だ。

 ネジ子が踊りながら「貧しさとひもじさがすべての理由さ」と唄い、ネジ子と「付け人」が「ちょっとそこのけぶちわるぞ。でっかいこの岩。さあどけ、さあどけ。まだ娑婆にゃ帰れない」を合唱する。「テレビ」が「付け人」を鞭打ち、「付け人」はテレビの修理に集中する。
 ネジ子は遠ざかり建物の外に出ながら唄い続ける。

まだ娑婆にゃ帰れない
判決がおりたとき
あの娘がさけんだ
五年もの重労働
あまりにむごいと
ちょっとそこのけぶちわるぞ
でっかいこの岩
さあどけ、さあどけ
まだ娑婆にゃ帰れない
まだ娑婆にゃ帰れない

 夜明け前、ネジ子が戻ってくる。音だけは出るようになったテレビの音声で、ライフル魔がこの町に入ったことを知った「おもちゃ」は「おにいさん」を射殺する。

検挙者87名、押収した兇器は拳銃が23丁、日本刀20本、カービン銃3丁。なお警察は捜索を続けています。ダラスです。まさにニッポンのダラスであります。ライフル銃をもった白い殺人鬼は、市内に潜伏し、一方各地から集合した暴力団員が武器をもって徘徊しています。その数はおよそ200名を越すものと推定されます。あらゆる社会的殺意が集中したまさにニッポンのダラスであります。

 ネジ子はオトコに「あんた、ダラスってケネディさんが殺された所ね?」と聞く。1963年(昭和38年)11月22日、12時30分、ダラス(Dallas)市内をオープンカーでパレード中の46歳の第35代アメリカ連合国大統領ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy、1917年5月29日~1963年11月22日)が銃撃され、死亡したことを指す。

 少年は誰でもいいから殺してくると、ライフルをもって外へ飛び出し、大津通で向こうから近づいてくる二人の機動隊員を射つ。そのあと伊勢湾台風(1959年9月26日)のコンクリート製の3階建ての復興住宅が立ち並ぶ前を通る少年は駐めてある車の窓ガラスをライフルでたたき割る。

 一方、ネジ子は「広島」「姫路」「松山」の三人の男と寝た。そこに少年が戻ってくる。
 テレビが直り、警官に連行される組員の姿が映り、続いてライフル魔の白人青年(テリー・クレー)の姿が映る。

黒人暴動が続くアメリカの夏を「ロング・アンド・ホット・アメリカン・サマー(long and hot American summer)」「長い暑いアメリカの夏]
と言いますが、それに対してこのニッポンの狂気の夏を一体何と名付けましょうか。しかもその狂った夏の主人公は黒人ではなく白人なのです。この無残な死体の散らばりをご覧下さい。事件解決までできるだけ一切の外出は控えるよう繰り返し警告があったにもかかわらず、今朝もその街路は工場へ急ぐ人びとで一杯でした。それに向かってすでに10時間以上も沈黙していたライフル魔の凶弾が雨と降ったのです。それにしても、この犯人の心理は一切理解できません。今私たちのキャメラは危険を冒し移動する犯人の姿を望遠レンズで捉えようと必死であります。いつこの中継車に向かってライフルの弾丸が飛んでくるかわかりません。しかしキャメラは捉えなければなりません。犯人の顔を、そしてその心理……。捉えました。ついに犯人の……。

 帰ろうとした「姫路」「広島」「松山」の三人は背後から少年に射殺される。「テレビ」は白人青年の顔が大写しにされたテレビを見て興奮し、軽機関銃でテレビを叩き壊す。

 テレビを包んでいた菊の紋章入りの白い布を抱きかかえた「付け人」を突然、「鬼」が刺し、「テレビ」はすがる「付け人」の右手を踏みつける。
 外に出た「テレビ」は「鬼」を射殺する。

 廃屋に一人残された瀕死の「付け人」は「貧しさとひもじさがすべての理由さ」と唄いながら手を伸ばしテレビを付け、死ぬ。 

 テレビのニュースは、ネジ子、少年、オトコ、「テレビ」、「おもちゃ」の武装した5人が車でライフル魔の近くに突入したことを報じる。

 五人は名古屋テレビ塔(1954年6月19日竣工)と1966年(昭和41年)4月26日竣工の地上12階の中部日本ビルディング(中日ビル)の見える場所にいる。オトコは上半身裸になりライフル魔の英語を話す白人青年に近づく。ほかの4人も従う。20歳の白人青年はネジ子の与えたパンを食べる。

 「おもちゃ」は白人青年を殺す気でいる「テレビ」を説得してやめさせようとして「テレビ」に股間を撃たれ死ぬ。

 ネジ子、少年、オトコ、白人青年の隠れている場所に催涙弾が撃ち込まれ、4人は外に逃れ、テレビと合流するが、オトコは「おもちゃ」の死体を引き摺っていく。途中で白人青年も手伝う。

 造成工事中の久屋大通公園で少年が警官隊に発砲する。白人青年も警官隊に発砲するが、「テレビ」が白人青年を射殺し、警官隊に白いハンカチを両手で掲げ「白人はやっつけた!」と叫び、警官隊に投降しようとする。よく見ると白いハンカチの中央に小さな黒っぽい丸があり、「日の丸」に見える。少年は警官隊に射殺される。

 警官隊に近づいた「テレビ」を、背後からオトコが照準器付きライフルで射殺する。瀕死の「テレビ」がもたれかかる、屋根に赤色回転灯と拡声器付きの装甲車両の前面に警察の象徴である旭日章が見える。

 ネジ子はオトコに初めて名を名乗るが、オトコは「名前はない。蒸発してきた男だ」と言う。警官隊の射撃の中、二人は初めてセックスする。ただし、セックスは上下反転したネジ子の曖昧な表情の大写しと弱々しいあえぎ声が暗示するだけだ。ネジ子に覆いかぶさるオトコの冷淡な顔の大写しは性的興奮をまったく感じさせない。

 なぜか、それまで半袖のアロハシャツを着ていた「おもちゃ」の死体が上半身裸になっている。白人の死体の右手の薬指に指輪が見える。少年の死体には首にかけた小さな丸いペンダントが見える。

 ネジ子が「最高ね。心中だもん」と言うと、オトコは「うん、無理心中だ」と答える。

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