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ブラズィウのボッサ・ノーヴァ(新感覚派)と1962年の映画劇『遊び人』


ニューズウィーク日本版サイト』「World Voice」、島田愛加南米街角クラブ」2021年1月29日「僕らはボサノヴァが歌われた「あの頃」をしらない」を引用する。

ボサノヴァ以前のブラジル音楽の歌詞は「誰も僕を愛してくれない。誰も僕を必要としてくれない。」といったような暗く悲しいものが多かった。希望に満ち溢れた若者たちがこういった歌詞を好まない、理解できないのは無理もないだろう。
そこで彼らは日常的な出来事、つまり目の前に広がる太陽やコパカバーナの海岸、美しい女性、そして愛を題材にしたのだ。
歌唱方法に関しては、彼らの集まりが夜遅くマンションで開かれていたことから自然とギター1本と小さな声で歌うようになっていった話や、チャット・ベイカーに影響された話などがあがっているが、それまで録音機材の関係で歌手は声を張り上げて歌うのが一般的だったのに対し、時代と共にマイクなどの改良もあり、囁くような声で歌うという選択肢ができたことも関係しているだろう。

1958年6月28日、東京・赤坂に、「いけばな」の草月流の本拠である地上三階、地下二階の草月会館が落成した。

1958年9月13日、草月会館の定員370名の地下のホールに31歳の勅使河原宏(てしがはら・ひろし、1927年1月28日~2001年4月14日)が草月アートセンター(SAC)を設立した。

1960年3月、「草月アートセンター」が会員組織「SACの会」を発足させ、月刊の機関誌『SAC Journal』を創刊した。

1961年7月17日、草月会館ホールで、草月アートセンターの映画上映会「草月シネマテーク」の第1回「特集:ドキュメントの視点」が催された。
プロボクサーのホセ・トレス(Jose Torres、1936年5月3日~ 2009年1月19日)についての勅使河原宏監督の記録映画『ホゼイ・トレス』(25分。1959年)、29歳の松本俊夫(1932年3月26日~2017年4月12日)監督の実験的記録映画『西陣』(26分)、ウィリアム・クライン(William Klein、1926年4月19日~ 2022年9月10日)監督の実験的記録映画『ブロードウエイ・バイ・ライト』Broadway by Light(12分。1958年)、リンズィ・アンダスン(Lindsay Anderson、1923年4月17日~1994年8月30日)監督の記録映画『ロンドンの夜明け前』Every Day Except Christmas(41分。1957年)が上映された。

1961年7月、日本共産党の第8回大会(25日~31日)を前に、新日本文学会の日本共産党員による「真理と革命のために党再建の第一歩をふみだそう」声明が公表され、共産党の派閥支配を弾劾した。
声明に加わった21人の中に、52歳の花田清輝(1909年3月29日~1974年9月23日)、37歳の安部公房(あべ・こうぼう、1924年3月7日~1993年1月22日)、35歳の針生一郎(はりう・いちろう、1925年12月1日~ 2010年5月26日)らがいた。

1961年9月1日、日本共産党中央委員会幹部会安部公房の除名処分を決め、9月6日に通知した。

1961年12月13日、日本共産党中央委員会幹部会花田清輝の除名処分を決め、12月22日に通知した。

1962年2月7日、日本共産党が、52歳の花田清輝、37歳の安部公房、36歳の針生一郎らの党除名を公表した。

1962年の映画劇『遊び人』

1962年3月24日、ブラズィウで、31歳のジェース・ヴァラダオン(Jece Valadão、1930年7月24日~2006年11月27日)制作・主演、30歳のフイ・ゲーハ(Ruy Guerra、1931年8月22日~)とミゲル・トーリス(Miguel Torres)脚本、ゲーハ監督の映画劇『遊び人』Os Cafajestes(100分)が公開された。

主演は、26歳のノールマ・ベンギウ(Norma Bengell、1935年2月21日~2013年10月9日)、24歳のダニエル・フィーリョ(Daniel Filho、1937年9月30日~)だ。 

音楽は39歳のルイース・ボンファ(Luiz Bonfá、1922年10月17日~2001年1月12日)だ。

演奏は打楽器が31歳のエルシウ・ミリト(Hélcio Milito、1931年2月4日~ 2014年6月7日)、ベースが22歳のベベート・カスチーリョ(Bebeto Castilho、1939年4月13日~)、サックスがジョルジーニョ・ダ・フラウタ(Jorginho da Flauta)、歌が27歳のホザナ・トレド(Rosana Toledo、1934年9月29日~2014年2月9日)だ。
 
男性に侮辱され、性的いやがらせを受ける女性の全裸を見せたことで論争を招き、21歳未満の未成年者の鑑賞が禁じられたにもかかわらず大ヒットし、ブラズィウの新興映画(Cinema Novo)と称された。

リオ・ジ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)のコパカバナ(Copacabana)のアパートに住み、極貧を味わったことのある遊び人の青年ジャンジール(Jandir)(ジェース・ヴァラダオン)は、夜遅く、繁華街で借り物の折り畳み式屋根の1949年型ビュイック・ロードゥマスタ(Buick Roadmaster)を止め、娼婦グラウス・ホーシャ(Glauce Rocha、1930年8月16日~1971年8月12日))を誘い、朝5時に起こすという条件でアパートに連れ帰る。

アパートでジャンジールは実際には深夜3時なのに、時計の針を進め5時に合わせ、目覚ましのベルを鳴らす。出て行った娼婦は通りで警官に時間を訊ね、だまされたことに気づき、二階の窓から見て面白がっているジャンジールを罵る。

薬物常用者で、かっこいい車を買うため、大金持ちの伯父をゆすろうとしているジャンジールの仲間に、ビュイックの持ち主で、裕福な銀行家のドラ息子ヴァヴァ(Vavá)(ダニエル・フィーリョ)がいる。

ジャンジールは、ヴァヴァの叔父の愛人の若い女性レダ(Leda)(ノールマ・ベンギウ)を朝7時に映画館アウヴォラーダ(Alvorada)の前に呼び出し、ヴァヴァをトランクに隠したビュイックで彼女を無人の砂浜へ連れ出す。

車のラジオから、スィウフィア・テーリス(Sylvia Telles、1934年8月27日~1966年12月19日)の1960年発売のアルバム『高精細の愛』Amor Em Hi-Fiに収められた、1963年にテーリスの夫となるアロイーズィオ・ジ・オリヴェイラ(Aloísio de Oliveira、1914年12月30日~1995年2月4日)作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン(Antônio Carlos Jobim、1927年1月25日~1994年12月8日)作曲「ジンジ」Dindiが流れる。

ジャンジールは言葉巧みにレダを全裸で海に入らせ、彼女の脱いだ服を車に入れ、車を波打ち際に走らせる。レダは車を追って走るが、途中で倒れる。車がレダの方に戻って来て、レダの周囲を走る。トランクから現れたヴァヴァが奇声を上げながら写真機で、屈辱を感じて砂浜に伏せって苦悶する全裸のレダを撮る。

やがて車は走り去り、レダの服と靴と腕輪が砂浜に投げ捨てられる。その後、車は止まり、ジャンジールとヴァヴァが車を降りると、服を拾って前を隠しながらレダが彼らに合流する。

車のラジオから、ジュアオン・ジウベルト(João Gilberto、1931年6月10日~ 2019年7月6日)の1960年発売のアルバム『ある恋、ある微笑み、ある花』O Amor, o Sorriso e a Florに収められた、アントニオ・カルロス・ジョビンニュートン・メンドーサ(Newton Mendonça、1927年2月14日~1960年11月22日)の「一音のサンバ」Samba de Uma Nota Sóが流れる。

写真を取り返したいレダは、自分は麻薬中毒で、ヴァヴァの伯父とは別れたので、彼をゆすれないと言う。

ジャンジール、ヴァヴァ、レダの三人は、改めて、カーブ・フリウ(Cabo Frio)でヴァバの伯父の娘で、ヴァヴァの幼馴染の従姉妹でもある女学生の令嬢ヴィウマ(Vilma)(ルスィ・ジ・カルヴァーリョ(Lucy de Carvalho、1942年~))の裸の写真を撮ろうとする。

レダが海辺で遊んでいるビキニのヴィウマに電話する。ジャンジールとヴァヴァはカーブ・フリウの聖マッテウス要塞(Forte de São Mateus)に行く。計画通り、レダがヴィウマを連れてくる。

4人で車に乗り、砂丘に着くと、ジャンジールはヴィウマを降ろし、ヴァヴァが写真機を構える。ジャンジールは砂の上でヴィウマを押し倒し、砂丘の下に転がす。砂丘の上からレダも見守る。

砂の上に倒れて動かないヴィウマを無視して、ジャンジールとヴァヴァが喧嘩を始め、ヴァヴァが写真機を投げ捨てる。ヴァヴァはヴィウマを助け起こし、ジャンジールは写真機を拾い、ヴィウマを追う。

時間が飛び、すっかり暗くなっている。半裸のヴィウマが砂の上でうつ伏せになって這う。ジャンジールと彼を止めようとするヴァヴァの口論が続いている。

ジャンジールが上着を脱ぎ捨て砂丘の上に駆け上がると、レダの運転する車が海中に突っ込んで止まる。

ヴァヴァは前から、さまざまな男と付き合うヴィウマのことが好きだったが口説けなかったらしい。ジャンジールは砂の上に仰向けに寝転ぶレダを懐中電灯で照らす。ジャンジールとレダは情熱的に抱き合う。

服を着たヴィウマはヴァヴァを臆病者と罵る。波打ち際に停めてある、ヴァヴァが乗る車のヘッドライトを浴びながらヴィウマは海に入っていく。それを見たジャンジールが無言で彼女を連れ戻す。

ヴィウマはヴァヴァとレダが見ている前で、仰向けに横たわる上半身裸のジャンジールに抱きついてキスをする。ヴィウマとジャンジールは波打ち際で濡れながら情熱的に抱き合う。ヴァヴァは顔をそむけ、レダだけが彼らを見ている。

夜が明ける。ジャンジールは、ヴァヴァに、ヴィウマはヴァヴァとしか結婚しないと言っていると言うが、ヴァヴァは車をやるから行ってくれと言い、拳銃をもって砂丘を歩き、上空や周囲に向けて拳銃を五発続けて撃ち、最後に自分の頭を撃とうとして撃てず、砂の上に横たわり「ヴィウマ」とつぶやく。心配したヴィウマが砂の上に横たわるヴァヴァに駆け寄り、彼の右手から拳銃を奪い、彼にキスをする。

ジャンジールはレダを乗せ、車を走らせている。レダは自宅の屋敷に着き、豪華な泉水の前でうずくまる。

ジャンジールは一人で車を走らせる。ラジオの男性アナウンサーが世界各国からの様々な報道が流れ続ける。車が動かなくなり、ジャンジールは車から降りて歩き出す。ラジオの男性アナウンサーは報道に続いて天気予報を報じる。

1962年5月7日~23日、第15回キャンヌ多民界映画祭が開催された。
30歳の審査員のフランスワ・トゥリュフォ(François Truffaut、1932年2月6日~1984年10月21日)は、早船ちよ(1914年7月25日~ 2005年10月8日)原作、31歳の浦山桐郎(うらやま・きりお、1930年12月14日 ~1985年10月20日)監督、16歳の吉永小百合(1945年3月13日~)主演の映画劇『キューポラのある街』(99分。初公開:1962年4月8日)を最優秀作品賞に推したが、最優秀作品賞は、救世主教教会の信仰を題材としたジーエス・ゴーミシュ(Dias Gomes、1922年10月19日~1999年5月18日)原作、42歳のアンセウモ・ドゥアルチェ(Anselmo Duarte、1920年4月21日~2009年11月7日)監督、38歳のレオナルドゥ・ヴィラーフ(Leonardo Villar 、1923年7月25日~2020年7月3日)主演の映画劇『願掛けを果した人』Pagador de Promessas(91分)に贈られた。

約束を果たす者』には27歳のノールマ・ベンギウも出ている。


1962年6月8日、38歳の安部公房の書き下ろしの長篇小説『砂の女』(新潮社、350円)が刊行された。
装幀は50歳の香月泰男(かづき・やすお、1911年10月25日~1974年3月8日)だ。

1962年8月6日、ブラズィウで、映画劇『願掛けを果した人』Pagador de Promessasが公開された。

1962年10月11日、ヴァティカーノの聖ペテロ大聖堂(Basilica di San Pietro)で、異教徒であるローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I、272年頃~337年5月22日)により、西暦325年の「第1ニカイア公会議(Concilium Nicaenum Primum/First Council of Nicaea)」から数えて21回目の「第2ヴァティカーノ公会議(Concilium Oecumenicum Vaticanum Secundum / Second Vatican Ecumenical Council)」が始まった。

教皇ジョヴァンニ23世(Giovanni XXIII、 1881年11月25日~1963年6月3日)は、この公会議で「時流適応(アッジョルナメーント、aggiornamento)」を課題とした。
それは、よくも悪くも、ローマ普遍教会信仰の世俗化(非神聖化)、平等化(非権威化)、個人主義化(非統合化)を促した。

この公会議は1965年12月8日まで続き、参加者は2,908人に及んだ。

1963年3月16日、丸の内東宝で、映画劇『良心なき世代』Os Cafajestesの日本語字幕版が成人映画として公開された。

1963年3月発売の『映画芸術』(映画芸術社)5月号(170円)に、27歳の寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)の映画評「良心なき世代辛い青春のサジズム」が掲載された。

1963年4月16日、ブラズィウで、カールロス・ジエーゲシュ(Carlos Diegues、1940年5月19日~)監督、アントニオ・ピタング(Antonio Pitanga、1939年6月13日~)主演の映画劇『ガンガ・ズンバ』Ganga Zumba(100分)が公開された。

ガンガ・ズンバ(Ganga Zumba、1630年~1678年)は、北東ブラズィウのセーハ・ダ・バヒーガ(Serra da Barriga)丘陵に1605年から1694年まであった逃亡奴隷の自治組織キロンボ・ドス・パウマーレス(Quilombo dos Palmares)を率いた人物だ。

1988年3月1日発行『ラティーナラテン世界の音楽情報誌』(ラティーナ)3月号(450円)掲載の白石顕二(1946年~2005年6月22日)「アフロ=ブラジル文化への視座」4、「消えた黒人共和国パルマーレス」より引用する。

 それはともかく、再び、カルロス・ヂエゲスの映画について話をすすめたい。
 『ガンガ・ズンバ――パルマーレス王国』(一九六三年)と『キロンボ』(一九八四年)である。これはブラジルの黒人奴隷史上、有名な出来事を描いたものである。
 ブラジルには奴隷解放令が公布された一八八八年までに、「少なく見積っても三五〇万人の奴隷が輸入された」が、初期の奴隷は、もっぱら砂糖プランテーションで苛酷な労働を強いられた。ブラジル経済史でいう〈砂糖の時代〉(一五七〇~一六七〇年)に「輸入された奴隷の数は四〇万人とみられる」。
 ヂエゲスの映画の舞台は、まさに、この〈砂糖の時代〉の奴隷の現実である。アフリカの大地から強制されてブラジルへ連行された黒人奴隷たちはしばしば逃亡を試み、近くの森林へ逃げ込んでいった。失敗すれば、死に至る刑罰を課せられたというから、必死であった。逃亡に成功して自由を獲得した元奴隷たちがつくった共同体がキロンボである。そのキロンボのなかで、最大のものが、パルマーレスのキロンボであった。ヂエゲスが二本の作品で描くのは、まさに、このパルマーレスの姿なのだ。

1963年6月3日、教皇ジョヴァンニ23世は公会議の終了を待たずに81歳で亡くなった。

1963年6月21日、65歳のパウルス6世(Paulus PP. VI、1897年9月26日~1978年8月6日)が教皇に就任した。

1963年8月22日、ブラズィウで、 グラスィリアノ・ハーモス(Graciliano Ramos、1892年10月27日~1953年3月20日)原作、34歳のネウソン・ペレイラ・ドゥス・サントゥス(Nelson Pereira dos Santos、1928年10月22日~2018年4月21日)監督、42歳のアッチラ・イオーリオ(Átila Iório、1921年4月1日~ 2002年12月10日)主演の映画劇『乾いた生』Vidas Secas(103分)が公開された。

2000年5月1日発行『ラティーナラテン世界の音楽情報誌』5月号(600円)掲載の岸和田仁(きしわだ・ひとし、1952年~)「ブラジルにおける世界の不実在シネマ・ノーヴォの創始者を再認識するネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督作品を網羅するブラジル映画祭2000」より引用する。

「乾いた人生」(63年)は、作家グラシリアーノ・フモスの原作(38年)の映画化であるが、ここで描かれるノルデスチの早魃難民はなお一層悲惨である。主人公ファビアーノと妻ヴィトリアは幼子二人と愛犬を引き連れ、半砂漠化した灌木地帯を歩き続ける。ようやく落ち着き先を確保したものの、雇い主に搾取され、警官に騙され、生活は少しもよくならない。再び早魃が到来し、牛も愛犬もやられてしまう。この愛犬を止むを得ず銃で処分するシーンが一つのクライマックスであるが、彼らの悲惨さは単に映画や文学のなかにあるのではなく、まさに現実問題だ。
 だからこそ、映画の冒頭に映し出されるメッセージは、ネルソン・ペレイラ監督の製作意図を明らかにしている。「この映画は単にブラジル文学の不朽の名作を忠実に映像化するのではない。この映画は2700万人のノルデスチ住民を痛めつけ、自尊心のあるブラジル人ならば誰も無視できない、今日も続く極端に悲惨な社会的現実を証言するものである」。

1963年9月1日、「現代新書」2、柴田プロダクション編『写真で見る日本残酷物語』(現代芸術社、280円)が刊行された。

同書の特集記事、38歳の荻昌弘(おぎ・まさひろ、1925年8月25日~1988年7月2日)「日本映画にあらわれた残酷」より引用する(118頁)。

ブラジル映画『良心なき世代』には、二人の不良少年が、海辺で泳ぐ少女の衣服をかつさらい、全裸で困惑する彼女の周囲を、車でぐるぐるまわつてよろこぶ悪戯が出てきます。じつに女性の弱味につけこんだ無[ママ]趣味で卑劣な残酷さである。が、広い世間には、殺人は残酷すぎてできないけれども、あの程度のマネならしてみたい、と考える人も、残念ながら絶無ではないのではないか、といつた気も、私にはしてしかたがないのです。

1966年12月20日発行、59歳の津村秀夫(1907年8月15日~1985年8月12日)著『映画美を求めて』(勁草書房、800円)、30「残酷ムードについて」、「音による残酷ムード」より引用する(351~352頁)。

 「良心なき世代」(一九六二年)というブラジルの作品は、決して藝術的な作でなく、一種のゲテモノに属する下等な映画であったが、その中で●●●作者が見せ場としているのは、不良青年が伯父の二号の若い娘の全裸姿を写真にとり脅迫の材料にすることであった。
 彼は友人のカメラマンをつれて、女を車にのせ海浜につれて行き、女が裸体で海水浴をはじめるのを待って、衣類を奪って自動車でにげる。衣類を持って行かれてはこまるので、あわてて女は渚にもどるが、自動車はどんどん走る。
 ついに力つきて女が砂浜にへたばってしまうと、車は引きかえしてくる。女のぐるりをグルグル廻って、その間にカメラのシャッタアを切る。何十度となく写真をとるのだが、女は素人役者らしく拙い演技で、わざと砂の上を転々として阿部川餅のようになってしまう。
 ぬれた肉体に砂がへばりつくが、全裸姿で、そのもだえる姿を撮影する。 
 これは実にふしぎな見せ場●●●であったが、その車が女のぐるりを廻る時、実に奇妙にドライな、さわがしい映画音楽が鳴りひびいたものであった。
 趣向としては大変下劣な描写であったが、この映画音楽はいかにもブラジルの太陽族的な生活感情を表わした。その音楽効果が、また奇妙に残酷感をたぎらしたのであった。
 あまりに不道徳で拙劣な映画ではあったが、しかしあの砂浜でのビート音楽は、観客にもいらいらした感情を与えることでは成功していたように思われる。そのさわがしい音楽と、青年の叫び声と、断続的なシャッタアの音。そういう音のミックスされた構成であった。

1971年12月、『映画評論』(映画出版社)1972年1月号(280円)が刊行された。

1970年にランドゥンで刊行された、イエン・キャメロン(Ian Cameron、1937年3月13日~2010年1月26日)編『第二の波世界における最新の新しい波の著名人』Second Wave: Never Than New Wave Names in World Cinema(Studio Vista)の書評、41歳の田山力哉(たやま・りきや、1930年6月1日~1997年3月23日)「〝第二の波(セコンド・ウェーブ)〟と名づけられた八人の作家」が掲載された。
ミシェル・スィモン(Michel Ciment、1938年5月26日~2023年11月13日)著「フイ・ゲーハ」Ruy Guerraを引用した④「ルイ・グエッラ」より引用する(47頁)。

 グエッラについてはフランスの批評家ミシェル・シマンが書いている。一部だけ引用しよう。
「グエッラがブラジルのシネマ・ノーヴォの一員になったのは偶然であろう。彼は一九三一年にアフリカのモザンビークで生れたが、後にブラジルへ渡り、そこで第一作『不謹慎な奴ら』(62)を撮り商業的成功を収めた。これは新しいスタイルを見出そうとする重要な試みだったが、フランスではエロ映画として扱われた。第二作『拳銃』(64)はギリシャで撮られたが、ここにもブラジルの地方の諸問題が描かれていた。第三作『甘いハンターたち』(69)はアメリカ市場のために英国で撮影された。グエッラは自らの手法を個人的に探索し、いかなる派にも属さない。フォームは非常に古典的だが、グエッラはテンポあるタッチで革命を深味において描くのだ」

田山は映画劇『不謹慎な奴ら』Os Cafajestes(100分)が8年前の1963年3月16日、丸の内東宝で『良心なき世代』の邦題で公開されたことに触れていない。

1974年3月、『映画評論』(映画出版社)4月号「サタジット・レイ研究」(400円)が刊行された。

特集「世界の未紹介監督論」より、高沢暎一(たかざわ・えいいち、1939年~)「第三世界のもう一人の作家=ルイ・ゲーラ〈ブラジル〉」を引用する(89頁)。

 一九六二年ゲーラは〝Os Cafajestes〟(のらくら者たち)という作品を完成させた。この作品は、興行的にも成功をおさめ、〝若いブラジル映画〟という声価を高からしめた。この作品は、新しいスタイルを発見したと言われ、リオの批評家たちの注目を浴びたが、フランスではエロ映画として公開された、というエピソードがある。この年、グラウベル・ローシャの長篇劇映画第一作『パラヴェント』が作られている。

高沢は映画劇『のらくら者たち』Os Cafajestes(100分)が11年前の1963年3月16日、丸の内東宝で『良心なき世代』の邦題で公開されたことを知らなかったようだ。

1964年の映画劇『太陽の地の神と悪魔』

1964年3月12日、27歳の江利チエミ(1937年1月11日~1982年2月13日)の顔を表紙にした毎月第二・第四木曜日発行の「歌と映画とテレビのホットニュース」『オール芸能』(双葉社)3月26日創刊号(50円)が発売された。

グラビヤに映画劇『月曜日のユカ』撮影合間に撮影した、20歳の加賀まりこ(1943年12月11日~)がモデルの「まりこのストリップ・ティーズ」が掲載された。

1964年2月15日、東京・日比谷のみゆき座で、39歳の安倍公房原作・脚本、36歳の勅使河原宏監督、43歳の岡田英次(1920年6月13日~1995年9月14日)、33歳の岸田今日子(1930年4月29日 ~2006年12月17日)主演の 映画劇『砂の女』(147分)が公開された。

撮影は1963年7月15日~10月上旬におこなわれ、1964年1月14日、初号プリントが完成した。

1964年3月4日、30歳の安川実(1933年2月10日~2010年1月18日)原作、34歳の斎藤耕一(1929年2月3日~2009年11月28日)、29歳の倉本聰(1934年12月31日~)脚本、38歳の中平康(なかひら・こう、1926年1月3日~1978年9月11日)監督、20歳の加賀まり子、34歳の加藤武(1929年5月24日~2015年7月31日)、21歳の中尾彬(なかお・あきら、1942年8月11日~2024年5月16日)主演の映画劇『月曜日のユカ』(93分)が成人映画(18歳未満入場禁止)として公開された。
撮影は同年1月10日に神奈川県横浜市で始まった。

同時公開は川瀬治原作、35歳の大川久男(1928年2月24日~2016年4月19日)、渡辺祐輔脚本、59歳の小杉勇(1904年2月24日~1983年4月8日)監督、31歳の葉山良二(1932年11月9日~1993年1月3日)、28歳の吉行和子(1935年8月9日~)主演の映画劇『姿なき拳銃魔』(84分)だった。

1964年3月10日発行『芸能』(芸能発行所)3月号(130円)掲載の、43歳の草壁久四郎(1920年6月2日~2001年8月19日)「「砂の女」のロードショーをめぐって」より引用する(60頁)。

 東宝ではかねてから、フリーブッキング[大手映画制作会社の週単位で入れ替わる新作映画の全作品を「一か月四本」または「三か月一、二本」というふうに貸し出し契約した自社系列の全国規模の興行網で公開する「ブロックブッキング」に対して、個別作品ごとに個別映画館と貸し出し契約する方式]への一つの試みとして、邦画一本立によるロードショー[入場料の高い限られた高級映画館での新作映画の先行公開]を計画していた。しかしこれに適したものを自社の作品から選ぶとなると、結局黒沢[明]作品ということになるのだが、一般封切番線[新作映画の全国一斉興行の各地の主要な封切館]からはなして黒沢作品のロードショーを行うことは、封切館からかなり強い反対がある。というわけで独立プロ系から適当な作品をと考えていた折から、この「砂の女」の話がもちこまれたということだった。
 こんどの東宝の試みは、邦画一本立てを洋画ロードショーとまつたく同じ扱いでやるということで、これまで芸術的な作品を比較的多く上映していた〝みゆき座〟を選んで、料金、宣伝すでにロードショーと同じ方法でやつた。ところがフタをあけると、これがたいへんな人気で、これまでの同館の興行記録をすべて更新するという大ヒット。はじめ四週間続映の予定が七週にのび、さらに三月一日現在では九週間のロングランが予定されるにいたつている。

1964年3月27日~29日の第11回大会で新日本文学会日本共産党と絶縁した。会は新規約を採用し、会を「進歩的・大衆的な文学芸術創造運動のための専門文学者の団体」、そこに集う会員は「専門的な創造研究活動をしている者」と規定した。

1964年3月31日、ブラズィウ連邦共和国軍政化した。

1964年4月1日、日本国は多民界通貨基金(International Monetary Fund, IMF)協定8条の義務を受諾し、輸出入取引等から生じる対外決済に関する公的制限を原則としておこなわないこととした。これにより、観光目的の海外渡航が自由化された。

1964年4月30日、第17回キャンヌ多民界映画祭で、映画劇『砂の女』La Femme des sablesが上映された。

1964年5月11日、第17回キャンヌ多民界映画祭で、26歳のグラウベル・ホーシャ(Glauber Rocha、1938年3月14日~1981年8月22日)監督、28歳のヨナ・マガリャインス(Yoná Magalhães、1935年8月7日~ 2015年10月20日)、33歳のジェラウドゥ・デウ・ヘイ(Geraldo Del Rey、1930年10月29日~1993年4月25日)、30歳のオートン・バーストゥス(Othon Bastos、1933年5月23日~)、36歳のマウリッショ・ドゥ・ヴァッリ(Maurício do Valle、1928年3月1日~ 1994年10月7日)主演の映画劇『太陽の地の神と悪魔』Deus e o Diabo na Terra do Sol(120分)が上映された。

1964年5月14日、キャンヌの授賞式の37歳の勅使川原宏、32歳のアヌーク・エメ(Anouk Aimée)、32歳のジャック・ドゥミ(Jacques Demy)
キャンヌで、画面左から、ワールド・フィルムの37歳の三好三郎(三好淳之)、19歳の入江美樹、34歳の岸田今日子、37歳の勅使河原宏、20歳の加賀まり子、加賀の後ろに56歳の川喜多かしこ

2019年3月31日、63歳の都築響一(つづき・きょういち、1956年1月31日~)編『タキシード・サムライ 三好三郎一代記』限定1,000部(三好三郎、ミヨシコーポレーション、非売品)が刊行された。

1966年5月25日発行、中曽根康弘(1918年5月27日~2019年11月29日)著『日本のフロンティア』(恒文社、390円)収録の『映画ジャーナル』(文化通信社)1964年9月号掲載の61歳の川喜多長政(かわきた ・ながまさ、1903年4月30日~1981年5月24日)と46歳の中曽根の対談「芸術と政治」より、中曽根の発言を引用する(304~305頁)。

「砂の女」がカンヌ映画祭で特別審査賞を取りましたね。これにはぼく関係があるんですよ。はじめ「砂の女」をみましてね、これは非常にいい映画だ。国際映画コンクールに出たらゼッタイ入賞するぞという確信をもったんですが、たまたま、勅使川原宏君(「砂の女」の監督)がカンヌへ持ってゆく、ぼくの知人の三好淳之君(ワールドフィルム社長)も一緒にいくというので私のところにやってきて、運動費がゼンゼンない。むこうに行くのはツーリストとして行くので一日何ドルという制限があるし、パーティー代として、千ドル余分に外貨を貰っただけで、こりゃみじめなことになりそうだ。むこうでは日本人のパーティーだと振袖姿の美人にもお目にかかれるしというわけで人気があって千人や二千人が集まるだろうが、千ドルでまかなうとするとコカコーラいっぱいしかだせんが困ったことだという。
 ところが、外国のほうはどうかというと、アメリカなど「ローマ帝国の滅亡」なんか出したときには軍艦まで出して夜はイルミネーションで大変派手なPRをやった。フランスはアンドレ・マルロー文化大臣がくるというわけで、国家が非常に応援してるようですね。
 だが、日本では商人が、また商売にゆくというぐらいの認識で旅費しかドルを出してくれないと嘆くのですね。この話をききましてね、いま川喜多さんのお話のように、ぼくも日本の映画が「羅生門」以来いくつか海外で受賞していると聞いているが、これはクロウト筋から映画としてのレベルも相当高いと賞賛されたことなんだし、シロウトが見ても面白い。あるいは芸術的感動をまき起して、日本人の威力をみせたことなんだと思いましてね。いったい、いくらいるんだときいたら、一万か一万二千ドルぐらい余計に欲しいという。大蔵省に行きましてね、芸術という問題をほっといちゃイカン、これをやらんということは税金を出している国民への裏切りだ。ほかのくだらんことはやらんでいいからと談判したんですが、西野君という次官が大変理解してくれて、それは、出発も二、三日あとに迫っているんだし、すぐ間に合わないから、むこうから実際これだけかかると知らせてくれ、そうしたら善処するからといってくれましたね。あとでむこうからうってきた電報通りカネを出してくれた。そのお蔭も多少あるのだと思うけど「砂の女」はうまく宣伝できて、結構なことに入賞してぼくもよろこんでます。

1964年8月7日発売の『婦人画報』(婦人画報社)9月号(220円)から連載された梶山季之(かじやま・としゆき、1930年1月2日~1975年5月11日)の小説『虹を摑む』をまとめた、1966年2月17日発行、36歳の梶山季之著『虹を摑む』(講談社、340円)、「人生は勝負の章」より引用する(180~183頁)。

 安心院がゴルフを習いはじめたのは、この慶光院綾太郎に奨められたからである、
 慶光院は、自分の小さな独立プロを持ち、〈沼の女〉という劇映画を完成したばかりだった。
 春の柔かい陽ざしを浴びながら、芝生の新芽の美しいゴルフ場を回るのは、とても愉しい作業である。
 慶光院は、
「こんどの作品は自信があんだ。きっとカンヌ映画祭に出品できると思う……」
 と、ゴルフをしながらも、意気軒昂としていた。
 安心院傑四は、まだ〈沼の女〉は見ていなかったが、かねがね見所があると思っていた新進監督の、その口吻を耳にしたとき、忘れていたものが、パッと胸の底で甦えった。
 それは、なにか――。
 映画である。映画への郷愁である。
 彼は目を輝かせた。
「綾さん。それ、カンヌに出しまんのか?」
「ああ、その積りだよ、ケツヨ」
 慶光院は大きく白球を打ち上げた。二人は綾さん、ケツヨと呼び合う仲になっていたのである。
「ふーん。すると海外の配給権は?」
「まだ、決めてない」
「あんた、このわてに、海外配給権をくれはらしませんか?」
「ええッ、ケツヨに?」
「そうだす」
「映画の仕事……少しは知ってるの?」
 相手は吃驚した様子である。
「なに云うてまんね。専門だすがな、映画の配給の仕事なら――」
「へーえ、ちっとも知らなかった」
 彼は、自己の経歴を語って聞かせ、
「もしカンヌに出品して、賞をとる自信があるんやったら〈沼の女〉のフィルムは、わいに海外に売らせて欲しいんだす……」
 と切りだした。
 別に成算があったわけではない。
 慶光院綾太郎に賭けてみよう! という、単純な思いつきだけからの発想だった。
「本当にやれるかい?」
「やりますがな、そうと決まったら!」
「よっしゃ。海外配給権は、きみにやる」
 意外に簡単なことで話はまとまったが、日本国の、がめつい映画館主が相手でなく、こんどは青い眼の、やたらと人種の違う興行師が相手だとなれば、これは個人交渉ではまにあわない。
 ゴルフ場から帰って、安心院傑四は〈沼の女〉の海外配給について、あれこれと構想を立てた
 その結果、やはり会社を設立すべきだ、と思った。
〈金はあるが、人材がおらん! よっしゃ、引き抜いたれ!〉
 彼は先ず〈春秋映画〉の外国部長をしている昆布田次郎を口説いた。昆布田は、アメリカに八年ちかく滞在して、日本の映画を、海外に売りつける仕事をしていたベテランである。
 ついで〈パランピア映画〉東京支社で総務、経理を担当した榧目という人物を引き抜いた。これは、英語、フランス語がペラペラで、しかも外国人の習性に明るいという余技をもった人材である。
〈そのあとは……〉
 と考えて、税金や外貨の対策に、大蔵省で局長をしていた山野井という人物の迎入れにも成功した。
 会社の資本金は、全額払込みの三千万円。社長には彼が坐り、はなばなしくスタートしたその日、映連の選考から、〈沼の女〉が惜しくも第二位で脱落した……という悲報が入ったのだ。
 安心院傑四は愕然となった。
「なんで落ちたんやろ」
 彼は不思議がり、それから自分が、まだ〈沼の女〉を見ていないことに気づいた。さっそく映画館を探して、見てみると、ストーリィはよく判らないが、いかにも外国受けのする感じであった。
〈悪い映画やない!なんとか、カンヌに出品させることは、でけんやろか?〉
 さっそくカンヌ映画祭の規約を調べさせた。
 するとその規約の中に、〈招待作品〉という一項目があったではないか!
〈よっしゃ! これや、これや!〉
 安心院傑四は奮い立ったが、ここで大いに手腕を発揮したのが、パリの社交界で名を売った四方秋子だったのだから、彼の投資も決して無駄ではなかった。
「文化省の大臣をしている、詩人のアントレ・マルボウ氏なら、〈沼の女〉を招待して呉れるんじゃないかしら。それにシャルル。ギャバンさんは、元カンヌ映画祭の審査委員長だった方よ。この二人に働きかける、両面作戦ではどうかしら・」
 この秋子の提案を容れて、日本の映連を通さず、フランスのマルボウ、ギャバンの両氏に手紙が出され、ついで海外電話がかけられた。
 その結果、〈沼の女〉は、審査委員会の満場一致で、招待作品に決定したのである。プリント及び試写なしで、招待作品を決めたのだから、秋子の腕も大したものだった。
 だが、この横紙破りの出品通知に、日本の映連は大いに慌てた。なかでも、昆布田外国部長を引き抜かれた〈春秋映画〉は、カンカンであった。
 結局、〈大都映画〉が、〈沼の女〉の親代りをっとめるということで、騒ぎはおさまったが、安心院傑四は、ともかくカンヌに出品できることで、鼻高々であった。むろん代表団の一員として、慶光院や主演女優の河原宏子と共に随行することにした。

梶山季之著『虹を摑む』、「果報は寝て待ての章」より引用する(211~212頁)。

 メキシコとブラジルに出かけた。安心院傑四は、何年か前に、グランプリなどの賞をとった映画が、なぜか外国に売られもせずに倉庫に眠っていることを知ると、ひそかに目を細めた。
 日本の〈沼の女〉で、あれだけ大騒ぎしたのである。
 だから、メキシコ映画であろうと、ブラジル映画であろうと、受賞作品には変りはない筈だった。
 それが、よその国に売れなかったのは、商売が下手なのか、それとも作品が高級すぎるのかのどちらかである。
 安心院傑四は、あまり興味がないような顔をしながら、それらの映画を試写室で仔細しさいに検討し、
〈これは、いける!〉
 と思った。

1983年2月25日発行、「角川文庫」、梶山季之著『虹を摑む』(角川書店、420円)、56歳の三好興産株式会社・代表取締役社長・三好淳之(1926年9月7日~2020年5月11日)「解説人生はお〇〇〇である」より引用する(342頁)。

 柴錬しばれん一家(故・作家の柴田錬三郎氏)は、黒岩重吾、梶山季之、俳優の芦田伸介、今はこれも故人になられた新潮社の麻生吉郎、そしてかく言う私・三好淳之、の、六名で、何をするのも一緒、どこへ行くのも一緒、と言う時代が有りました。或る時、柴錬が書いた小説『大将』の主人公、坪内寿一氏(現在、佐世保重工株式会社・社長)より、奥道後温泉に、日本一馬鹿でかいホテルを建てたので、その竣工式の披露宴での講師として、柴錬、黒岩、梶山の三先生が招待を受け、たまたま、柴錬さんのその小説の中に、小生も、三枚目のモデルとして登場させられているので、一緒に、と言う事で、松山へ四名で行く事になった訳です。
 ちなみに、この『虹を摑む』の中でも、素人●●百姓から身を興し立身出世した主人公・安心院あじみ傑四たけしのモデルとしても登場しています。今度、久しぶりに再読して、当時の若かりし日の自分を思いだし、懐しく感じられました。

1964年6月、第14回ベアリーン多民界映画祭で、32歳のフイ・ゲーハ監督、22歳のネウソン・シャヴィエア(Nelson Xavier、1941年8月30日~1941年8月30日)、23歳のパウル・セーザル・ペレイウ(Paulo César Peréio、1940年10月19日~)、26歳のウーグ・カルヴァーナ(Hugo Carvana、1937年6月4日~2014年10月4日)主演のブラズィウ、アルヘンティーナ合作映画劇『』Os Fuzis(80分)が上映された。

1964年7月1日、日本国外国映画の輸入が自由化された。

1964年7月24日、キャンヌ映画祭出席後、約三か月間、パリに滞在していた20歳の加賀まり子が帰国した。

1964年9月16日、ニュー・ヨーク映画祭の会場のリンケン・センター(Lincoln Center)の交響楽会館(Philharmonic Hall)で、映画劇『砂の女』Woman in the Dunesのイングリッシュ語字幕スーパー版が上映された。

1964年10月1日、東京オリンピック開催に合わせて、東京駅新大阪駅を夢の超特急「ひかり号」が4時間で結ぶ日本国有鉄道東海道新幹線が開業した。

1964年10月5日~8日、東京・有楽町の読売ホールで、東京オリンピック記念文化協力、ブラジル大使館、読売新聞社共催の「ブラジル映画祭」が催され、日本語字幕スーパー版の映画劇4作品が上映された。

5日、アンセルモ・ドゥアルテ監督の『約束のことば』Pagador de Promessas(91分)
6日、グラウベル・ローシャ監督の『黒い神と白い悪魔』Deus e o Diabo na Terra do Sol(120分)
7日、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の『ひからびた人生』Vidas Secas(103分)
8日、カルロス・ディエゲス監督の『ガンガ・ズンバ』Ganga Zumba(100分)

1964年10月10日~24日、東京で第18回夏季オリンピック競技大会が開催された。

1964年10月26日、ニュー・ヨークの映画館2(Cinema II)で、映画劇『砂の女』Woman in the Dunesのイングリッシュ語字幕スーパー版が上映された。

1964年11月11日、フランセ共和国で、映画劇『砂の女』La Femme des sablesのフランセ語字幕スーパー版が公開された。

1964年11月末、44歳の児玉数夫(1920年4月30日~2022年7月20日)が宣伝担当として、日本語の映画劇『砂の女』の外国配給を手がけていた、映画の輸出・輸入を手がけるワールド・フィルムに入社した。

1964年12月29日、イターリアで、1822年10月刊行の39歳のスタンダル(Stendhal、1783年1月23日~ 1842年3月23日)『恋愛論』De l'amourの箴言を同時代の艶笑喜劇にあてはめるという趣向の、38歳のジャン・オレル(Jean Aurel、1925年11月6日~1996年8月26日)監督、38歳のミシェル・ピコリ(Michel Piccoli、1925年12月27日~2020年5月12日)、23歳のアンナ・カリーナ(Anna Karina、1940年9月22日~2019年12月14日)、29歳のジャン・ソレル(Jean Sorel、1934年9月25日~)、29歳のエルサ・マルティネッリ(Elsa Martinelli、1935年1月13日~2017年7月8日)主演の映画劇『熱い肌(恋愛論)』La calda pelle (De l'amour)(88分)のイタリアーノ語吹替え版が公開された。
撮影は1964年4月30日からパリ周辺でおこなわれた。

パリに住む女好きの歯科医ラウル(Raoul)(ミシェル・ピコリ)が手持ちの16ミリ・フィルム撮影機でナンパした若い美女たちを撮った趣味の個人映画を書斎で、ナンパした美女マティルドゥ(Mathilde)(エルサ・マルティネッリ)に映写して見せる場面で、映画内映画に短い間ではあるが20歳の日本人の加賀まりこが映る。

1966年5月21日、新宿東急、丸の内松竹で、映画劇『スタンダールの恋愛論』De L'amourの日本語字幕版が成人映画として公開された。
吹き替えの日本語ナレーションは51歳の松村達雄(1914年12月18日~2005年6月18日)だった。

1965年10月26日、『朝日新聞』夕刊のテレビ面に、映画『サンタ・バルバラの誓い』Pagador de Promessasの紹介記事が掲載された。

 信仰一途の愚直な農夫が、願掛けの十字架をかついで四十二㌔の道を歩き、サンタ・バルバラ寺院の中に持込もうとして、神父に拒絶される。願掛けは、落雷のため倒れた木の下敷きになったロバの命のためで、サンタ・バルバラは二[三]世紀ごろの殉教者、民間伝承では雷の神と見られている。
 寺院の前で途方にくれた農夫と邪教(土俗信仰)に反発する神父、「新しいキリスト」「農地分割主義者」「革命家」などと書立てる新聞記者、興奮する黒人の大群衆、それに農夫の妻を誘惑する職業的女たらしなどがからんで、次第に場面は険悪にたかまり、警官隊と黒人たちの乱闘の中で、主人公は射殺される。黒人たちは死体を十字架にのせて、寺院の中に押入る。
 原題は「願掛けを果した人」という意味で、ブラジルの新進作家ディヤス・ゴーメスの戯曲を、アンセルモ・デュアルテ監督が脚本・演出した。62年のカンヌ映画祭でグランプリを受けている。
 物語の舞台はサルバドール市。ブラジル最古の都市で、アフリカ・ニグロのどれい市場で栄えた土地柄だけに、ニグロとインディオとポルトガル人との数百年の憎悪が、常にくすぶって燃え上ろうとしている。異国的な楽器で踊り狂うカトリックの祭礼の人波が、この映画の複雑で重苦しい背景を雄弁に語っている。
 単純で、むしろ古風な物語の舞台は、ほとんど寺院の前の大階段付近にかぎられて、舞台劇を思わせるが、重厚なレオナルド・ビラール(農夫)その他、俳優はいずれも好演しており、監督の演出力のなみなみでないことが知られる。

1965年11月9日、丸の内松竹で、映画劇『サンタ・バルバラの誓い』Pagador de Promessasの日本語字幕版が公開された。
教会信仰の公共習慣のない日本では、評論家のこの映画劇に対する評価は総じて低かった。

1974年10月20日、54歳の児玉数夫著『やぶにらみ映画史戦後の記録』(読売新聞社、1,000円)、「昭和四十年」のコラム「邦人配給会社の興亡」より引用する(273頁)。

 洋画自由化の波は、前年いくつかの邦人配給会社を群立させた。しかるに市場は、東宝、松竹、それに東急の三系統。群小どころはもっぱら東急系を目ざす、その東急もおぼつかなくてポシャリ、と相成ってしまう。 
 私が、前年十一月入社したワールド・フィルムは、『サンタ・バルバラの誓い』(62年)〈11月9日封切り〉、『カンガセイロの最後』(63年)――以上、ブラジル映画。『壮烈501戦車隊』(ソ連・58年)〈9月4日封切り〉『基地潜入』(米=西独・63年)〈11月16日〉『死神の使者』(59年)『恐怖の足跡』(?年)をかかえたままポシャリ。在社九か月少々の宣伝部長。

1965年12月8日、第2ヴァティカーノ公会議が終わった。

1966年7月1日、東京・大手町の日本経済新聞社9階の日経小ホールで、26歳の川喜多和子(かわきた・かずこ、1940年2月1日~1993年6月7日)主宰の日本国内で商業公開されなかったり、商業公開されてから時間が経ち、興行される機会がほぼなくなった名作映画の毎週末1回の自主上映会「シネクラブ研究会」の第1回上映会が、ジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894年9月15日~1979年2月12日)監督の映画劇『ゲームの規則』La règle du jeu(110分。初公開:1939年7月7日)の上映で始まった。

1966年8月30日~9月5日、渋谷地球座で、映画劇『良心なき世代』Os Cafajestesの日本語字幕スーパー版が上映された。

1966年12月19日、スィウフィア・テーリスが32歳で亡くなった。

1967年2月25日、「潮新書」、角田房子(つのだ・ふさこ、1914年12月5日~2010年1月1日)著『ブラジルの日系人新天地に生きる血と汗の記録』(潮出版社、250円)が刊行された。
Ⅴ「「かさと丸」以来」(初出は『週刊サンケイ』(産業経済新聞社)1966年5月2日号~8月29日号)、「サルヴァドール切腹由来」より引用する(108~109頁)。

    日本で、ブラジル旅行の準備をしている時から、私はバイア州の首府サルヴァドールへ行くことをいちばん楽しみにしていた。
 その理由の第一は、一九六二年のカンヌ映画祭でグランプリをとったブラジル映画「サンタ・バルバラの誓い」を見たからである。
 日本では興行的に成功しなかったが、しかし人間精神を非常に高い次元でとらえた立派な映画であった。私はブラジルという国はこんな立派な映画をつくっているのかと驚いたが、のちに多少事情につうじてみると、このフィルムはブラジル映画界の〝突然変異〟的な作品であったらしい。しかし、この監督がきわめて高い知性の持ち主であることだけは確かだった。
 この映画の舞台は、バイア州の首府サルヴァドールである。
 一五〇〇年、ポルトガル人、ペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを発見し、一五四九年、初代総督トメー・デ・ソーザがサルヴァドールに首府を築いた。ここはブラジルで最も古い歴史を持ち、最もポルトガル色が強く、また黒人の勢力の強い街といわれている。こういう特色が、映画「サンタ・バルバラの誓い」に色濃くにじみ出ていた。

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