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ブラズィウのボッサ・ノーヴァ(新感覚派)と1962年の映画劇『遊び人』

ニューズウィーク日本版サイト』「World Voice」、島田愛加南米街角クラブ」2021年1月29日「僕らはボサノヴァが歌われた「あの頃」をしらない」を引用する。

ボサノヴァ以前のブラジル音楽の歌詞は「誰も僕を愛してくれない。誰も僕を必要としてくれない。」といったような暗く悲しいものが多かった。希望に満ち溢れた若者たちがこういった歌詞を好まない、理解できないのは無理もないだろう。
そこで彼らは日常的な出来事、つまり目の前に広がる太陽やコパカバーナの海岸、美しい女性、そして愛を題材にしたのだ。
歌唱方法に関しては、彼らの集まりが夜遅くマンションで開かれていたことから自然とギター1本と小さな声で歌うようになっていった話や、チャット・ベイカーに影響された話などがあがっているが、それまで録音機材の関係で歌手は声を張り上げて歌うのが一般的だったのに対し、時代と共にマイクなどの改良もあり、囁くような声で歌うという選択肢ができたことも関係しているだろう。

1962年3月24日、ブラズィウで、ジェース・ヴァラダオン(Jece Valadão、1930年7月24日~2006年11月27日)制作・主演、フイ・ゲーハ(Ruy Guerra、1931年8月22日)とミゲル・トーリス(Miguel Torres)脚本、ゲーハ監督の映画劇『遊び人』Os Cafajestes(100分)が公開された。

主演は、ノールマ・ベンギウ(Norma Bengell、1935年2月21日~2013年10月9日)、ダニエル・フィーリョ(Daniel Filho、1937年9月30日~)だ。 

音楽はルイース・ボンファ(Luiz Bonfá、1922年10月17日~2001年1月12日)だ。演奏は打楽器がエルシウ・ミリト(Hélcio Milito、1931年2月4日~ 2014年6月7日)、ベースがベベート・カスチーリョ(Bebeto Castilho、1939年4月13日~)、サックスがジョルジーニョ・ダ・フラウタ(Jorginho da Flauta)、歌がホザナ・トレド(Rosana Toledo、1934年9月29日~2014年2月9日)だ。
 
男性に侮辱され、性的いやがらせを受ける女性の全裸を見せたことで論争を招き、21歳未満の未成年者の鑑賞が禁じられたにもかかわらず大ヒットし、ブラズィウの新興映画(Cinema Novo)と称された。

リオ・ジ・ジャネイロ(Rio de Janeiro)のコパカバナ(Copacabana)のアパートに住み、極貧を味わったことのある遊び人の青年ジャンジール(Jandir)(ジェース・ヴァラダオン)は、夜遅く、繁華街で借り物の折り畳み式屋根の1949年型ビュイック・ロードゥマスタ(Buick Roadmaster)を止め、娼婦グラウス・ホーシャ(Glauce Rocha、1930年8月16日~1971年8月12日))を誘い、朝5時に起こすという条件でアパートに連れ帰る。

アパートでジャンジールは実際には深夜3時なのに、時計の針を進め5時に合わせ、目覚ましのベルを鳴らす。出て行った娼婦は通りで警官に時間を訊ね、だまされたことに気づき、二階の窓から見て面白がっているジャンジールを罵る。

薬物常用者で、かっこいい車を買うため、大金持ちの伯父をゆすろうとしているジャンジールの仲間に、ビュイックの持ち主で、裕福な銀行家のドラ息子ヴァヴァ(Vavá)(ダニエル・フィーリョ)がいる。

ジャンジールは、ヴァヴァの叔父の愛人の若い女性レダ(Leda)(ノールマ・ベンギウ)を朝7時に映画館アウヴォラーダ(Alvorada)の前に呼び出し、ヴァヴァをトランクに隠したビュイックで彼女を無人の砂浜へ連れ出す。

車のラジオから、スィウフィア・テーリス(Sylvia Telles、1934年8月27日~1966年12月19日)の1960年発売のアルバム『高精細の愛』Amor Em Hi-Fiに収められた、1963年にテーリスの夫となるアロイーズィオ・ジ・オリヴェイラ(Aloísio de Oliveira、1914年12月30日~1995年2月4日)作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン(Antônio Carlos Jobim、1927年1月25日~1994年12月8日)作曲「ジンジ」Dindiが流れる。

ジャンジールは言葉巧みにレダを全裸で海に入らせ、彼女の脱いだ服を車に入れ、車を波打ち際に走らせる。レダは車を追って走るが、途中で倒れる。車がレダの方に戻って来て、レダの周囲を走る。トランクから現れたヴァヴァが奇声を上げながら写真機で、屈辱を感じて砂浜に伏せって苦悶する全裸のレダを撮る。

やがて車は走り去り、レダの服と靴と腕輪が砂浜に投げ捨てられる。その後、車は止まり、ジャンジールとヴァヴァが車を降りると、服を拾って前を隠しながらレダが彼らに合流する。

車のラジオから、ジュアオン・ジウベルト(João Gilberto、1931年6月10日~ 2019年7月6日)の1960年発売のアルバム『ある恋、ある微笑み、ある花』O Amor, o Sorriso e a Florに収められた、アントニオ・カルロス・ジョビンニュートン・メンドーサ(Newton Mendonça、1927年2月14日~1960年11月22日)の「一音のサンバ」Samba de Uma Nota Sóが流れる。

写真を取り返したいレダは、自分は麻薬中毒で、ヴァヴァの伯父とは別れたので、彼をゆすれないと言う。

ジャンジール、ヴァヴァ、レダの三人は、改めて、カーブ・フリウ(Cabo Frio)でヴァバの伯父の娘で、ヴァヴァの幼馴染の従姉妹でもある女学生の令嬢ヴィウマ(Vilma)(ルスィ・ジ・カルヴァーリョ(Lucy de Carvalho、1942年~))の裸の写真を撮ろうとする。

レダが海辺で遊んでいるビキニのヴィウマに電話する。ジャンジールとヴァヴァはカーブ・フリウの聖マッテウス要塞(Forte de São Mateus)に行く。計画通り、レダがヴィウマを連れてくる。

4人で車に乗り、砂丘に着くと、ジャンジールはヴィウマを降ろし、ヴァヴァが写真機を構える。ジャンジールは砂の上でヴィウマを押し倒し、砂丘の下に転がす。砂丘の上からレダも見守る。

砂の上に倒れて動かないヴィウマを無視して、ジャンジールとヴァヴァが喧嘩を始め、ヴァヴァが写真機を投げ捨てる。ヴァヴァはヴィウマを助け起こし、ジャンジールは写真機を拾い、ヴィウマを追う。

時間が飛び、すっかり暗くなっている。半裸のヴィウマが砂の上でうつ伏せになって這う。ジャンジールと彼を止めようとするヴァヴァの口論が続いている。

ジャンジールが上着を脱ぎ捨て砂丘の上に駆け上がると、レダの運転する車が海中に突っ込んで止まる。

ヴァヴァは前から、さまざまな男と付き合うヴィウマのことが好きだったが口説けなかったらしい。ジャンジールは砂の上に仰向けに寝転ぶレダを懐中電灯で照らす。ジャンジールとレダは情熱的に抱き合う。

服を着たヴィウマはヴァヴァを臆病者と罵る。波打ち際に停めてある、ヴァヴァが乗る車のヘッドライトを浴びながらヴィウマは海に入っていく。それを見たジャンジールが無言で彼女を連れ戻す。

ヴィウマはヴァヴァとレダが見ている前で、仰向けに横たわる上半身裸のジャンジールに抱きついてキスをする。ヴィウマとジャンジールは波打ち際で濡れながら情熱的に抱き合う。ヴァヴァは顔をそむけ、レダだけが彼らを見ている。

夜が明ける。ジャンジールは、ヴァヴァに、ヴィウマはヴァヴァとしか結婚しないと言っていると言うが、ヴァヴァは車をやるから行ってくれと言い、拳銃をもって砂丘を歩き、上空や周囲に向けて拳銃を五発続けて撃ち、最後に自分の頭を撃とうとして撃てず、砂の上に横たわり「ヴィウマ」とつぶやく。心配したヴィウマが砂の上に横たわるヴァヴァに駆け寄り、彼の右手から拳銃を奪い、彼にキスをする。

ジャンジールはレダを乗せ、車を走らせている。レダは自宅の屋敷に着き、豪華な泉水の前でうずくまる。

ジャンジールは一人で車を走らせる。ラジオの男性アナウンサーが世界各国からの様々な報道が流れ続ける。車が動かなくなり、ジャンジールは車から降りて歩き出す。ラジオの男性アナウンサーは報道に続いて天気予報を報じる。

1963年3月16日、丸の内東宝で、映画劇『良心なき世代』Os Cafajestesの日本語字幕スーパー版が成人映画として公開された。

1963年3月発売の『映画芸術』(映画芸術社)5月号(170円)に、27歳の寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)の映画評「良心なき世代辛い青春のサジズム」が掲載された。

1963年9月1日、「現代新書」2、柴田プロダクション編『写真で見る日本残酷物語』(現代芸術社、280円)が刊行された。

同書の特集記事、38歳の荻昌弘(おぎ・まさひろ、1925年8月25日~1988年7月2日)「日本映画にあらわれた残酷」より引用する(118頁)。

ブラジル映画『良心なき世代』には、二人の不良少年が、海辺で泳ぐ少女の衣服をかつさらい、全裸で困惑する彼女の周囲を、車でぐるぐるまわつてよろこぶ悪戯が出てきます。じつに女性の弱味につけこんだ無[ママ]趣味で卑劣な残酷さである。が、広い世間には、殺人は残酷すぎてできないけれども、あの程度のマネならしてみたい、と考える人も、残念ながら絶無ではないのではないか、といつた気も、私にはしてしかたがないのです。

 1971年12月、『映画評論』(映画出版社)1972年1月号(280円)が刊行された。

1970年にランドゥンで刊行された、イエン・キャメロン(Ian Cameron、1937年3月13日~2010年1月26日)編『第二の波世界における最新の新しい波の著名人』Second Wave: Never Than New Wave Names in World Cinema(Studio Vista)の書評、41歳の田山力哉(たやま・りきや、1930年6月1日~1997年3月23日)「〝第二の波(セコンド・ウェーブ)〟と名づけられた八人の作家」が掲載された。
ミシェル・スィモン(Michel Ciment、1938年5月26日~2023年11月13日)著「フイ・ゲーハ」Ruy Guerraを引用した④「ルイ・グエッラ」より引用する(47頁)。

 グエッラについてはフランスの批評家ミシェル・シマンが書いている。一部だけ引用しよう。
「グエッラがブラジルのシネマ・ノーヴォの一員になったのは偶然であろう。彼は一九三一年にアフリカのモザンビークで生れたが、後にブラジルへ渡り、そこで第一作『不謹慎な奴ら』(62)を撮り商業的成功を収めた。これは新しいスタイルを見出そうとする重要な試みだったが、フランスではエロ映画として扱われた。第二作『拳銃』(64)はギリシャで撮られたが、ここにもブラジルの地方の諸問題が描かれていた。第三作『甘いハンターたち』(69)はアメリカ市場のために英国で撮影された。グエッラは自らの手法を個人的に探索し、いかなる派にも属さない。フォームは非常に古典的だが、グエッラはテンポあるタッチで革命を深味において描くのだ」

 田山は映画劇『不謹慎な奴ら』Os Cafajestes(100分)が8年前の1963年3月16日、丸の内東宝で『良心なき世代』の邦題で公開されたことに触れていない。

1974年3月、『映画評論』(映画出版社)4月号「サタジット・レイ研究」(400円)が刊行された。

特集「世界の未紹介監督論」より、高沢暎一(たかざわ・えいいち、1939年~)「第三世界のもう一人の作家=ルイ・ゲーラ〈ブラジル〉」を引用する(89頁)。

 一九六二年ゲーラは〝Os Cafajestes〟(のらくら者たち)という作品を完成させた。この作品は、興行的にも成功をおさめ、〝若いブラジル映画〟という声価を高からしめた。この作品は、新しいスタイルを発見したと言われ、リオの批評家たちの注目を浴びたが、フランスではエロ映画として公開された、というエピソードがある。この年、グラウベル・ローシャの長篇劇映画第一作『パラヴェント』が作られている。

高沢は映画劇『のらくら者たち』Os Cafajestes(100分)が11年前の1963年3月16日、丸の内東宝で『良心なき世代』の邦題で公開されたことを知らなかったようだ。


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