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空想科学映画劇『沈黙の星』『イカリエXB1』『展望デッキ』『サリャーリス』



1960年の映画劇『沈黙の星』

1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国の44歳の天皇(1901年4月29日~1989年1月7日)がラジオで戦争終結の詔書を国民に伝えた。

33歳の早川清(1912年7月28日~1993年7月9日)が出版社「早川書房」を創設した。

1947年(昭和22年)2月19日、ポルスカ共和国(Rzeczpospolita Polska)が暫定的に成立した。

1949年(昭和24年)10月7日、 ドイチュ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik)(東ドイツ)が成立した。

1951年(昭和26年)、ヴァルシャヴァで、スタニスワフ・レム(Stanisław  Lem、1921年9月12日~2006年3月27日)の小説『宇宙飛行士』Astronauci(Czytelnik)が刊行された。

1952年(昭和27年)4月28日、日本国独立を回復した。

1952年(昭和27年)7月22日、ポルスカ共和国(Rzeczpospolita Polska)がポルスカ人民共和国(Polska Rzeczpospolita Ludowa)に改称した。

1955年(昭和30年)、ヴァルシャヴァで、32世紀に設定された、スタニスワフ・レムの小説『マゲラン雲』Obłok Magellana(Iskry)が刊行された。
装幀は、ヤン・ムウォドジェニェツ(Jan Młodożeniec、1929年11月8日~2000年12月12日)だ。

https://note.com/ayanos_pl/n/n17de80803ea6

1956年(昭和31年)10月19日、マスクヴァで、評議会同盟(ソ連)と日本国の「共同宣言」が調印され、12月12日に批准された。
これにより、評議会同盟と日本国の国交が正常化された。

これにより、評議会同盟映画輸出入公団の極東代理店として、日本海映画株式会社が設立された。

1957年(昭和32年)10月4日、評議会同盟(ソ連)が、世界初の人工衛星「衛星1号」の打ち上げに成功した。

1958年(昭和33年)6月、東京赤坂に、丹下健三(たんげ・けんぞう、1913年9月4日~ 2005年3月22日)の設計により地上3階、地下2階の「いけばな草月(そうげつ)流」の総本部を置く総合文化施設「草月会館」が落成した。
地下に526席の「草月ホール」があった。

1958年(昭和33年)9月、草月ホールを拠点として、31歳の勅使河原宏(てしがはら・ひろし、1927年1月28日~2001年4月14日)をディレクターとする「草月アートセンター(SAC)」が発足した。

1959年(昭和34年)12月25日、早川書房が、アメリカ連合国の『夢想物語と空想科学物語の雑誌(The Magazine of Fantasy & Science Fiction)』と提携する形で、30歳の福島正実(ふくしま・まさみ、1929年2月18日 ~1976年4月9日)編集長の月刊の空想科学小説誌『S-Fマガジン』を創刊号(1960年2月号)(120円)で創刊した。

1960年(昭和35年)2月26日、ドイチュ民主共和国(東ドイツ)のベアリーーンの「コロスィウム(Colosseum)」で、レム宇宙飛行士』原作、クアトゥ・メッツィヒ(Kurt Maetzig、1911年1月25日~2012年8月8日)脚本・監督の映画劇『沈黙の星』Der schweigende Stern(93分)が公開された。

1970年、隊長は評議会同盟(ソ連)の科学者アルスィエニェフ(Arsenjew)(ミハイル・ポストゥニコフ(Michail Postnikow))を隊長に、ポラーツ人の電子技術者ソウティク(Sołtyk)(イグナーツ・マホフスキ(Ignacy Machowski、1920年7月5日~2001年1月11日)、アメリカン人の原子物理学者ホーリング(Hawling)(オーツィ・ルケシュ(Oldřich Lukeš、1909年2月18日~1980年2月11日))、ドイチュ人の操縦士ブリンクマンBrinkmann(グンター・スィモン(Günther Simon、1925年5月11日~1972年6月25日))、バーラタ人の数学者スィカーナ(Sikarna)(クアトゥ・ラケルマン(Kurt Rackelmann、1910年4月21日~1973年3月31日))、中国人の言語学者チェン・ユー(Tschen Yü)(フアダ・タン(Huada Tang))、ムケニア人のタルア(Talua)(ユリウス・オンゲヴ(Julius Ongewe))、日本人の医師・荻村すみ子(谷洋子(1928年8月2日~1999年4月19日)を隊員とする宇宙船「宇宙創造者(Kosmokrator)」で金星へ飛び立つ。

荻村すみ子は11歳の少女の時に、1945年(昭和20年)8月6日、大日本帝国の広島市に投下された原子爆弾の爆発を目撃しており、アメリカン人のホーリングは原子爆弾の開発計画に携わっていたという設定だ。

1961年(昭和36年)2月、神奈川県高校入試英語を採用し、すべての都道府県で高校入試の英語の採用がおこなわれた。

1961年(昭和36年)4月12日、評議会同盟の27歳の空軍少佐ユーリイ・ガガーリン(Юрий Гагарин、1934年3月9日~1968年3月27日)が「東方1号(Восток-1)」で世界初の有人大気圏外飛行に成功した。

1961年(昭和36年)5月7日、日劇地下の丸の内東宝で、映画劇『金星ロケット発進す』The Silent Starの日本語字幕版が公開された。

同時上映は、45年前の1936年(昭和11年)に発生したエスパニョータ内戦を描く、ブルース・マーシャル(Bruce Marshall、1899年6月24日~1987年6月18日) 原作、62歳のナナリー・ジョンスン(Nunnally Johnson、1897年12月5日~1977年3月25日)脚本・監督、37歳のエイヴァ・ガードゥナー(Ava Gardner、1922年12月24日~1990年1月25日)主演の映画劇『夜と昼の間』The Angel wore Red(撮影:1959年11月2日~1960年1月初め。99分。初公開:1960年9月14日)の日本語字幕版だった。

1961年(昭和36年)5月31日、「ハヤカワ・SF・シリーズ」、スタニスラム・レム著、46歳の桜井正寅(さくらい・まさとら、1914年12月17日~1969年2月28日)訳『金星応答なし』(早川書房、210円)が刊行された。

宇宙飛行士』Astronauciのルードルフ・パベル(Rudolf Pabel)によるドイチュ語訳『死の惑星』Der Planet des Todes(Verlag Volk und Welt, 1954)からの重訳で原典の三分の一が削除されていた。

装幀は34歳の勝呂忠(すぐろ・ただし、1926年5月10日~2010年3月15日)だ。
特別解説は36歳の草下英明(くさか・ひであき、1924年12月1日~1991年6月22日)、解説は32歳の福島正実だ。

1961年(昭和36年)6月6日、S・Yチェーンの新宿武蔵野館、池袋東宝、浅草松竹座、渋谷スカラ座、江東リッツ、上野スター、横浜相鉄映画で、1960年(昭和35年)春に撮影された、42歳のエディ・コンスタンティーヌ(Eddie Constantine、1917年10月29日~1993年2月25日)主演のフランセ語の映画劇『草原の脱走』Chien de Pique(90分。初公開:1960年12月21日)の日本語字幕版と映画劇『金星ロケット発信す』The Silent Starの日本語字幕版の二本立てが公開された。

1961年(昭和36年)7月7日、第2回マスクヴァ多民界映画祭(Московского международного кинофестиваля)の開幕前夜、マスクヴァの映画館「中央映画館(Центральный дом кино)」で、イリヤ・コパーリン(Илья́ Копа́лин、1900年~1976年6月12日) 、ドゥミートゥリ・ボゴレポフ(Дмитрий Боголепов 、1903年12月1日~1990年1月30日)、グリゴーリ・コシェンコ(Григорий Косенко)監督のガガーリンティトフについての総天然色記録映画『星界への初飛行』Первый рейс к звездам(55分)が先行公開された。

1961年(昭和36年)8月7日に打ち上げられた「東方2号(Восток-2)」には、25歳のゲルマン・ティトフ(Герман Титов、1935年9月11日~2000年9月20日)が乗って一日以上宇宙を周回した。

1961年(昭和36年)、ヴァルシャヴァで、スタニスワフ・レム著『ソラーリス』Solaris(Widawnictwo Ministerstwa Obrony Narodowe)が刊行された。
「ソラーリス(solaris)」はラティン語で「太陽の」を意味する形容詞だが、ここでは架空の未知の生命体の棲む惑星の名称だ。

装幀はコンスタンティ・マリア・ソポチコ(Konstanty Maria Sopoćko、1903年12月5日~1992年3月24日)だ。

1962年4月1日、東京・日比谷の有楽座で、総天然色記録映画『星ぼしへの初飛行』Первый рейс к звездам(55分)が『地球は青かったガガーリン チトフ 宇宙への挑戦』Way to The Stars日本語版の題名で公開された。
日本語版監修は49歳の糸川英夫、語り手は39歳の北出清五郎(1922年12月5日~2003年1月19日)だった。
同時上映は1956年8月24日に公開された総天然色の短篇映画劇『赤い風船』 Le ballon rouge(36分)だった。

1962年(昭和37年)5月10日、「少年少女宇宙科学冒険全集」13、スタニスラフ・レム作、秋田義夫訳『死の金星都市』(岩崎書店、280円)が刊行された。
表紙の絵は35歳の依光隆(よりみつ・たかし、1926年5月1日~2012年12月18日)だ。

1962年5月21日、世界平和大使として各国を訪問中の28歳のガガーリン少佐夫妻が日ソ協会の招きで羽田空港に到着し、9日間日本に滞在した。

1963年の多民界空想科学映画祭と映画劇『イカリエXB1』『展望デッキ』

1963年(昭和38年)5月3日、フランセ共和国で、1962年(昭和37年)5月に撮影された、40歳のクリス・マルケルと32歳のピエール・ロム(Pierre Lhomme、1930年4月5日~2019年7月4日)監督の記録映画『麗しの五月』Le Joli Mai(165分)が公開された。

1963年(昭和38年)7月6日~14日、トリエステで、多民界空想科学映画祭(Il Festival Internazionale del Film di Fantascienza)が催された。

審査員は、41歳のキングズリ・エイミス(Kingsley Amis、1922年4月16日~1995年10月22日)、50歳のジャック・ベルジエ(Jaques Bergier、1912年8月21日~1978年11月22日)、ルイージ・ベルト(Luigi Berto、1913年~1983年)、31歳のウンベルト・エーコ(Umberto Eco、1932年1月5日~2016年2月19日)、42歳のピエール・キャストゥ(Pierre Kast、1920年9月22日~1984年10月20日)だった。

スタニスワフ・レムマゲラン雲』Obłok Magellana原作、37歳のインジフ・ポラーク(Jindrich Polak、1925年5月5日~2003年8月22日)脚本・監督の映画劇『イカリエXB1』Ikarie XB 1(88分)が公開された。

撮影は1962年(昭和37年)2月13日~12月20日におこなわれた。
音楽は41歳のズデニェク・リシュカ(Zdeněk Liška、1922年3月16日~1983年8月13日)だ。

200年後の2163年、宇宙船「イカリエ-XB1」は生命探査のため、アルファ・ケンタウリへと向かう。

41歳のクリス・マルケル(Chris Marker、1921年7月29日~2012年7月29日)脚本・監督、39歳のダヴォス・アニク(Davos Hanich、1922年12月30日~1987年4月)、26歳のエレーヌ・シャトゥラン(Hélène Châtelain、1935年12月28日~2020年4月11日)、40歳のジャック・ルドゥ(Jacques Ledoux、 1921年7月21日~1988年6月6日)主演の写真を構成した映画劇『展望デッキ』La Jetée(28分)が上映された。

素材の写真はマルケルが記録映画『麗しの五月』Le Joli Maiを撮影した1962年(昭和37年)5月ごろから撮影され始めたらしい。

オンラインでは、マルケルが制作会社アルゴス映画(Argos Films)と脚本・監督を請け負う契約を交わした1962年(昭和37年)2月16日を公開日とす誤ったデータが拡散しているので、混同しないよう注意が必要だ。

https://dokumen.pub/la-jetee-1nbsped-1844576426-9781844576425.html

1963年(昭和38年)11月3日、全日本学生映画祭で、24歳の足立正生(あだち・まさお、1939年5月13日~)監督、29歳の吉岡康弘(1934年4月11日~2002年4月17日)撮影、足立正生日本大学芸術学部新映画研究会鎖陰制作委員会制作の16ミリ映画『鎖陰』(56分)が上映された。
音楽は30歳の一柳慧(いちやなぎ・とし、1933年2月4日~2022年10月7日)作曲だ。

満洲のハルビン生まれで日本の敗戦までハルビンで育ち、フランセ語ができる27歳くらいの村岡久美子(1936年~2018年11月)がミワの役で出演した。

1964年(昭和39年)3月23日、1950年代の世界の共産主義映画批評全盛期に、共産主義映画批評家の最高権威者だった60歳のフランセ人ジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul、1904年2月4日~1967年10月13日)が日本ペンクラブの招きで来日し、3週間日本に滞在した。

1964年(昭和39年)4月15日、パリの映画館パゴドゥ(La Pagode)で、エチエンヌ・ラルー(Étienne Lalou、1918年~2015年1月24日)、イゴール・バリエール(Igor Barrère、1931年12月17日~2001年6月24日)監督の記録映画『人体の奥深く』Corps profonds(17分)、映画劇『展望デッキ』La Jetée(28分)、ヨーリス・イフェンス(Joris Ivens、1898年11月18日~1989年6月28日)監督、クリス・マルケル構成、ロジェ・ピゴ(Roger Pigaut、1919年4月8日~1989年12月24日)解説の1962年(昭和37年)撮影のチレのバルパライソについての記録映画『バルパライソで』A Valparaíso(27分)が公開された。

1964年5月末発売の『映画評論』(映画出版社)6月号(170円)に、60歳のジョルジュ・サドゥールと38歳の荻昌弘(おぎ・まさひろ、1925年8月25日~1988年7月2日)の対談「映画キャメラがポケットのなかに」が掲載された。

17頁より引用する。

「そうしますと、イタリアのチェーザレ・ザヴァッティーニ[Cesare Zavattini、1902年9月20日~1989年12月13日]が隠しカメラで撮っている『かくしカメラの眼』などはシネマ・ヴェリテ[cinéma vérité]と呼ぶのでしょうか」
サドゥール「一九五〇年以後、ザヴァッティーニはアンケート映画[film d'enquête(複数の短篇映画劇を一本にまとめた映画劇)]というのをつくりましたが、それは全くシネマ・ヴェリテと同じ原則に基ずくものです。私はシネマ・ヴェリテに関する論文の中に書きましたけれども、ザヴァッティーニの脚本でフェリーニ[Federico Fellini、1920年1月20日~1993年10月31日]、アントニオーニ[Michelangelo Antonioni、1912年9月29日~2007年7月30日]などが監督した『巷の恋』[L'amore in città、1953年]に展開されている理論はまさしくシネマ・ヴェリテです。リチャード・リコック[Richard Leacock、1921年7月18日~2011年3月23日]は隠しカメラは使わないけれども、一緒に人と暮らしていて、カメラやマイクを忘れるようにしている。たとえば、リコックがケネディ大統領についてつくった映画[『予備選』Primary、1960年]では、ケネディ大統領[John F. Kennedy、1917年5月29日 ~1963年11月22日]は全く友だちと一緒にいるように自然に話す。ジャン・ルーシュ[Jean Rouch、1917年5月31日~2004年2月18日]という人が撮っているのは逆のもので、カメラが存在することによって、それによってひき起こされるドラマ、それを発明したものです。それは『ある夏の記録』[Chronique d'un été、1961年]という映画ですが、非常に激しく人に質問をして、それによって人が叫んだり何かするのをカメラに写している。クリス・マルケルはちょっと違がっているので、隠しカメラでなくて、カメラの存在を習慣づけるようにしてあるけれども、非常に音や映像の材料をたくさん使っている。『美しき五月』という映画では、この人は五十時間にもわたるフィルムを撮って、それを一本に圧縮編集しています」

1964年(昭和39年)8月25日発売の『S-Fマガジン』10月号(190円)~12月25日発売の1965年(昭和40年)2月号「五周年記念特大号」(210円)に、スタニスワフ・レム著、飯田規和(いいだ・のりかず、1928年11月6日~2004年1月12日)訳『ソラリスの陽のもとに』全5回が掲載された。
評議会同盟(ソ連)で検閲によりかなりの部分を削除して出版されたルースキ語訳版『サリャーリス』Солярисからの重訳だ。

1964年(昭和39年)10月14日、評議会同盟(ソ連)でニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev、1894年4月17日~1971年9月11日)が評議会同盟共産党中央委員会第一書記を退任した後、記録映画『星界への初飛行』Первый рейс к звездамの完全版の公開が禁じられた。

1965年(昭和40年)7月25日、「ハヤカワ・SF・シリーズ」、スタニスラフ・レム著、36歳の飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』(早川書房、290円)が刊行された。
装幀は32歳の金森達(かなもり・とおる、1932年10月25日~)だ。

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