自分の中の、【大人】
さて、齢25を過ぎた頃から自分は「大人になったなぁ」と感じることが多くなったように思う。
特に、仕事に慣れて、処世術も身につき、感情を表に出さず、嫌なことを腹の奥底にしまうことが出来るようになってから。
幼い頃、何かの本で読んだ文が忘れられない。
「日本では、【我慢する】ことが大人の証である」と。
幼い頃の私は、この言葉の意味を深く、したくない程に理解出来ていた。
そして25を超えて、その文章は徹底的に私に証明してみせた。物分りの良い、波風をたてない【普通】さが、どれほど日本という社会で必要なことなのか。
そして同時に、ソレは自分の心と思考を固くし、生きづらさを増幅させるのである。
ここ数日、コーチングを勉強して、体験を重ねていく内に【大人】は輪郭を表した。まるでずっと闇の中にいたものが意識という光によって白日の下に曝されるように。
私の中に現れた【大人】は、我慢のスペシャリストだ。因子としては7歳の頃から存在して、変わらずそこにいる。誰よりも早く大人になり、物分りの良い存在となり、鎮座している。
だからこそなのか私の中のいるのは【大人】のハズなのに、見た目は【子供】だということ。(コナンか)
今大人になった私自身を、子供に感じるというのは皮肉だろうか。
取り替えることが良いことだとは思わない。というよりもこの【大人】は仙人のように達観し、世の中を諦観している。十分すぎるほど成長して、もうこれ以上何かにはなれない。
今まさにこれを書きながら考えている。
何かが足りないのか、何をするべきなのか。
立ちはだかる壁を越えれば、私はもう少し素直に、息苦しくなく生きていけそうな気もするが、ソレによる弊害も心配している。
素直さや、ありのままだけで生きていけるほど、世の中は優しくないし、それは利己的な自由なのかもしれない。
それに気づけたことも一つの悟りなのかもしれない。。。。。
さて、内省の時間はここまでにしよう。
皆さんが「大人になったなぁ」と思う瞬間はいつだろうか。
その時、誇らしく思うのだろうか?それとも切なさを?
【大人】の姿はどのようなものだろうか。
仲良く出来るものだろうか。対立するのだろうか。
とある漫画から私の好きなセリフを添えて、この徒然なるノートを閉じよう。
「私達はぶつかって、傷つけあう。それから憎み合うか、愛し合うか。
それは〈その時〉決めようと思う。」(花咲ける青少年)
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