年寄りの勘はAIに勝る
『マイ・インターン』(2015年)は、ECサイトを運営する若き女性CEOジュールズ(アン・ハサウェイ)と、シニア・インターン制度で採用された70歳の男性ベン(ロバート・デ・ニーロ)の交流が描かれ、爽やかな感動をもらえる作品である。
この作品で印象的だったのが、ベンが運転する車中で交わされる、ベンとジュールズの会話だった。
ジュールズが行き先を指示し、ベンはその目的地に向かう。しかしジュールズは、ナビが指示するルートとは違うと指摘する。ナビと違うルート=間違っているという主張である。
それに対してベンは、「こっちの方が早い」と言ってそのまま車を走らせる。結果、ベンが言った通り、ナビの指示より早く目的地に到着する。
別シーンで、同様のやり取りが、ベンとジュールズの娘との間でも行われる。そしてベンは「親子そっくりだ」とつぶやく。
これらシーンは、地図データに基づいてナビが示したルートより、ベンの経験に基づいたルートの方が正しかったことを示している。
AI関連プロジェクトの記憶
このシーンを見て思い返したのは、数年前、AIに関するプロジェクトのことだった。
そのプロジェクトは、毎週算出される”ある数値”を、AIで事前に予測しようとするものだった。AI技術を扱う企業と一緒にプロジェクトを開始した。
AI専門家の元、入手できる大量のデータを集め、機械学習を行った。最初から予測結果は90%を超え、AIというものの凄さを感じた。
しかし、期待する予測精度は99%を超えるもので、90%を超えるだけでは成功とならない。その後、機械学習のアルゴリズムを変えたりデータを変えたり、思考錯誤が繰り返された。
しかし、的中率が90%前後の結果が続く。そんな中、一人の男性が注目されることになった。
その男性は、万年課長という存在の60歳間近の男性だった。
彼は、毎週算出される”ある数値”の集計や管理業務に20年以上携わってきた人で、業務を効率化するため、彼が個人的な作業として”ある数値”の事前予測を行っているという情報が入手された。しかもそれが、相当な的中率らしい。
そこで、AIと彼の予測を比較することになった。
「AI vs 万年課長の戦い」は、万年課長の圧勝だった。
彼の予測は軽く95%を超えており、本人は「年寄りの勘」と笑っていた。しかし、AIの専門家や関係者は、その結果を見て驚愕するしかなかった。
その結果を受け、彼がどのように予測しているのか調べることになった。しかし、彼の予測方法をデータ化し機械学習に取り入れることは困難という判断に至った。
その詳細について書くことはできないが、例えるなら、アイス屋があり、その毎日の売上予測をAIで行おうとした場合、暑い日にアイスはたくさん売れそうだから、天気、気温、湿度…といった関連しそうな大量のデータを機械学習させることになる。
しかし「年寄りの勘」からすると、お店に入ってきた客の顔を見れば買う買わないは予測でき、その積み重ねで売上予測はできる、というようなものとなる。
入店時の客の顔を一人一人撮影して、口や目の角度を計測してそれをデータ化することも可能だろうが、そのためには膨大な予算と手間がかかる。そのため「年寄りの勘」を機械学習へ取り入れることは困難という判断となった。
しかし、その膨大な予算と手間は「年寄りの勘」によって一瞬で実現される。
「データが絶対」思考の限界
この「AI vs 万年課長の戦い」は、印象的な出来事として頭に残っている。
なぜ印象的かというと、それまで知らず知らず、自分の中で「データが絶対」という考えに支配されていたことに気づかされたからだ。
AIは技術ばかり注目されがちだが、肝になるのは、先ほどのアイス屋の例でいえば天気、気温、湿度…といったデータにある。
しかし、それらデータはデータ化されている必要がある。そして世の中には、データ化しづらいもの、もしくはデータで測れないものがたくさんある。
普段の業務においては、データ化されているデータを用いて、考え、作業し、アウトプットする。それが自分にとって納得しやすいし、相手からも納得されやすい。自分の勘に基づくアウトプットなんて信用できないし、根拠を聞かれて「自分の勘です」と言ったら一笑に付されるだけである。
このように、データに基づくというのは、一見するとよく考えられていて納得感があるように見えるかもしれない。しかし実際は、安易な思考ともいえる。思考も作業も、データ化された枠組みの中に限定されているからである。
『マイ・インターン』の女性CEOジュールズもその娘も、データに基づいてナビが示したルートに絶対の自信を持っていた。ルートが示された時点で彼女たちは、それ以上何も考えていない。思考はそこで停止する。「もっと早く到着するルート」も「もっと安全なルート」も「もっと景色がいいルート」も考えていない。
しかし実際には、ナビが示す以外のルートは多くある。
「データが絶対」は安易な思考というのは、そういうことである。もっと尖った言い方をすれば、データの奴隷になっている。人間が、人間にとって召使だったはずのデータの奴隷になっている。
データに基づくことに軸足を置いたとしても、データで測れない価値に気づくこと。データに基づいて最適とされる以外のことを考えること。それこそが、人間らしいということでもあるのだろうと思う。
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