タタリ神になんかなりたくない!
先日、札幌市の地下鉄で、陸上自衛隊員が18歳の男子高校生に暴力を振るったことがニュースになっていた。
暴力を振るった理由は、陸上自衛隊員の同僚が「体の不自由な人」や「妊婦」などを利用対象とする専用席に座っており、それを男子高校生に注意され腹を立てから、ということだった。
こういうニュースを見ると、怒りのコントロールの必要性ということを思う。
タタリ神の怒り
怒りのコントロールということで思い出す映画に、ジブリの人気作品『もののけ姫』(1997年)がある。
『もののけ姫』は、冒頭、主人公アシタカの村がタタリ神に襲われる。タタリ神は、もともとイノシシの神だったが、憎しみや怒りによって凶暴で醜い姿になった怪物である。
物語中盤から登場する乙事主(おっことぬし)も、最初は知的で穏やかなイノシシの神だったが、人間との戦いによって憎しみを抱き、そして怒りによって最後はタタリ神になってしまう。
このように、怒りによって凶暴になる姿は醜いものであり、タタリ神は”なってはならない物”の象徴といえる。そして、怒りで我を忘れるというのは、タタリ神になるようなものといえる。
怒りのコントロール
生活していれば、様々な場面で怒りは生まれる。
そのため、怒りという感情自体は否定するものではなく、重要なのは怒りとの付き合い方と思う。
怒りを感じたから大声で暴言を吐く、暴力手段に出る。これらはあまりに安易で、そして他人に迷惑をかける。それよりも、怒りをコントロールして、最終的に自分にとってメリットがある形に持っていく方が望ましい。
そのための手法は、各人が経験に基づいて様々あると思うし、アンガーマネジメントという怒りのコントロール方法もある。
自分が行っている怒りのコントロール手法は、三つの手順に分けられる。
手順.1 時間に身を委ねる
怒りは、突然何の理由もなく生まれるものではなく、悲しみや憎しみなどの感情があって生まれる。
そういった悲しみや憎しみ、そしてその先の怒りは、大抵は時間が解決してくれる。時間は偉大な解決能力を持っているからである。
悲しみや憎しみ、そして怒りの全てが消え失せるわけではないけれども、怒りを感じた時、時間に身を委ねれば、ピーク時よりも減少する。
そのため、怒りを感じた時に条件反射する癖のように「時間は偉大な解決能力を持っている」という言葉を唱える。
そうして、何も行動を起こさず時間に身を委ねる。
手順.2 理想と現実の溝を埋める
時間によって怒りのピークが過ぎたら、怒りの発生原因を辿っていく。すると、怒りの原因は、大抵は理想と現実のギャップということになる。
「〇〇だと思っていたのに…」とか「△△のはずだったのに…」である。〇〇や△△は、自分が思い描いていた理想の姿や理想の状態がある。
例えば、A君に書類Bを作ってくれるよう作業依頼を行うとする。A君が提出してきた書類は、書類Bではなく書類Cだった。
この場合「書類Bをお願いしたはずなのに、なぜ書類Cなんだ?」となる。そういう理想と現実のギャップを目の当たりにすることで、怒りが生まれる。
怒りの発生源を辿った後は、理想と現実の間にある溝を埋める必要がある。
先ほどの例でいえば「A君には書類Bを依頼した。しかしA君は、書類Cと解釈した。そのため、B君は書類Cを作成した」となる。
このように、理想と現実の間に一言差し込み、溝を埋める。そうすることで、怒りの発生原因である理想と現実のギャップは小さくなる。
手順.3 自分のせいにする
小さくなった理想と現実のギャップにおいて、最後の作業は「自分のせいにする」ということである。
「A君が書類Cと解釈したのは、A君の理解力が低いからだ」
と定義すると、自分のメリットはほぼない。そして今後も、A君との間では、意思疎通において齟齬のあるやり取り、そして怒りが繰り返されていく。
それよりも、
「A君が書類Cと解釈したのは、自分の説明が下手だったからだ」
と定義すると、自分の説明方法を見直すきっかけになる。その結果、説明力が向上したり、説明が上手な人と褒められることがあるかもしれない。
表面上、A君の誤りを指摘したり、A君の理解力を問題視することがあっても、それとは別に、自分の中では、自分のせいにする。
このように、表面上の言動とは別に、自分のせいにすると、自分にとってメリットが大きい。
これは仕事の場面に限らず、怒りの場面としてありがちな「浮気された」時でもそうだろう。
浮気された際、浮気した人を糾弾する。それはそれで必要なわけだし、大いに反省を促す必要があるが、自分の中では「自分に魅力がなかったのかもしれない」と考えておけば、その後、自分磨きを行い魅力的になってモテ期が到来するかもしれない。
表面上の言動とは別に、全ては自分のせいと定義した方が、自分にとってメリットが大きいというのは、こういうことである。
タタリ神になんかなりたくない!
『もののけ姫』における冒頭のタタリ神にしても、主人公アシタカに、
「静まれー!静まりたまえー!」
と言われた時点で、怒りを鎮める時間のチャンスはあった。しかし、怒りで我を見失ったタタリ神は、アシタカの言葉を無視して暴走、その後、アシタカによって倒される。
また乙事主も、人間と山の神々の戦いにおいて、理想と現実のギャップに対し、理想ばかりを優先した結果、サン(もののけ姫)に、
「乙事主さまタタリ神なんかにならないで!」
と言われても、最後は怒りによってタタリ神となり、死に至る。
山の神々も、人間と共生する方法が考えられたかもしれないし、人間が森に入ってきたのは、自分たち神々のやり方に原因があったのではないか、自分たち神々も何か変わる必要があるのではないか。
そのような思考を持っていれば、山の神々が死に絶えることはなかったかもしれない。
タタリ神は、憎しみと怒りで我を忘れ、言葉も失った愚かな姿の象徴といえる。怒りで我を忘れるのはタタリ神になるようなことであり、そしてそれは、やはり愚かなことといえる。
そのため、多くの人はそのような愚かな姿になることを望んでいないし、サンの台詞でいえば、
「タタリ神になんかなりたくない!」
だと思う。
しかし、怒りはいつ何時でも起こり得るもので、油断していたら、誰もがタタリ神になる危険はある。
そのため、タタリ神にならないためには、自分にとって効果的な怒りのコントロール手法を身につけ、それを実践することであると思う。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?