近頃の若者は優秀だ
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』(2015年)では、父と息子の姿を通して、今という時代を生きる世代間のギャップが描かれている。
レストランを解雇された一流シェフの父が、別れた妻の元で暮らす10歳の息子と一緒にフードトラックで旅に出る。その道中、父が作るキューバ・サンドは、息子がSNSで発信する情報をもとに、瞬く間に評判となっていく。
近頃の若者は優秀だ
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』の父親は、料理の腕前は一流である。しかし、ネット・リテラシーは低い。息子は、料理については素人だが、SNSを知り尽くしている。
そのSNSを駆使して、息子は父が作る料理をプロモーションし、瞬く間に評判を得ていくのである。
この場合、息子は、現在の社会で流行を作る術を心得ており、つまり、現在の社会において優秀である。対して父は、ネット・リテラシーの低さ故、レストランを解雇されており、現在の社会において優秀とはいえない。
いつの時代も、「近頃の若者はけしからん」はよく言われがちな言説ではある。しかし『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』の息子のように、近頃の若者は「けしからん」なんてことはない。近頃の若者は、優秀である。
若者は、現在の社会に対しての適応力が高い。
しかし、現在の社会への適応力が高い反面、失われていくものもある。例えば、読解力である。若者の「読解力が低い」は、特に近年、問題視されることである。
現在の社会への適応力が高く優秀な若者が読解力が低いとは、随分とチグハグである。
そのため、「若者は読解力が低い」は本当なのか?という疑問がわくし、また、ただやみくもに「近頃の若者は読解力が低い。問題だ」と言うのは、建設的ではない。
ドストエフスキーの長編を片手に「こんな文章も読めないのか」と言ったところで、若者にスマホ片手に「インスタに写真をアップすることもできないのか」と言われるだけである。
若者の読解力低下
以前、若者の読解力低下と2022年度からの高校教科書における文学軽視について、以下の記事で触れた。
上記の記事でも書いたが、高校の国語教科書で小説や詩といった文学が軽視されることに対して、批判的な声がある。それら批判の言わんとすることも理解はするが、賛同という気持ちにはならない。
読解力は低下しているのか?
確かに若者の読解力低下は、PISA試験結果からも見てとれる。読解力低下という試験結果に対し、文科省(国立教育政策研究所)は、分析と施策をまとめている。
色々書いてあるが、要するに、文章から情報を探し出す、文章の意味を理解する、文章を評価・熟考する能力が低下しており、そのため、これらを強化する施策が必要ということになる。また、ここでいう文章とは、実用的文章を意味する。
施策案も色々書かれているが、高校教科書改訂につながると感じるのは、以下の部分である。
文章の内容を理解する力をつけること、そして、自分の考えを表現すること。理解するべき文章というのは実用的文章ということである。
このような背景をもとに、文部科学省は教科書変更に踏み切ったと考えられるし、その変更が数年後実を結ぶか否かは別として、データと実績重視の官僚らしい妥当な判断と思う。
なぜ読解力は低下しているのか?
国立教育政策研究所のレポートには、そもそもなぜ読解力が低下しているのか?については、直接書かれていない。ただ、読解力と読書量の関係については考察されており、全体的に読書量は低下しているが、普段から文章(フィクション、ノンフィクション、新聞)をよく読む生徒は読解力が高い、ということらしい。
つまり、読解力低下の要因として、読書量の低下は関係しているということが推察できることになる。
読売新聞や毎日新聞、全国大学生協の読書量調査でも、若者の読書量は確かに低下しているし、全国大学生協の調査では、大学生の読書量において、近年はほぼ5割が月に0分、つまり全く読書をしていない、ということになっている。
なぜ読書力は減っているのか?
そうすると今度は、なぜ読書量が減っているのか?ということになる。
若者を取り巻く環境で、文章自体が減っているわけではない。むしろ、昔に比べて文章は増えている。しかも、爆発的に増えているはずである。なぜなら、インターネットによる情報爆発があり、その爆発した情報の伝達は文字が多くを占めているからだ。画像や動画もあるが、メインは文章である。
つまり、若者が文章に触れる機会は爆発的に増えている。しかし、文章を読むことは減っている。それはなぜなのか。
前述の国立教育政策研究所レポートの中で、日本の生徒は、
ということらしい。
インターネットによる情報爆発によって、文字が大量に溢れる環境は日本に限った話ではない。しかし、他国と比べて相対的に日本の読解力が低いとなると、読解力低下の主要因は、著しいとされるこれだろう、ということになる(国立教育政策研究所レポートを読む限りでは)。
日本の若者は、多くの時間を、インターネットを通じて文章を読む以外に使っている。それが、読解力低下につながっている。
そうすると、読解力を上げるためには、インターネットやデジタル機器によるゲーム等を禁止すればいいかというと、それは非現実的だろう。国が子どもの行動の自由を奪う判断をすれば、人権問題にも発展しかねない。
デジタル機器やインターネットで、文章を読む以外の時間が増しているのは、時代の変化による環境の変化であり、その変化に対して、正面から対抗するのは無理がある。
読解力低下は問題なのか?
また、そもそもに立ち戻れば、読解力の低下は問題なのか?ということなる。
動画や画像がメインのyoutubeやInstagramが広く普及し、Z世代からすれば、facebookは、おじさんおばさんが使うSNSである。youtubeやInstagramだけを見れば、読解力が低くても使いこなせる。
しかし、子どもが社会に出た後、ビジネスで用いられている情報の伝達は、少なくとも現在は、文章がメインである。メールにしても契約書にしても取扱説明書にしても文章である。であれば、やはり読解力は必要だ。しかも、ビジネスで用いる実用性のある文章の読解力が。
読書量と読解力低下から見えてくるもの
PISA試験を起点に、若者の読解力低下をみていくと、
実用的文章に対する読解力低下が起きている
読解力低下は読書量低下が招いている可能性がある
読書量低下を抜本的に妨ぐことはできない
しかし、読解力は社会で必要である
そのため、実用的文章の読解力を高める教育が必要
となる。文科省の判断は妥当と書いたのはこのためだ。
実用性重視への傾斜
高校の国語教科書変更について、文科省の判断は妥当と思う。しかし、高校国語教科書変更への批判に対してと同様、全面的に賛同とも思わない。
2022年度からの高校国語教科書変更で感じるのは、実用性重視社会への傾斜である。そこに、疑問と懸念を感じる。
実用性とは何か?
実用性とは、実際に使えること、という意味だろう。社会で実際に使える技術と知識の訓練を重視することが、実用性重視の教育ということになる。
実際に使うその社会というのは、現在の社会である。もしくは、数年先を見据えた社会である。10年前の社会でも50年前でもない。現在の社会で困らない知識・技術が訓練されるのだから、やはり若者は優秀である。むしろ、優秀でなければいけない。
しかし、実用性=社会で困らない知識・技術ばかりに比重を傾けていくと、何かを置き去りにしていく気がする。
それは、経験である。それも、非実用的な経験である。
社会で困らない知識・技術=実用性を重視するということは、原因と結果の間にある「過程」が省略されるということでもある。この「過程」がすなわち非実用的な経験といえるだろう。
歴史を振り返ると、無駄で効率が悪く非実用的な「過程」は、偉大な功績を残してきた。文化もアートも芸術も、また、先駆的発見や偉大な発明も、失敗や忍耐、苦労といった非実用的な作業のもとに生み出されてきた。
非実用的な「過程」は、生み出す力につながってきたといえる。
これら非実用的な「過程」は、非実用的とされる創作物の中で知ることができる。例えば、小説の中で苦労する主人公の姿を知る。映画の中で、失望する主人公の表情を知ることもできる。このように、非実用的な創作物によって、非実用性の価値を知り、そこから感動や熟考といった生み出す力につながる経験を得ることが出来るといえるのではないだろうか。
実用性と非実用性のバランス
上述したように、実用性重視の必要性は理解する。グローバル化社会で生き抜くために必要なことだろう。
膨大な情報の中から、必要な情報を実用性高く取捨選択し、実用性の高い知識と技術でその情報を使いこなす。このような取捨選択力と使いこなす力は、極めて重要な力だ。特に、情報爆発後の現代社会では。
しかし、それは、生み出す力とは異なる。
生み出す力を失わないためにも、より強化するためにも、実用性を重視するのだから尚更、非実用性の価値を知る機会が、"これまで以上に"必要になるのではないか。
教育業界と無縁のため、制度変更の実際の難しさや実現可能性はわからない。しかし、無関係であることをいいことに、勝手にいってしまえば、文学に触れる時間は、授業でなくていい。文学を載せる文学国語の教科書もいらない。部活でよいと感じる。
実用的か否かでいえば、ごく一部を除いて大半の生徒が無駄な努力をしているのが部活動で、現在の学校における非実用的な制度といえる。教科書変更ととに、文化部所属の生徒に限らず、文学や文化に触れる制度を、年に一回の芸術観賞などに限らず、設けられないのだろうか。
現代社会を生きるための実用的教育と、生み出す力のための非実用的な経験の両立。もしくは両立への模索。
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』の父親は、旅の道中、料理を教えるとともに、息子にビールを飲ませたり、キンタマにコーンスターチを振りかけたり、下ネタ満載の歌を歌ったり、ちょっとした悪さを教える。それらは、実用性とは程遠い。しかし、そのような非実用的な経験で、10歳の少年はかけがいのない父との経験を手にしていく。
そして旅の最後、父は息子へ語り掛ける。
「”苦労して”料理が上手になった。それが重要だ」
実用性重視社会だからこそ、非実用性の価値と必要性が増す。『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』からも、感じることである。
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