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「待たない社会」の先に何があるのか?

タナダユキ監督作『百万円と苦虫女』(2008年)で、蒼井優演じる主人公・鈴子は、携帯電話を持っていない。舞台となるのは、現代日本である。携帯電話が普及する以前の日本ではない。そのため、携帯電話を持たない鈴子は特殊な人物として描かれる。

その携帯電話を持たない鈴子は、ひょんなことから前科持ちとなり、出所後、各地を転々とする。行く先々でアルバイトをし、100万円を貯めたらその土地を離れる。それぞれの土地で出会いと別れがあり、それが繰り返される。

最後、東京近郊のアパートに移り住んだ鈴子は、アルバイト先で同僚の男と恋をし、交際する。しかし、意見の食い違いによって、二人は別れることになる。鈴子はまた、その地を離れ、別のどこかに旅立って行こうとする。

しかしここで、携帯電話がないことにより、すれ違いが起きる。

同僚男は、去っていく鈴子を引き留めようと追いかけるが、鈴子はそれに気がつかない。鈴子は、追いかけられていることを知ることなく、新たな場所へ旅立っていく。

携帯電話があれば、起きなかったすれ違いである。「今行くから待ってほしい」と伝えれば済むことである。タナダユキ監督は、このシーンを描きたいがために、鈴子に「携帯電話を持たない」というキャラクター設定をしたと感じられる。

現代は「待たない社会」

現在、日本人のほとんどが携帯電話を持っている。携帯電話による情報伝達で、時と場所という制約がなくなった。便利になった。しかし、携帯電話によって失われたものもある。「待つ」ということである。つまり、現代社会は「待たない社会」といえる。

「待つ」ことは、期待や不安、怒りや希望が入り混ざった行為で、そのため、映画やドラマ、小説においても、登場人物たちの感情変化を表現する方法として描かれてきた。

例えば、「月曜夜、街から女性が消えた」という伝説を作った月9ドラマ『東京ラブストーリー』は、待ってばかりいるドラマである。

前半のエピソードで、赤名リカ(鈴木保奈美)はカンチ(織田裕二)と待ち合わせをする。しかし、約束の時間になってもカンチは現れない。ようやく表れたカンチの胸に顔をうずめ、「電池切れちゃったみたい…」と名台詞をつぶやく。

後半のエピソードでも、同じようにカンチと待ち合わせる赤名リカが描かれるが、この時もやはり、カンチは現れない。カンチは、さとみ(有森也実)と過ごすことを選択し、赤名リカとの待ち合わせを反故にするのである。それでも赤名リカは待ち続ける。その待ち続ける姿に切なさ、悲しみが描かれる。

今だったら電話やLINE等のメッセージアプリを通して「ちょっと遅れる」とか「今日行けなくなった」と伝えれば済む話である。

『百万円と苦虫女』においては、このような感情変化と、それによって起こるドラマを描くため、「携帯電話を持たない主人公」を設定する必要があったと考えられる。

携帯電話とインターネットがもたらしたもの

携帯電話は、情報を高速に伝達する役目を担っている。

携帯電話の登場と普及は、その以前と以後において、伝達される情報のスピードが格段に違う。

現代人は、高速に伝達される情報を、高速に処理していく必要がある。だから、現代人は忙しい。待ってなどいられないのである。待っていたら置いて行かれる。やはり「待たない社会」である。むしろ「待てない社会」といった方が正確かもしれない。

であれば、昔の人は暇だったのかというとそうではない。

以前、若い女性社員が「30歳になる前には結婚して、専業主婦になりたい」と言っていた。その理由を聞くと「だって専業主婦って、現代の貴族じゃないですか」ということだった。

ご飯を炊くのも洗濯もスイッチひとつ。掃除もルンバに任せておけばいい。料理も冷凍食品でそれなりな物は揃う。昔の専業主義と今の専業主婦では、家事にかける労力が今とは異なる。

女性社員が言いたかったのはこういうことで、昔は、家事のひとつひとつにかける労力が多大であり、それはまた、情報に対しても同様である。ひとつの情報を処理して伝達することに費やす労力が、やはり今とは異なるのである。そのため、現代人よりむしろ昔の人の方が忙しかったともいえる。

昔の人も忙しいし、現代の人も忙しい。しかし、昔の人と現代の人の大きな違いは、扱う情報の量である。

2000年前後、インターネットによって起きた情報爆発によって、その以前と以後では、伝達される情報量に各段の差がある。

インターネットと携帯電話の登場と普及によって、昔の人は、少ない情報量を処理するために忙しかった。現代人は、大量の情報を高速に処理するために忙しい。

「待たない社会」が失ったもの

このような大量の情報を高速に処理する社会は、昔に比べ、格段に便利だし、豊かになったと言える。

昔の人は、不便だからこそ、一つの情報を処理するために、どうにか便利にできないかと考える。熟考する。考察する。そして便利にする何かを生み出してきた。

大量の情報を高速に処理しなければいけない現代社会では、一つの情報に対して熟考や考察をしている時間はない。研ぎ澄まされていくのは、大量の情報の中から適切な情報を取捨選択するテクニックである。

「待たない社会」によって失われたのは不便さである。そして、不便さから何かを生み出す力もまた、失われつつあると言えるのではないだろうか。今、必要とされるのは「生み出す力」でなく「取捨選択する力」だからだ。

「待たない社会」の先にあるもの

文部科学省が発表した2022年度からの学習要綱によって、高校国語の教育が変わる。

これは、巷で言われているように、高校の国語教科書から小説がなくなるわけではない。改定後の高校国語は、「論理国語」と「文学国語」があり、小説や詩は「文学国語」で扱われる。「論理国語」は、実用的な文章、契約書や取扱説明書の読解方法を学ぶ授業となる。

しかし、各高校では、授業カリキュラム上、「論理国語」か「文学国語」を選択する必要があり、多くの高校では、大学入試共通テストを見据えて、「論理国語」のみを選択したカリキュラムが組まれる。つまり、小説・詩を扱う「文学国語」は、高校教育において軽視されることになる。

この学習要綱変更の背景には、日本の子どもたちの読解力低下がある。

OECD(経済協力開発機構)加盟国の学習到達度調査(PISA)では、小学6年生と中学2年生を対象に、各国の「科学的リテラシー」「数学的リテラシー」「読解リテラシー」が調査されるが、日本は「読解リテラシー」が著しく低い。

このような背景を受けて、文部科学省が学習要綱変更に踏み切ったと考えられるが、これは、今そこにある問題に対して、最短距離での問題解決方法であり、実用性が求められる官僚が導き出しそうな、実用的な答えである。

この教科書変更について、ゆとり教育の時のように批判の声が多く上がっている。人間の心がわからなくなる、人間としての成長を妨げる、などである。小学校、中学校の義務教育で文学を学ぶことが無くなったわけでないし、高校生ともなれば、人間の心や人間としての成長の基礎は出来上がっており、さらに自発的に文学に触れ、学ぶこともできる。だから、これら批判について、諸手をあげて賛同という印象は受けない。

むしろ感じるのは、文学といった文化、芸術より、実用性ばかりに偏重しようとしている社会そのものへの危惧である。高校国語教科書の変更は、実用性重視という現代の象徴的出来事と感じる。

川端康成『雪国』の駒子は、徒労の人である。主人公の島村から幾度となく徒労だと指摘される。無駄な努力。効果のない労力。しかし、それら駒子の徒労が、島村に純粋無垢な感動を与える。

実用的で、待たない現代社会において、徒労というのは、最も嫌われる言葉の一つであろう。

インターネットと携帯電話によって生み出された「待たない社会」が向かうのは、「実用的な社会」である。それはそれで合理的であるし、大量の情報が高速で駆け巡っていく社会では、必要な選択とも受け取れる。

しかし、実用的な情報を取捨選択する力ばかりに比重をかけていく社会で、本当によいのだろうか。文化や芸術より、実用性ばかりを重視する社会の先に何があるのか。

徒労という実用的でない努力に、感動が生まれることもあるのだ。

実用的で待たない社会。その先に、希望に満ちた社会だけを思い描くことは難しい。何かどんよりとした懸念や不安を感じてしまうのである。

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