燃え尽き症候群

泣けるなら、なんでもよかった。

泣くことすらも、忘れてしまうほどに、感情が麻痺している。

完全に思考停止している。脳死状態と変わらない。

確実に何かを失っている。大事な何かを失っている。

なんでこんなに苦しいのに、死にたいとさえも思うのに、挑戦している実感も湧かず、

虚しく麻痺してしまった「悲しみ」という感情を、必死で蘇生させているのだろうか?

私は強い人間なんだと、そう思い込みたかったのだろうか?

なんでこんなに苦しいんだろうか?なぜ苦しいのに、涙さえも枯れ果てているのか?

一体、何が苦しいのかさえもよく分からない。

真っ当に、一生懸命に、必死で、純粋な想いで、何かに向かって頑張っているはずなのに、

全くもって、何かを価値提供しているという実感が湧かない。

私は一体、何を与えているのだろうか?

無限に湧き出る異常な承認欲求なのか、渇望感なのか、その正体はまるで分からない。

一体、何に突き動かされているのか?自分でもよく分からない。

でも、人生一度きりだから、何かを死ぬ気で頑張ってみたいんだ。

真っ当に泥臭く努力した先の景色をみてみたいんだ。

本質は、愛だから。その表現手段は、もうなんでもいい。

だって、この世界の本質が「愛と感謝」だから。

この命の時間を何に使うのか?誰のために貢献するのか?誰を救いたいのか?

誰を喜ばせたいのか?誰を幸せにしたいのか?

なんのためにこの命を燃やすのか?

それは、目の前の人を、社会を、世の中を、心から笑える愛の世界にしたいから

心から感じられる豊かさを、お金で買えない幸せの価値を、共に分かち合いたいから

そんな社会にするためなら、私はこの命の時間を、労力を、喜んで神に捧げることだろう。

悔しいことに、泣くほど限界の自分まで、まだ追い込めていない。

本気で悔しいとか、命かけて仕事しているとか、そんな感覚が得られない。

命を無駄にしている気しかしない。命を粗末に扱っちゃいけない。

こんなにも浅はかなことのために、私はこの命の時間を使いたいわけじゃない。

本質は、自分を愛して、他人(社会)を愛することに究極の生き甲斐と喜びがある。


明日、私の命が尽きるかもしれないと思えるほどに挑戦できたら、本当の意味で、

私は、生きているんだという実感が得られるのではないだろうか。


本当は、泥臭いことに、人間らしさがあるし、本当のかっこよさは、泥臭さの中にあるのではないだろうか。

表面的なことには興味がない。自分が生きたという証を刻める何かが欲しいだけなのだ。


それは、承認欲求かもしれない、自己顕示欲求かもしれない、エゴかもしれない。


でも、自分という存在のおかげで、誰かが感謝してくれたなら、

そこに私の存在意義があり、それこそ人類最大の幸福なのではないだろうか。


命かけて事業やってる人、命かけて仕事してる人

これほど尊敬できて、かっこいいものないよねって思う。

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