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一人のオーボエ奏者の旅立ち

25歳の秋、私と小谷麻理子は留学先のドイツの音楽大学で知り合った。

私は鍵盤楽器ピアノ科で、彼女は木管楽器オーボエ科。
私たちの教室は階が違っていたし、履修科目も違っていたので、普段、話す機会は全くなかった。
お互いの存在を【目から脳に移行させた】いうレベルの認識度。

ところがある日、私が音大の長い廊下を歩いていくと、麻理子が壁に背中をつけて、地面に直に座っているところに出くわした。

「いやいや、いくらドイツの管楽器科でも、そこは日本女子、お行儀悪過ぎでしょう〜?」と思った次の瞬間、彼女の様子がただごとではないことがわかった。

麻理子は、まるでそこにちょんっと置かれたお人形のように、存在感なく地面に座っていたのだ。

重みも力も感じられない、動くことも出来ないお人形のように。

その様子を見た私は「あ、この人、なんか危機に陥ってる!救わないと!」と咄嗟に思い、「どうした、そんなところに座って、、。何かあった?」と声をかけずにはいられなかった。

「え?あ、うん、、。」と言いながら、私を見上げた彼女。

話したことのない私に声をかけられたのに、1ミリも戸惑うことなく、、、。

ただ私を見て、そう返答した。

それが、私たちの初めての会話だった。

「こんにちは」も「初めまして」もなく突然、こんな風に私たちの付き合いは始まった。

そして私たちは、その時から卒業まで毎日会って毎日話しをした。

卒業後、彼女は日本に帰国し、オーケストラに入団。
私はドイツに残り、音楽大学や音楽学校の先生になった。

日本とドイツに離れても、私たちは相変わらず電話やメールで毎日のように会話を続けたけれど、話すことは「私たちの共通の話題」から「それぞれの話題」に変わっていった。

それでも毎年毎年、「それぞれ」に「それぞれの出来事」が目まぐるしく起こって、遠距離でも私たちの会話は面白おかしく、話題は尽きることがなかった。

そんな風に、私たちの年月は日本とドイツで、平凡につつがなく過ぎていった。

そしてこれからも、私たちの日常は、こうしてずっと過ぎていくはずだった。

が、3年前、彼女に肺がんが見つかった。
見つかった時には既に第4ステージで、もう手術は出来なかった。

彼女は治療をしながらオーケストラを続けることを選択した。
「オーボエを吹くことが、自分の人生」という、彼女の無言の強い意思が、そこにはあった。

そしてこの3年間、彼女は何種類もの治療を試し、一喜一憂しながら病気と闘った。

今年の年初め、日本に帰国していた私は、10年ぶりに彼女の故郷、京都を訪ねた。

1月の京都は私の記憶の中と同じ冷たさだったけれど、彼女の部屋の温度は春のような暖かさに設定されていた。

彼女は、脳転移が進むにつれ認知症のような症状が現れ、大人から少女のようになっていったという。

「麻理子〜久しぶり〜!いや〜、な〜んか新年だしさ、京都まで来ちゃったよ〜。」

ドアの向こうにいる彼女への笑顔を作ってから、懐かしい彼女の部屋の扉を開け、入っていった。

「あ、ひろえちゃんや!ひろえちゃんや!」
私を迎えてくれたのは、25歳に戻った麻理子だった。

「ひろえちゃん、今日、ここに泊まってくやろ?泊まっていき!」
「そこにコーラあるで。アイス、食べるか?ハーゲンダッツのええヤツやで?」

私が突然来た理由を訝しがるわけでもなく、素直に大喜びしてはしゃいでいた。

本当に終末期なの?と信じられないくらい、よく喋り、動作も速かった。

私たちは、彼女のベッドにぴったり並んで座った。
すると、彼女の身体がひとまわりどころか、半分ほどの細さになってしまったのがよくわかった。

でも陽気さも無邪気さも、私が35年前から知っている彼女のままだった。

「そのペンダント、ええなぁ。綺麗やなぁ。可愛いなあ。」

私が御守り代わりにつけている銀色のペンダントを見た彼女が、何かに憧れる少女のようにふんわりと言った。

「そう?麻理子も欲しい?じゃあ、あげようか?」と私。
「え?くれるの?ありがとう!嬉しいわぁ。」と、麻理子。

そして「じゃあ、この名札あげるわ!可愛いやろ?さくらんぼちゃんやで。コレと交換しよ!」
と、水色の大きなさくらんぼ型のネームプレートを見せてくれた。

そのネームプレートには、もう【大阪交響楽団 小谷麻理子】とマジックで書かれていて、既に自分の名前が書かれたネームプレートを「あげるわ!」と言うのが、なんとも【いつも通りの麻理子】だった。

「さくらんぼちゃん、いいねぇ〜!じゃ、交換しよ!」

こんな風に今までも何度も、私と彼女の間をいろいろなものが行き来したなぁ、、と、私はしみじみ思いながらペンダントを外した。

私のセーターの上で光っていた御守りのペンダントは、彼女のフランネルのパジャマを飾った。

あの日から、3ヵ月が経とうとしている。

今日のお昼前、彼女は眠るように旅立ったと、知らせがあった。

昨日、危篤の知らせが来て以来、私は彼女に「麻理子、本当に楽しい青春時代だったねぇ、どうもありがとうねぇ、、。」と言い続けていた。

今日、安らかに旅立ったと聞いた時、これで私たちの愛おしい青春時代には「続く」がなくなったんだなと思った。
私たちのストーリーは、「完」になってしまった。

見終わった後に感謝の気持ちだけが残る、いい映画のエンディングロールを眺めている私が、そこにはいた。
エンディングロールの文字は、滲んで読めなかった。

これから少しの間、我々は音信不通になるんだなぁと思った。

私は「麻理子ったら、最近失礼にも程がある!メッセージも電話も全然よこさないなんて!あいつ、一体どこで何やってんだ?」って文句を言いながら、また彼女に会える日まで過ごすことにしようと思う。


葬儀セレモニーのお知らせ
場所: 公益社北ブライトホール   日時: 通夜3月31日18時〜 、: 告別式4月1日 14時〜 
※生前の小谷麻理子の希望により、ご香典、献花はご辞退させて頂いています。

サポートがとても励みになります。頂いたサポートは大事に使わせて頂いています。