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”外国人”への接し方について考えること


ちょっとした海外生活や国際交流を経験した私が、日本人目線で考えたことを書いてみます。繊細な内容で感覚は一人ひとり違うと思いますので、必ずしも正解だとは捉えず、一意見として読んでくださると嬉しいです。



先日、一人で銀座の大戸屋に行った。店員さんは名札にカタカナのお名前が書かれたアジア圏出身と思われる方が多く、私の隣にはコテコテのアメリカ英語を話す4人家族が座った。注文に迷うそのファミリーに対して、カタカナ名のアジアン店員さんは日本語で話しかける。この光景を見てふと、これが日本でグローバル化が一層進んでいくにあたってあるべき姿なのではないかな、と思った。

日本では払拭しにくい先入観

かつて、私はこんな経験をしたことがあった。
都内のカフェでホールスタッフとしてアルバイトをしているとき、欧米系の顔立ちをされたお客様がお店にいらっしゃったので、留学帰りだった私は張り切って"Do you need an English menu?"と聞いた。すると、返ってきた答えは「あ、大丈夫です」。私はとても恥ずかしくなった。気を利かせて聞いたつもりが、かえって失礼になってしまったのではないか。見た目で決めつけるものではないと留学中にも身をもって学んできたはずなのに…と、当時とても反省したものだった。

それ以降、日本に来ている外国ルーツを持つ人にとって、本当の思いやりとは何か考えるようになった。しばしば、顔立ちなどの見た目から「外国人」だと判断されやすい方でも、実際は日本に長く暮らしていたり、あるいは日本で生まれ育っていたり、ということがある。そのような方にとって、接客のたびに英語で話しかけられるのを想像してみると、「日本にいて周囲と同様の生活をしているだけなのに、いつも外国人だと思われて特別扱いをされる」ということになる。必ずしもポジティブに受け取ってもらえるとは限らず、外見の違いだけで判断されることにもどかしさを覚えている方もいるのではないか。これが、前述した私の経験談で反省した理由であった。
もちろん、逆のケースだってある。見た目が日系の方であっても、実は海外で生まれ育ち、日本語が得意ではない、という場合だ。
今の時代、これらは全く珍しいことではないと頭ではよく理解しているはずなのに、実際にこのような場面に出くわすと、いかに自分の先入観が取り除き切れていないか、ということを痛感する。

移民国家オーストラリアでの経験

私が留学に行っていたのは、多文化主義を掲げて移民を積極的に受け入れてきたオーストラリア・メルボルン。そこで私が肌で感じたのは、私のようなひよっこ留学生に対しても、一市民としてフェアに接してくれたということだった。たとえば、先ほどの私の接客エピソードと逆のシチュエーション、私がカフェに入ったとき、店員さんは「外国人」である私に対して特に話し方を変えることはなく、それどころか、「私、今日誕生日なんだ!」とフランクに話しかけてくれたこともあった。また別の日は、(私はとてもおっちょこちょいなので)雨で足を滑らせ横断歩道の真ん中で転んだのだが、隣を歩いていた何人もが”Are you okay!?”と、たくさん声をかけてくれた。東京なら声を掛けることさえ躊躇してしまうことがある。さらに、通っていた語学学校やその系列の大学には多くの外国出身者がいたので、お互いが海外のルーツを持っていることを当たり前のように理解し合っており、私は自分がよそ者であるというアウェー感をほとんど感じずに生活することができた。

そんな移民国家の大先輩オーストラリアに学び、日本の国際化について改めて考えてみる。先ほどの大戸屋での状況では、日本語がツールとして確かに機能していた。出身を問わず様々なバックグラウンドを持つ人が、日本で交流するから、日本語を使う。これは、オーストラリアの移民国家としてのあり方と同じことが日本で体現されていたのではないか。「欧米系の外見をしている方には英語を使おう」と思ってしまうのは、その方のためを思っているうようで実はまだまだなのかもしれない。そもそも、英語が流暢に話せるとも限らない。だから私は、今度国内で外国の方に話しかける機会があれば、まずは日本語で話してみて、その反応を見て次の対応を考えようと思っている。

実際に、日本にいる外国出身の方の感じ方は?

前述した私の考えについて、そのオーストラリアにいたときに現地で知り合った友人に話してみた。すると、結論「それが正しいとも限らない」、つまり、「外国人への接し方に正解はない」ということを言っていた。というのも、彼自身は半年ほど前から仕事のために来日して日本で生活しているのだが、外見の違いに気付いた店員さんが「外国人」として親切に接してくれるような日本人の姿勢を快く感じているとのこと。出身を聞いたり、日本のことを話したりするのは「外国人扱い」といえばそういうことになるが、それがきっかけで会話が弾むことも多いので、素直に嬉しいようだった。前述した私の意見は行きすぎていたのかもしれない。ただ、仮に10年以上日本に住んでいる外国出身の方にも同様の「外国人扱い」をすると、鬱陶しく思われるかもしれないね、ということは彼も言っていた。つまり、話してみないとその人の感じ方やルーツは分からない。それが、正解はないうこと。外国出身の彼がそう言うくらいだから、単純ではないことは間違いない。

私が取り入れたい”外国的”な振る舞い

そこで彼がもう一つ言っていたのは、その「外国人」にだからこそできるスモールトークやあたたかな接客を、日本人同士にも取り入れればいいじゃない、ということ。私はつくづく、日本の接客は丁寧だけどマニュアル的であることが多いな、と思う。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を繰り返して、それ以上の会話は交わさない。(もちろん、お店によって異なるけれども、一般的なチェーンの飲食店などではこのような接客がほとんどだと思う。)それが悪いということでは決してないが、これが日常で当たり前になってしまうと、「自分の知っている人」と「他人」との間に明確な境界線が引かれてしまうようで、少し温かみにかけるというか、新たなコミュニケーションのチャンスも減ってしまうような気がする。そういう面で、メルボルンのカフェのようにお客さんとも距離を感じさせないフレンドリーな接し方はとても魅力的だなと思うのだ。この意見を受けて彼は、「それなら、日本の習慣を変えると変だから必要以上に踏み入った会話をしないというのではなく、習慣にないことでもいいと思ったことは取り入れればいいと思う」と話していた。人との距離をより近く感じさせる、ある種”外国的な”振る舞いは、私はまだ持ち合わせていないため見習いたいなと思う点である。人との関わりの中で取り入れて、他人と壁を作らないちょっとしたコミュニケーションを大事にできるようになりたいなと思う。

結局は、歩み寄ろうとする心

話を本筋に戻すと、これから来日外国人が再び増えてくるといわれている中で、彼らに対してどのように接すれば良いかということに正しい答えはない。ただ、一人ひとり異なった事情があることを理解しようとする姿勢を忘れず、その人を受け入れようとするためのコミュニケーションを試み、お互いに一歩ずつ歩み寄ることが大事なのだと思う。移民や訪日外国人に対して不慣れなことも多い日本。ずっと日本の「当たり前」に囲まれていては気付かないことにも目を向け、想像してみる心を大切にしたいと思う。




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