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人類は、最後の一人になってもなお、分かり合うことはできない -肉体廃止と存在の自己決定権-

人類は、最後の一人になってもなお、分かり合うことはできない。
自分のことを考えてみても、昨日の行動すらその意義をわからないことがある。
明日の自分が何をするかもわからない。
今現在、私が何を考えているのか、思索を巡らせたところで、その真意を知ることもできない。
そう、我々は、自分が何者であるかさえわからない。
だが、我々が、ここに存在して、生きていることは、我々が自分自身の肉体から、遠い宇宙まで世界を観測し、認識している以上は少なくとも事実である。
そして、今この瞬間の我々以外にも、我々と同様に思考する他者がいる。
過去の自分であれ、未来の自分であれ、他人であれ、思考を分かち合えない他者がいる。
全く知らない他者が目の前に現れた瞬間、我々は他者を認識し、存在を認めている。
だから、人類は、分かり合うことはできないが、存在を認め合うことはできる。
そして、我々は今現在も常に変化を繰り返している。
我々は、飲まなくても、食べなくても、呼吸という形ですら、古い粒子を、新しい粒子で置き換えている。
我々の肉体ですら、この宇宙の循環の一部である。
他者である。
しかし、いかなる現象も、思考する全人類の器を全て破壊しなければ、我々の存在と思考は止めることはできない。
つまり、仮に自分が自分であるとするならば、それは自分の思考と存在である。
我々が思考の上に成り立たせた概念と存在は我々のものである。
そして、我の思考が生み出す存在は、間違いなく我だけのものである。
我が、宇宙の循環から抜け出し、その影響から独立して、未来の目標として設定した我の存在こそが、本当の我である。
そして、新しい経験を吸収して思考は豊かになり、これを反映して我の存在は常に進化し続ける。
我々の思考と存在を構成する新しい経験には他者が必要不可欠である。
そして、その他者との経験は可能な限り豊かである必要がある。
我の意思で介入不可能な他者である肉体を存在としていては、自他ともに真の存在を認識することはできない。
これは、身体・歴史・文化・経済的な特徴に対する思考停止の価値の押し付けによる数々の差別・偏見・紛争の歴史が証明している。
しかし、これらが、「であるもの」ではなく、いかなる人類も同様の労力で「なれる」ものだとしたら。
いかなる事由を以てしても全て個人が平等であることを認めざるを得ないだろう。
認識・被認識の関係において、我々は常に理想の自分で他者と対峙する権利を有する。
我の思考に従って、存在を常に理想に保ち続ける自由を我々は保持している。
そして、他者も我と同じくそうである。
我々は、我々の思考と存在を完全に我々のものとして、いかなる他者からも独立することになる。
これは、人類が自他を認識した瞬間から始まった歴史の必然である。
私、蘭茶みすみは、ここに、我の独立を宣言する。
そして、全人類の我の独立を尊重する。
全人類は存在の自己決定権を有している。
そして、独立のために可能な限りの努力を尽くす。
我は我だけのものだ。

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