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文春記事を反面教師にして倫理的想像力を考える

文春砲というものが個人を社会から排他的に機能しているのを見るとこれが正義なのかというと些か疑問が残るものであります。
いかにして、内容が事実であろうとしても、それを囃し立てては個人をリンチする、そしてその音頭をとりながら大衆をその空気へと煽動していくその様は気持ち悪く『僕』の目に映るものです。

そういう意味では『僕』自身として興味があるのはこの記事の内容ではなく、このようにいかにしてイチ情報が大衆を操作されているように見えては空気が醸成されていく、この過程はとても興味深いものであります。
補足をしておきますが、性加害という事実がどうでもいいとい申しているわけではありません。

しかし、申し訳ないのですが興味はありません。
イチ個人つまりはこの個人が芸能人であっても『僕』の人生には少しも影響を与えないわけですから程よい他人事なのであります。
畢竟、事実事項に関しては興味はありませんが、この事実事項に付随してさまざな人の心理的、社会的な動向やその振る舞いについては大いに興味があるわけです。
趣味が悪いと言われて仕舞えばそれまでですが、このような機会がなければ当該における趣きに思考の端々を加えることは自分の人生の中にないかと思うのです。

さて、文春のこれらの事実を公表することの正義や否やというところです。
正義というものはとても不鮮明であり、我々が一般的に常用するイメージを持ってするのであれば文春という雑誌のペンが力を振るうことの意義は大いにあるのかもしれません。
しかし、最近ではサンデルが、またはリチャード・ローティーなど様々な知識人がその「正義」という言葉を輪郭づけようとしているのです。
この意味にまでは触れませんが(ここは『僕』の過去の記事に触れているものがありますので読んでいただければ幸いです)現在のメディアやインターネットで議論されているようなものに関してはこの正義とは離れているというのは想像に難くないかと思います。

良くも悪くも現在の民主主義が生贄制度というイニシエーションつまりは通過儀礼として行われているということに過ぎないのかなという印象があるのです。
大衆、いえ今の人間の多くは不幸な人間への好奇心で満たされており猜疑心、フラストレーションと弱さの克服へと奮起もできない閉じ込められ塞がれている姿が常態化しているのです。

昔はこれが弱さを共有し団結となったのですが、現在においてはこの弱さは隣人を助ける理由としてまなざされるものでも助け合うものでもなくなってしまっているのです。
ただ、あるのは恥ずかしい、そういう目で見られたくないという浅ましく隣の人間や様々な人間の目を気にしていきている姿なのです。

弱さを共有化し、共同体としてその克服へと歩き出せない以上生み出されるのが民主主義の歪んだ解釈における生贄制度であります。
成功しているような個人を生贄にして人々はその鬱憤を晴らしていくのです。
さも、汚れを祓うかのようなお祭りのように

はじめはこのような事実に関しても否定的だった人たちも、だんだん醸成されていく空気の中でその個人を排他する行為においての悦を感じるようになります。

これはSNSで声を上げもいいでしょう、動画を見てもいいでしょう、ネットニュースで賛同してもいいでしょう
インスタントなその感情は刺激されて誘導されたものであるとも気付かずに大衆はその想像力を失っていくのです。

これはとても面白い姿であると『僕』は思うのです。

では、これをどのように回避をするのかというとやはり他人事という距離感を持つこと
そして、「倫理的想像力」というものを意識して持ち合わせることに尽きるのではないでしょうか

「倫理的想像力」という概念は、道徳的な観点や倫理的な問題に対して、より深い理解と共感を持って接近する能力を指します。

この概念は、他者の立場や感情を想像し、彼らが直面する倫理的な課題を理解することを含みます。これは、単にルールや原則を適用するだけでなく、個々の状況や文脈に応じた柔軟な思考を必要とします。

倫理的想像力は、特に複雑な社会的、文化的、または個人的な状況において、より効果的な意思決定や問題解決を促進します。
他者の視点を理解し、共感することにより、倫理的な判断がより包括的で、多角的な視点を反映したものになります。

さて、『僕』が思うことはこの事実は瑣末なもので大した事はないと思うのです。
いえ、性加害がとおっしゃる方もいることは百も承知です。
しかし、他人事なのです。そして、事実かどうかはわからないのです。
そんなものに思考の余白を使うのは勿体無いかと思います。

それならば、これを題材にして我々はどのように個人の考えと大衆または煽動されている情報に考えを植え付けられているのかという境界を考えるべきですし、この倫理的想像力と向き合うべきではないかと思うのです
文春の記事を反面教師にして

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