イタリア語が話せなくて、新宿の公園を泣きながら歩いたことがある。
もう随分前のことになるけれど、
小さな子どもみたいに、新宿の公園を泣きながら歩いたことがある。
そのとき公園は小雨が上がったばかりで、まだ霧のような白い靄が漂っていて誰もいなかった。
その頃のわたしはイタリア語の仕事を始めて間もなくて、仕事の度、相手との会話に言葉が詰まったり、言葉がどこかへきえてしまうことが良くあった。
いくら準備しても、いくら前もって話すことを考えていても、数年ぶりに日常的に口に出すイタリア語は思うようにわたしに馴染んではくれなくて、まるで偶然町で会った子どもの頃の友人のように、どこかよそよそしかった。
あんなに毎日話していたのに、
あんなに大好きだった言葉なのに
その日のお客さまは、ローマから来たご夫婦で、穏やかににこにこと微笑む彼らを、わたしは空港で出迎えた。
わたしたちはいつものようにいくつかの用事をこなしたあと、ホテルにたどり着いた。あとはホテルでチケットを受け取り、チェックインして終わり。その予定だった。
ところがフロントに聞くと、肝心のチケットがホテルに届いていないという。
困った顔をしたフロント係からリストを受け取ると、たしかに無い。お客さまの名前も代理店の名前も
驚いてオフィスに連絡すると、イタリアの代理店に直ぐに確認を取ると言ってくれて、わたしたちはいくつか言葉を交わして電話を切った。
「とにかくチケットは絶対に届くから、お客さんをキミが安心させてあげるんだ」
電話を切る時、彼はそういった。
それからは大変だった。
不安そうな彼らに状況を説明し、持てる単語力全てを使って話し続けた。
assolutamente(ぜったいに)という単語をわたしに教えてくれたのは、シエナにいた時のシェアメイトのサラだった。
彼女はよくわたしにこう言った。
あなたは”ぜったいに” 喋れるようになる
あなたは”ぜったいに”大丈夫。
あなたはbrava(ブラーヴァ)よ!”ぜったいに”よ!
ところが、今のわたしはbravaでも、イタリア語が流暢なガイドでもない。ぜったいに違う。拙いイタリア語を重ねて、何とか説明し、「大丈夫よ」と伝え続けるしかなかった。
自分の情けなさと、目の前の夫婦の不憫さで、頭が真っ白になりそうになると、ご夫婦の奥さんがわたしの肩をポンポンと叩いた。
「大丈夫、ちゃんと伝わったわ
心配しないで、あなたのせいではないのだから、」
ホテルをあとにすると外は雨が降ったあとだった。
そのまま帰る気になれず、ふらふらと側の新宿公園に立ち寄った。雨が上がったばかりで霧ような白い靄がただった公園は、誰もいなかった。
情けなさがこみあげて、ぽろぽろと頬をつたって落ちていった。
どうして言葉が出てこないんだろう。
どうして上手く話せないんだろう。
どうしてあの人たちは、何もできないわたしにあんなにやさしい言葉を掛けてくれたんだろう。
わたしのイタリア語はどこへ行ってしまったんだろう。
何度も何度もそう思った。
そして、サラの教えてくれた言葉を繰り返した。
「Sei brava assolutamente (あなたはブラーヴァよ、ぜったいに。)」
それから随分たって
今日、わたしはいつものように、空港にお客さまを迎えに行った。会って挨拶して、細々とした用事を一つ一つこなし
旅程を一緒に見て、写真を見せながらまるで一緒に旅しているように話す。
ここの乗り換えが短いから、少し電車の時間をずらそう。荷物を乗せたいならこっちの電車で予約を取ろう。
新宿から渋谷まで?
歩いても行けるけど遠いよ、大丈夫?
質問と説明を繰り返す。
まるで歌のようなイタリア語が、わたしたちの間を流れていく。
新婚旅行で日本に来た若い彼らの、先週行ったばかりの結婚式の写真を見せてもらう。しあわせそうな2人に思わず声が漏れる。
「Siete ... molto belli (あなたたち、とても素敵ね)」
ホテルに行って荷物を受け取る
チケットが届いてない。オフィスに確認すると明日には届くという。
「チケットの到着が遅れてるみたい、まったく困ちゃう。でも大丈夫よ、ちゃんと届くから心配しないで」
わたしが微笑んでそう伝えると、彼らはにやっと笑った。「イタリアだといつもそんな感じよ」
「Sei brava !(セイ ブラーヴァ!)」
ハグをして別れるとき、彼らがそう言った。
あなたがガイドで本当に良かった。と、そう付け加えた。
外に出ると、雨が上がったところだった。
側には新宿公園があった。
そういえば、たしかあの時も同じホテルだった。
ずっと前に通った道を、その時とは違う気持ちで、久しぶり通った公園のなかを少しだけ立ち止まって
目を閉じて、そっと深呼吸した
そして、久しぶりに口にしてみた。
「Sei brava assolutamente (セイ ブラーヴァ アッソルタメンテ)」
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