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仕事のことなんかで泣いちゃだめだよ

職場に素敵な女性がいた。
当時私は20代中盤で、彼女はおそらく40代半ば。
隣の部署で旅行誌を担当してる、仕事のできる女性リーダーだった。
私が所属していた部署と違って彼女の部署は「旅行誌」を扱っているという性質上、常に九州各地を飛び回っており、職場で顔を合わせることは少なかった。

とはいえ、私が朝出社すると、既に彼女が席に座ってノートパソコンに向き合っていることもあったし、午後、キャリーバックを引いて出張先からそのまま会社に戻ってくることもある。
「ただいま戻りました~」
彼女の軽やかな声が聞こえると、部署を問わずみんながPCから顔を上げ「おかえりなさい」と返事をする。
スタバのグランデサイズを片手に、長い髪をなびかせ颯爽と、彼女はいつも外の匂いを連れてやってきた。
私と同じ会社員であるはずなのに、彼女からはいつも自由な風を感じた。

ある日私の同僚が、仕事が辛いと給湯室で涙を流した。
あれは確かもう夜の8時を過ぎていた。
何かミスをしてしまったのか、営業成績が振るわず上司にプレッシャーを掛けられたのか、そんな理由だったと思う。

私がうんうんと同僚の話に耳を傾け、共感したり、励ましたり、そんなことをしていた時、旅行誌の彼女がコーヒーでも飲もうかとカップを片手にやってきた。
しばらくすると背を向けた彼女の手元から、コーヒーのかぐわしい香りが漂ってきた。

涙に満ちていた給湯室の雰囲気がふっと緩む。
彼女は私たちに背を向けたままさりげない調子で聞いた。
「どうかした?」
涙でうまく話せない同僚に代わって私が、仕事のことでちょっと…と返事をすると、彼女は振り向いて柔らかい表情で言った。
「仕事のことなんかで泣いちゃだめだよ」
彼女は笑った。
「たかが仕事だよ。もう帰んな~。おつかれさま!」
コーヒーの香りを引き連れて去っていく彼女の背中に私たちは「お疲れ様でした」と呟いた。

残された私たちはしばらく無言だったが、泣いていた同僚が夢から醒めたみたいな顔で
「帰ろっか…」
と言った。
「…帰ろうか。」
私も言って、なんとなく二人で顔を見合わせて力の抜けた顔で笑った。
帰って、ごはん食べて、しっかり眠ろう。

「仕事のことなんかで泣いたらだめだよ」
彼女のあの言葉は、今でも強烈な印象を私に残している。
これは、おそらくバリバリ仕事をしていて誰よりも活躍していた彼女から出た言葉だったから、そして日頃から誠実に一生懸命仕事と向き合っていた同僚と私たちに向けられた言葉だったからこそ響いた言葉だったに違いない。

真面目な人ほど、ともすれば会社や仕事が自分の人生の全てみたいに錯覚してしまう。
会社が求める人物像に気づかぬうちに自分を近づけ、それが自分だといつの間にか錯覚してしまう。
やりがいや、周囲の期待というまやかしに踊らされ、本当に自分がやりたかったこと、本来自分が求めていた喜びに封をする。

もちろんやるなら仕事を楽しむ方がいい。
でも、仕事と自分をイコールで結んでしまうことには危うさを感じる。
大人の彼女が教えてくれた、仕事との上手な付き合い方。
仕事は仕事。私の人生は私の人生。
お互いにゆるく結びつきながらも決してそれはイコールではない。
線を引き、俯瞰する。

仕事のことなんかで不幸になっちゃだめだよ。

今日もしっかり食べて、よく眠って、自分の人生を生きよう。
軽やかに。



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