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真の実行力とは何か?「心の賢さ」と「物事の見通し」で差をつける方法と、不平を乗り越え真の自己実現を果たす方法【学問のすすめ2.0:十六編】福沢諭吉から学ぶ

十六編
手近く独立を守ること

 不覊《ふき》独立の語は近来世間の話にも聞くところなれども、世の中の話にはずいぶん間違いもあるものゆえ、銘々にてよくその趣意を弁《わきま》えざるべからず。
 独立に二様の別あり、一は有形なり、一は無形なり。なお手近く言えば品物につきての独立と、精神につきての独立と、二様に区別あるなり。
 品物につきての独立とは、世間の人が銘々に身代を持ち、銘々に家業を勤めて、他人の世話厄介にならぬよう、一身一家内の始末をすることにて、一口に申せば人に物を貰《もら》わぬという義なり。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 十六編
手近に独立を守ること

「不覊の独立」という言葉は、近年社会でよく聞かれるが、世間の話には誤解も多いため、個々人がその意味を正しく理解する必要がある。
独立には二つの形態がある。一つは有形のもの、もう一つは無形のものである。具体的には、物質的な独立と精神的な独立の二つに分けられる。
物質的な独立とは、個々の人々が自らの収入を得て、自らの仕事に勤しむことにより、他人に頼ることなく、自身や家庭を維持することを意味し、簡単に言えば他人から物をもらわないということである。

 有形の独立は右のごとく目にも見えて弁じやすけれども、無形の精神の独立に至りては、その意味深く、その関係広くして、独立の義に縁なきように思わるることにもこの趣意を存して、これを誤るものはなはだ多し。細事ながら左にその一ヵ条を撮《と》りてこれを述べん。
「一杯、人、酒を呑《の》み、三杯、酒、人を呑む」という諺《ことわざ》あり。今この諺を解けば、「酒を好むの欲をもって人の本心を制し、本心をして独立を得せしめず」という義なり。今日世の人々の行状を見るに、本心を制するものは酒のみならず、千状万態の事物ありて本心の独立を妨ぐることはなはだ多し。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 有形の独立は目に見えやすいが、精神の無形の独立は、その意味が深く、関係が広いため、独立の本質を見失いやすい。多くの人がこの点を誤解している。例えば、「一杯は人が酒を飲み、三杯は酒が人を飲む」という諺がある。これを現代に解釈すると、酒を好む欲望によって人の本心が制御され、本心が独立を得られなくなるということだ。現在、人々の行動を見ると、本心を制御するものは酒だけではなく、多種多様な事物があり、本心の独立を妨げていることが多い。

 この着物に不似合いなりとてかの羽織を作り、この衣裳に不相当なりとてかの煙草入れを買い、衣服すでに備われば屋宅の狭きも不自由となり、屋宅の普請はじめて落成すれば宴席を開かざるもまた不都合なり、鰻飯は西洋料理の媒酌《ばいしゃく》となり、西洋料理は金の時計の手引きとなり、比《これ》より彼《かれ》に移り、一より十に進み、一進また一進、段々限りあることなし。この趣を見れば一家の内には主人なきがごとく、一身の内には精神なきがごとく、物よく人をして物を求めしめ、主人は品物の支配を受けてこれに奴隷使《どれいし》せらるるものと言うべし。

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 この着物が似合わないと言って新しい羽織を作り、この服装に相応しくないとして新しい煙草入れを購入し、衣服が揃っても家が狭いと不便に感じ、家の建築を始めると完成祝いの宴会を開かなければならなくなる。鰻飯は西洋料理の紹介役となり、西洋料理は金の時計への誘いとなる。こうして物から物へと移り、一つから十へと進む。一度進めばまた進み続け、その限りはない。この傾向を見ると、家庭内には主人がいないかのようで、個人の中には精神が存在しないかのようだ。物は人を駆り立てて物を欲しがらせ、主人は物の支配を受けてそれに奴隷のように仕えることになる。

 なおこれよりはなはだしきものあり。前の例は品物の支配を受くる者なりといえども、その品物は自家の物なれば、一身一家の内にて奴隷の境界に居《お》るまでのことなれども、ここにまた他人の物に使役せらるるの例あり。かの人がこの洋服を作りたるゆえ我もこれを作ると言い、隣に二階の家を建てたるがゆえにわれは三階を建つると言い、朋友の品物はわが買物の見本となり、同僚の噂咄《うわさばなし》はわが注文書の腹稿となり、色の黒き大の男が節《ふし》くれ立ちたるその指に金の指輪はちと不似合いと自分も心に知りながら、これも西洋人の風なりとて無理に了簡《りょうけん》を取り直して銭を奮発し、極暑の晩景《ばんけい》、浴後には浴衣《ゆかた》に団扇《うちわ》と思えども、西洋人の真似なれば我慢を張りて筒袖に汗を流し、ひたすら他人の好尚に同じからんことを心配するのみ。他人の好尚に同じゅうするはなおかつ許すべし。その笑うべきの極度に至りては他人の物を誤り認め、隣りの細君が御召縮緬《おめしちりめん》に純金の簪《かんざし》をと聞きて大いに心を悩まし、急に我もと注文して後によくよく吟味すれば、豈《あに》計らんや、隣家の品は綿縮緬に鍍金《めっき》なりしとぞ。かくのごときは、すなわちわが本心を支配するものは自分の物にあらずまた他人の物にもあらず、煙のごとき夢中の妄想に制せられて、一身一家の世帯は妄想の往来に任ずるものと言うべし。精神独立の有様とは多少の距離あるべし。その距離の遠近は銘々にて測量すべきものなり。

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 もっと深刻な例もある。前の例は自分の品物に支配されていたが、それは個人や家庭の範囲に留まる。しかし、他人の物や風習に従って行動する例もある。例えば、ある人が洋服を作ったからといって自分も作る、隣が二階建ての家を建てたから三階建てを建てる、友人の持ち物が買い物の参考になり、同僚の話が自分の注文の下書きになるなど。色の黒い大柄な男が、自分に似合わないと知りながらも、西洋風だとして金の指輪を買い、猛暑の夜には浴衣と団扇がふさわしいと思いつつも、西洋人の真似をして袖口の狭い服で汗を流す。ただひたすらに他人の趣味に合わせようとするだけだ。他人の趣味に合わせることはまだ許されるが、極端になると他人の物を間違って理解し、隣の奥さんが高級な生地に純金の髪飾りを使っていると聞き、自分も注文するが、よく調べると隣の家の物は安い生地に金メッキだったという。このような行動は、本心を支配するものが自分の物でも他人の物でもなく、幻想によって制御されていることを意味し、家庭の運営が幻想に左右されている。精神的な独立とはまだ程遠い。その距離の遠近は個々によって測るべきだ。

 かかる夢中の世渡りに心を労し、身を役《えき》し、一年千円の歳入も、一月百円の月給も、遣《つか》い果たしてその跡を見ず、不幸にして家産歳入の路《みち》を失うか、または月給の縁に離るることあれば、気抜けのごとく、間抜けのごとく、家に残るものは無用の雑物《ぞうもつ》、身に残るものは奢侈《しゃし》の習慣のみ。憐れと言うもなおおろかならずや。産を立つるは一身の独立を求むるの基《もとい》なりとて心身を労しながら、その家産を処置するの際に、かえって家産のために制せられて独立の精神を失い尽くすとは、まさにこれを求むるの術をもってこれを失うものなり。余輩あえて守銭奴の行状を称誉するにあらざれども、ただ銭を用うるの法を工夫し、銭を制して銭に制せられず、毫《ごう》も精神の独立を害することなからんを欲するのみ。

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 このような夢中での生活に心を疲れさせ、身を使い果たし、年収一万円も、月給一千円も、使い切ってしまって何も残らず、不幸にも家産や収入源を失ったり、月給の仕事を失ったりすると、気が抜けたように、呆然としてしまい、家には役に立たない雑物だけが残り、身には奢侈の習慣だけが残る。これは憐れと言うにも愚かしいことではないか。産業を立ち上げるのは、個人の独立を目指す基本でありながら、その産業を管理する際に、かえってそれに制約されて独立の精神を失うのは、目指すものを得ようとしてかえってそれを失うことだ。私は守銭奴を賞賛するわけではないが、金を使う方法を工夫し、金を制御して金に支配されず、少しも精神的な独立を損なわないようにすることを望むだけだ。

心事と働きと相当すべきの論
 議論と実業と両《ふたつ》ながらそのよろしきを得ざるべからずとのことは、あまねく人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行なう者はなはだ少なし。そもそも議論とは、心に思うところを言に発し、書に記すものなり。あるいはいまだ言と書に発せざれば、これをその人の心事と言い、またはその人の志と言う。ゆえに議論は外物に縁なきものと言うも可なり。畢竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕《あら》わし、外物に接して処置を施すことなり。ゆえに実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり、古人がこの両様を区別するには、あるいは言と行と言い、あるいは志と功と言えり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも、すなわちこれなり。

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 議論と実業は両方とも適切な方法を見つける必要があるとよく言われるが、この考えを実践する人は少ない。基本的に議論とは、心に思うことを言葉や書き言葉で表現することだ。まだ言葉や書き言葉で表現されていない場合、それをその人の心事や志と言う。そのため、議論は外的な要素とは無関係であるとも言え、完全に内面的で自由で、制限のないものである。一方で、実業は心に思うことを外に表し、外的な要素に関わりながら対応することである。そのため、実業には常に制限があり、外的な要素によって自由が制約される。古代の人々はこれらを「言」と「行」や「志」と「功」として区別していた。また、現代の俗語で言う「説」と「働き」とは、このことを指す。

 言行齟齬そごするとは、議論に言うところと実地に行なうところと一様ならずということなり。「功に食《は》ましめて志に食ましめず」とは、「実地の仕事次第によりてこそ物をも与うべけれ、その心になんと思うとも形もなき人の心事をば賞すべからず」との義なり。また俗間に、「某《なにがし》の説はともかくも、元来働きのなき人物なり」とてこれを軽蔑することあり。いずれも議論と実業と相当せざるを咎《とが》めたるものならん。
 さればこの議論と実業とは寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからざるものなり。今、初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働きという二語を用いて、その互いに相助けて平均をなし、もって人間の益を致す所以《ゆえん》と、この平均を失うよりして生ずるところの弊害を論ずること左のごとし。

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 言行が齟齬するとは、議論と実際の行動が一致しないことだ。「功に食わせて志に食わせず」とは、「実際の仕事に基づいて報酬を与えるべきであるが、その人の心がどう思っているかという形のないものには報酬を与えるべきではない」という意味である。また、俗に「ある人の理論はともかく、本質的に働かない人物だ」として軽蔑されることがある。これらはいずれも、議論と実業が一致しないことを非難するものである。

 したがって、議論と実業は一致するように正確にバランスを取るべきである。今、初学者の理解を助けるために、「人の心事」と「働き」という二つの言葉を使い、これらが互いに支え合ってバランスを取り、人間の利益に貢献する理由と、このバランスが失われることによって生じる弊害を論じることが適切である。

 第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽《ひ》くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮《ふる》いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。
 第二 人の働きはその難易にかかわらずして、用をなすの大なるものと小なるものとあり。囲碁・将棋等の技芸も易《やす》きことにあらず、これらの技芸を研究して工夫を運《めぐ》らすの難《かた》きは、天文・地理・器械・数学等の諸件に異ならずといえども、その用をなすの大小に至りてはもとより同日の論にあらず。今この有用無用を明察して有用の方につかしむるものは、すなわち心事の明らかなる人物なり。ゆえにいわく、心事明らかならざれば人の働きをしていたずらに労して功なからしむることあり。

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 第一に、人の働きには大小や軽重の違いがある。芝居、学問、人力車を引くこと、蒸気船を操作すること、農業に従事すること、著述することなど、すべて人の働きであるが、役者ではなく学者を選ぶ、車引きではなく航海の技術を学ぶ、農業よりも著述を選ぶといった選択は、働きの重要性を区別し、軽微なものを捨てて重大なものに従う行為であり、これを人間の美点と言える。この区別を行うのは、その人の心や志である。このような心や志を持つ人を高尚な心事を持つ人物と呼ぶ。したがって、人の心事は高尚でなければならず、そうでないとその働きも高尚であることはできない。

 第二に、人の働きはその難易を問わず、大きな用を成すものと小さな用を成すものがある。囲碁や将棋のような技術は容易ではなく、これらを研究し工夫することは、天文、地理、機械、数学などと異ならないが、その用を成す大きさにおいては元々同じ議論ではない。この有用性を明確にして有用な方を選ぶ人は、明らかな心事を持つ人物である。したがって、心事が明確でなければ、人の働きを無駄にし、効果を得られないことがある。

 第三 人の働きには規則なかるべからず。その働きをなすに場所と時節とを察せざるべからず。譬《たと》えば道徳の説法はありがたきものなれども、宴楽の最中に突然とこれを唱うればいたずらに人の嘲《あざけ》りを取るに足るのみ。書生の激論も時には面白からざるにあらずといえども、親戚児女子じじょし団座の席にこれを聞けば発狂人と言わざるを得ず。この場所柄と時節柄とを弁別して規則あらしむるはすなわち心事の明らかなるものなり。人の働きのみ活発にして明智なきは、蒸気に機関なきがごとく、船に楫《かじ》なきがごとし。ただに益をなさざるのみならずかえって害を致すこと多し。
 第四 前の条々は人に働きありて心事の不行届きなる弊害なれども、今これに反し、心事のみ高尚遠大にして事実の働きなきも、またはなはだ不都合なるものなり。心事高大にして働きに乏しき者は、常に不平をいだかざるを得ず。世間の有様を通覧して仕事を求むるに当たり、己《おの》が手に叶うことは悉皆《しっかい》己が心事より以下のことなればこれに従事するを好まず、さりとて己が心事を逞しゅうせんとするには実の働きに乏しくしてことに当たるべからず、ここにおいてかその罪を己れに責めずして他を咎め、あるいは「時に遇《あ》わず」と言い、あるいは「天命至らず」と言い、あたかも天地の間になすべき仕事なきもののごとくに思い込み、ただ退きて私《ひそか》に煩悶するのみ。口に怨言を発し、面に不平を顕《あら》わし、身外みな敵のごとく、天下みな不親切なるがごとし。その心中を形容すれば、かつて人に金を貸さずして返金の遅きを怨むものと言うも可なり。

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 第三 人の働きには規則が必要であり、その働きを行うには場所と時節を見極めるべきである。例えば、道徳の説法は価値あるものだが、宴会の最中に突然それを語れば、ただの嘲笑の対象となるだけである。書生の激しい議論も時には面白いが、親戚や子供たちが集まる席でそれを話せば、狂人と思われるだろう。場所と時節を正しく判断し、規則に従うことは、心の明晰さを示すものである。働きだけが活発で賢明さがなければ、機関車に蒸気がないようなものであり、船に舵がないようなものである。益をもたらすどころか、しばしば害を及ぼす。

 第四 先の条々は、働きがありながら心の行き届かない弊害であったが、これに反して、心だけが高尚で実際の働きがない場合も、非常に不都合である。心が高いが実際に働きが少ない人は、常に不平を抱えることになる。世の中を見渡し、仕事を求める際に、自分に適した仕事は自分の理想よりも劣るとして避け、自分の理想を達成しようとするには実際の働きが足りずに適さない。そこで自分自身を責めることなく、他人を非難し、「時に合わない」とか「天命が至らない」と言い、まるで世界に自分の役割がないかのように思い込み、ただもやもやとした不満を抱える。口では不満を述べ、顔には不平を表し、周囲を敵のように、世界を冷たいもののように見る。その心情は、人に金を貸さずに返済の遅れを恨むようなものである。

 儒者は己れを知る者なきを憂い、書生は己れを助くる者なきを憂い、役人は立身の手がかりなきを憂い、町人は商売の繁盛せざるを憂い、廃藩の士族は活計の路なきを憂い、非役《ひやく》の華族は己れを敬する者なきを憂い、朝々暮々憂いありて楽あることなし。今日世間にこの類の不平はなはだ多きを覚ゆ。その証を得んと欲せば、日常交際の間によく人の顔色を窺《うかが》い見て知るべし。言語・容貌、活発にして胸中の快楽そとに溢《あふ》るるがごとき者は、世上にその人はなはだまれなるべし。余輩の実験にては、常に人の憂うるを見て悦ぶを見ず、その面を借用したらば不幸の見舞いなどに至極よろしからんと思わるるものこそ多けれ、気の毒千万なる有様ならずや。もしこれらの人をしておのおのその働きの分限に従いて勤むることあらしめなば、おのずから活発為事いじの楽地を得て、しだいに事業の進歩をなし、ついには心事と働きと相平均するの場合にも至るべきはずなるに、かつてここに心づかず、働きの位は一におり、心事の位は十にとどまり、一にいて十を望み、十にいて百を求め、これを求めて得ずしていたずらに憂いを買う者と言うべし。これを譬《たと》えば石の地蔵に飛脚の魂を入れたるがごとく、中風の患者に神経の穎敏《えいびん》を増したるがごとし。その不平不如意は推《お》して知るべきなり。

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 儒者は自分を理解する者がいないことを悩む、書生は自分を助ける者がいないことを悩む、役人は出世の機会がないことを悩む、町人は商売が繁盛しないことを悩む、廃藩士族は生計の道がないことを悩む、職を持たない貴族は自分を尊敬する者がいないことを悩む。毎日悩みばかりで楽しみがない。今日の世間ではこのような不平が多いことに気づく。これを確かめるには、日常生活の中で人々の表情を観察すればよい。言葉や表情が活発で、心の喜びが外に溢れるような人は、世間にほとんどいない。私の経験では、人々は常に悩んでいるのを見るが、喜びを見ることはない。面倒を見ている人々に対する慰問などが最も適切だと思われるほど、状況は気の毒である。これらの人々が各々の職務に忠実に従事すれば、自然と積極的で楽しい仕事の環境を見つけ、徐々に事業の進歩を遂げ、最終的には心事と働きが均衡する場面に至るだろう。しかし、この点に気を配らず、働きにおいては低いレベルで止まり、心事においては高い目標を持っている。低いレベルで高い目標を求め、それを得られずに無駄に悩む者が多い。これは、地蔵に速足の魂を入れたようなもの、中風の患者に神経の鋭敏さを増したようなものである。その不満や不満足は予想できる。

 また心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭《いと》われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すればもとより及ぶべきにあらざれども、己が心事をもって他の働きを見れば、これに満足すべからずして、おのずから私《ひそか》に軽蔑の念なきを得ず。みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。互いに相不平をいだき、互いに相蔑視して、ついには変人奇物の嘲りを取り、世間に歯《よわい》すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜ふそんにして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗《ひぼう》して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚《こうこつ》たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。

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 また、高尚な心を持ちながら行動が少ない人は、他人に嫌われ孤立することがある。自分の行動と他人の行動を比べると、当然及ばない。しかし、自分の高尚な心で他の人の行動を見ると、それに満足しないで、内心では軽蔑の感情を抱くことになる。無分別に他人を軽蔑する人は、必ず他人からも軽蔑される。お互いに不満を持ち、お互いを見下し合い、最終的には変わった人や奇妙な人として嘲笑され、社会での地位を失うことになる。現代社会を見ると、傲慢で他人に嫌われる人がいる。他人より優れたいと望み、嫌われる人もいる。他人に多くを求めて嫌われる人もいれば、他人を誹謗して嫌われる人もいる。これらの人々は、他人との比較を間違え、自分の高尚な心を基準にして、その基準で他者の行動を測り、現実離れした想像を抱き、結局は他人に嫌われるきっかけを作る。そして最終的には、自分から他人を避け、孤独で苦しい道を歩むことになる。

 試みに告ぐ、後進の少年輩、人の仕事を見て心に不満足なりと思わば、みずからその事を執《と》りてこれを試むべし。人の商売を見て拙なりと思わば、みずからその商売に当たりてこれを試むべし。隣家の世帯を見て不取締りと思わば、みずからこれを自家に試むべし。人の著書を評せんと欲せば、みずから筆を執りて書を著《あら》わすべし。学者を評せんと欲せば学者たるべし。医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大のことより至細のことに至るまで、他人の働きに喙《くちばし》を容《い》れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置きて躬《み》みずから顧みざるべからず。あるいは職業のまったく相異なるものあらば、よくその働きの難易軽重を計り、異類の仕事にてもただ働きと働きとをもって自他の比較をなさば大なる謬《あやま》りなかるべし。

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 次世代の若者たちへ告げる。他人の仕事を見て満足できないと思うならば、自らその事業に取り組み、試みるべきである。他人の商売が拙いと感じるならば、自分自身でその商売に従事し、試みるべきである。隣家の家庭管理が不適切だと思うならば、まず自家で試すべきである。他人の著書を評価することを望むなら、自ら筆をとり、著作を行うべきである。学者や医者を評価したいと思うなら、自分自身が学者や医者となるべきである。重要なことから些細なことに至るまで、他人の行いに意見を述べる前に、自分自身がその立場に立ち、自らを省みることが必要である。全く異なる職業であっても、その仕事の難易度や重要性を理解し、異なる種類の仕事においても、単に労働としての比較を行うことで、大きな誤解を避けるべきである。

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