十六編
手近に独立を守ること
「不覊の独立」という言葉は、近年社会でよく聞かれるが、世間の話には誤解も多いため、個々人がその意味を正しく理解する必要がある。
独立には二つの形態がある。一つは有形のもの、もう一つは無形のものである。具体的には、物質的な独立と精神的な独立の二つに分けられる。
物質的な独立とは、個々の人々が自らの収入を得て、自らの仕事に勤しむことにより、他人に頼ることなく、自身や家庭を維持することを意味し、簡単に言えば他人から物をもらわないということである。
有形の独立は目に見えやすいが、精神の無形の独立は、その意味が深く、関係が広いため、独立の本質を見失いやすい。多くの人がこの点を誤解している。例えば、「一杯は人が酒を飲み、三杯は酒が人を飲む」という諺がある。これを現代に解釈すると、酒を好む欲望によって人の本心が制御され、本心が独立を得られなくなるということだ。現在、人々の行動を見ると、本心を制御するものは酒だけではなく、多種多様な事物があり、本心の独立を妨げていることが多い。
この着物が似合わないと言って新しい羽織を作り、この服装に相応しくないとして新しい煙草入れを購入し、衣服が揃っても家が狭いと不便に感じ、家の建築を始めると完成祝いの宴会を開かなければならなくなる。鰻飯は西洋料理の紹介役となり、西洋料理は金の時計への誘いとなる。こうして物から物へと移り、一つから十へと進む。一度進めばまた進み続け、その限りはない。この傾向を見ると、家庭内には主人がいないかのようで、個人の中には精神が存在しないかのようだ。物は人を駆り立てて物を欲しがらせ、主人は物の支配を受けてそれに奴隷のように仕えることになる。
もっと深刻な例もある。前の例は自分の品物に支配されていたが、それは個人や家庭の範囲に留まる。しかし、他人の物や風習に従って行動する例もある。例えば、ある人が洋服を作ったからといって自分も作る、隣が二階建ての家を建てたから三階建てを建てる、友人の持ち物が買い物の参考になり、同僚の話が自分の注文の下書きになるなど。色の黒い大柄な男が、自分に似合わないと知りながらも、西洋風だとして金の指輪を買い、猛暑の夜には浴衣と団扇がふさわしいと思いつつも、西洋人の真似をして袖口の狭い服で汗を流す。ただひたすらに他人の趣味に合わせようとするだけだ。他人の趣味に合わせることはまだ許されるが、極端になると他人の物を間違って理解し、隣の奥さんが高級な生地に純金の髪飾りを使っていると聞き、自分も注文するが、よく調べると隣の家の物は安い生地に金メッキだったという。このような行動は、本心を支配するものが自分の物でも他人の物でもなく、幻想によって制御されていることを意味し、家庭の運営が幻想に左右されている。精神的な独立とはまだ程遠い。その距離の遠近は個々によって測るべきだ。
このような夢中での生活に心を疲れさせ、身を使い果たし、年収一万円も、月給一千円も、使い切ってしまって何も残らず、不幸にも家産や収入源を失ったり、月給の仕事を失ったりすると、気が抜けたように、呆然としてしまい、家には役に立たない雑物だけが残り、身には奢侈の習慣だけが残る。これは憐れと言うにも愚かしいことではないか。産業を立ち上げるのは、個人の独立を目指す基本でありながら、その産業を管理する際に、かえってそれに制約されて独立の精神を失うのは、目指すものを得ようとしてかえってそれを失うことだ。私は守銭奴を賞賛するわけではないが、金を使う方法を工夫し、金を制御して金に支配されず、少しも精神的な独立を損なわないようにすることを望むだけだ。
議論と実業は両方とも適切な方法を見つける必要があるとよく言われるが、この考えを実践する人は少ない。基本的に議論とは、心に思うことを言葉や書き言葉で表現することだ。まだ言葉や書き言葉で表現されていない場合、それをその人の心事や志と言う。そのため、議論は外的な要素とは無関係であるとも言え、完全に内面的で自由で、制限のないものである。一方で、実業は心に思うことを外に表し、外的な要素に関わりながら対応することである。そのため、実業には常に制限があり、外的な要素によって自由が制約される。古代の人々はこれらを「言」と「行」や「志」と「功」として区別していた。また、現代の俗語で言う「説」と「働き」とは、このことを指す。
言行が齟齬するとは、議論と実際の行動が一致しないことだ。「功に食わせて志に食わせず」とは、「実際の仕事に基づいて報酬を与えるべきであるが、その人の心がどう思っているかという形のないものには報酬を与えるべきではない」という意味である。また、俗に「ある人の理論はともかく、本質的に働かない人物だ」として軽蔑されることがある。これらはいずれも、議論と実業が一致しないことを非難するものである。
したがって、議論と実業は一致するように正確にバランスを取るべきである。今、初学者の理解を助けるために、「人の心事」と「働き」という二つの言葉を使い、これらが互いに支え合ってバランスを取り、人間の利益に貢献する理由と、このバランスが失われることによって生じる弊害を論じることが適切である。
第一に、人の働きには大小や軽重の違いがある。芝居、学問、人力車を引くこと、蒸気船を操作すること、農業に従事すること、著述することなど、すべて人の働きであるが、役者ではなく学者を選ぶ、車引きではなく航海の技術を学ぶ、農業よりも著述を選ぶといった選択は、働きの重要性を区別し、軽微なものを捨てて重大なものに従う行為であり、これを人間の美点と言える。この区別を行うのは、その人の心や志である。このような心や志を持つ人を高尚な心事を持つ人物と呼ぶ。したがって、人の心事は高尚でなければならず、そうでないとその働きも高尚であることはできない。
第二に、人の働きはその難易を問わず、大きな用を成すものと小さな用を成すものがある。囲碁や将棋のような技術は容易ではなく、これらを研究し工夫することは、天文、地理、機械、数学などと異ならないが、その用を成す大きさにおいては元々同じ議論ではない。この有用性を明確にして有用な方を選ぶ人は、明らかな心事を持つ人物である。したがって、心事が明確でなければ、人の働きを無駄にし、効果を得られないことがある。
第三 人の働きには規則が必要であり、その働きを行うには場所と時節を見極めるべきである。例えば、道徳の説法は価値あるものだが、宴会の最中に突然それを語れば、ただの嘲笑の対象となるだけである。書生の激しい議論も時には面白いが、親戚や子供たちが集まる席でそれを話せば、狂人と思われるだろう。場所と時節を正しく判断し、規則に従うことは、心の明晰さを示すものである。働きだけが活発で賢明さがなければ、機関車に蒸気がないようなものであり、船に舵がないようなものである。益をもたらすどころか、しばしば害を及ぼす。
第四 先の条々は、働きがありながら心の行き届かない弊害であったが、これに反して、心だけが高尚で実際の働きがない場合も、非常に不都合である。心が高いが実際に働きが少ない人は、常に不平を抱えることになる。世の中を見渡し、仕事を求める際に、自分に適した仕事は自分の理想よりも劣るとして避け、自分の理想を達成しようとするには実際の働きが足りずに適さない。そこで自分自身を責めることなく、他人を非難し、「時に合わない」とか「天命が至らない」と言い、まるで世界に自分の役割がないかのように思い込み、ただもやもやとした不満を抱える。口では不満を述べ、顔には不平を表し、周囲を敵のように、世界を冷たいもののように見る。その心情は、人に金を貸さずに返済の遅れを恨むようなものである。
儒者は自分を理解する者がいないことを悩む、書生は自分を助ける者がいないことを悩む、役人は出世の機会がないことを悩む、町人は商売が繁盛しないことを悩む、廃藩士族は生計の道がないことを悩む、職を持たない貴族は自分を尊敬する者がいないことを悩む。毎日悩みばかりで楽しみがない。今日の世間ではこのような不平が多いことに気づく。これを確かめるには、日常生活の中で人々の表情を観察すればよい。言葉や表情が活発で、心の喜びが外に溢れるような人は、世間にほとんどいない。私の経験では、人々は常に悩んでいるのを見るが、喜びを見ることはない。面倒を見ている人々に対する慰問などが最も適切だと思われるほど、状況は気の毒である。これらの人々が各々の職務に忠実に従事すれば、自然と積極的で楽しい仕事の環境を見つけ、徐々に事業の進歩を遂げ、最終的には心事と働きが均衡する場面に至るだろう。しかし、この点に気を配らず、働きにおいては低いレベルで止まり、心事においては高い目標を持っている。低いレベルで高い目標を求め、それを得られずに無駄に悩む者が多い。これは、地蔵に速足の魂を入れたようなもの、中風の患者に神経の鋭敏さを増したようなものである。その不満や不満足は予想できる。
また、高尚な心を持ちながら行動が少ない人は、他人に嫌われ孤立することがある。自分の行動と他人の行動を比べると、当然及ばない。しかし、自分の高尚な心で他の人の行動を見ると、それに満足しないで、内心では軽蔑の感情を抱くことになる。無分別に他人を軽蔑する人は、必ず他人からも軽蔑される。お互いに不満を持ち、お互いを見下し合い、最終的には変わった人や奇妙な人として嘲笑され、社会での地位を失うことになる。現代社会を見ると、傲慢で他人に嫌われる人がいる。他人より優れたいと望み、嫌われる人もいる。他人に多くを求めて嫌われる人もいれば、他人を誹謗して嫌われる人もいる。これらの人々は、他人との比較を間違え、自分の高尚な心を基準にして、その基準で他者の行動を測り、現実離れした想像を抱き、結局は他人に嫌われるきっかけを作る。そして最終的には、自分から他人を避け、孤独で苦しい道を歩むことになる。
次世代の若者たちへ告げる。他人の仕事を見て満足できないと思うならば、自らその事業に取り組み、試みるべきである。他人の商売が拙いと感じるならば、自分自身でその商売に従事し、試みるべきである。隣家の家庭管理が不適切だと思うならば、まず自家で試すべきである。他人の著書を評価することを望むなら、自ら筆をとり、著作を行うべきである。学者や医者を評価したいと思うなら、自分自身が学者や医者となるべきである。重要なことから些細なことに至るまで、他人の行いに意見を述べる前に、自分自身がその立場に立ち、自らを省みることが必要である。全く異なる職業であっても、その仕事の難易度や重要性を理解し、異なる種類の仕事においても、単に労働としての比較を行うことで、大きな誤解を避けるべきである。