見出し画像

「恐怖の正体」を読んで

しばらく隣家の騒音が続いる。そのうちに、「音」に怖さを覚えるようになった。その思いを解明しようと、手に取った一冊だ。
「恐怖の正体」(春日武彦著・中公新書)
第一章 恐怖の生々しさと定義について
著者の恐怖の定義は
①危機感
②不条理感
③精神的視野狭窄
これら三つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。
第二章 恐怖症の人たち
 そもそも恐怖症とは、神経症の一種である。すなわち恐怖症となるような人たちは普段から心の中に漠然とした不安や屈託を抱えている。にんげんというものは、どうやら「漠然」とか「曖昧」というものが苦手のようで、だから摑み所のない不安や屈託は苦痛になる。でも解消はできない。
 そうなると、とにもかくにも不安や屈託を何か具体的な事象に託したくなる。とりとめなない状況に苦しむよりは、具体的なことに苦しむ。
 
 恐怖症は「恐怖もどき」でしかない。が、そのような奇妙なものが存在したほうが結果的には人生をよりリアルに過ごせる場合もあるようなのだ。そこに人の心の妙味がある。

以上書き出して、「恐怖」は自分で生み出しているものなのか。5や10の音が100や200に感じる私は、「恐怖もどき」とは悟れない状態だ。「結果的には人生をよりリアルに過ごせる場合もあるようなのだ」となるのにどうしたらいいか。
第三章 恐怖の真っ最中
 恐怖に際して時間の流れが減速し、目の前の眺めが画面で見たように解明化するいった状態は、誰にも共通して生じるものらしい。

 アドレナリンによる過覚醒が、時間の減速や鮮やかなディテールの感知をもたらす。さらにエンドルフィンの分泌が心を鎮める恐怖を麻痺させるものの、それと同時に脳内に作動して、穏やかなアンビエント・ミュージックにも似た映像が脈絡なく出現するというわけである。エンドルフィンはモルヒネの一種であり、絶対絶命状態においてわたしたちの脳が絞り出す(偽りの)救いなのだ。

こういう状況はまだ体験していない私には、想像力を駆しして、偽状態を思い浮かべるしかできなかった。次に、
第四章 娯楽としての恐怖
第五章 グロテクスな宴
と続く、ホラーものが嫌いな人にはお勧めできないものも紹介されていた。そういう私もゾンビはきらいだ。

第六章 死と恐怖
この章では、死が怖くてたまりませんに対して、著者は、
まず死が恐ろしいのはあなただけではない(当然至極)指摘するだろう。<永遠><未知><不可逆>について、理屈っぽい形で納得を得るのは容易ではない。ただし通常の人間の心は、恐ろしいと思いつつもいつしかそれは日常の忙しさや他者との交わりなどに霞んでしまう。優先順位の下位へ追いやられてしまう。そんんふうに、ある意味ではきわめていい加減に心は作られており、そのいい加減さが救いになっている。

音恐怖の体験が、死への恐怖まで読み進めると、最後に引用した心のいい加減さに行き着いた。私の恐怖への答えは「最大の防御は幸福になること」つまり、今を生きる、自己を肯定する、そして、俳句を詠むこと、ずいぶん強引な答えを導いたが、俳人の私は、自分の句を創ることが回答でもある。

恐怖を感じている方に是非お勧めの一冊です。
加瀬みづき



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?