見出し画像

東日本大震災を経験して。Vol.1 〜10年後の約束〜

なぜ今、震災の話なのか、というと。
「震災から10年後に地元に戻って産業を創る」と10年前に決意し、いざ地元陸前高田に戻って事業を開始したからだ。
私にとって震災から10年を迎える今年は、ひとつの終わりであり、始まり。

これまでの私の10年間を振り返るとともに、
これから30年以内に高確率で起こり得る関東大震災や南海トラフに備えて、私の東日本大震災での経験をダイジェストで残しておきたい。

日本においては皆、他人事ではないのだ。あなたの身にも突如起こりうる可能性は存在する。

画像7

震災のことを語るとキリがない。
当時17歳。高校2年生の終わり。
自分の高校最後の1年間は「生きる」ことを学んだ1年間だった。

現代の日本において、電気、ガス、水道、交通手段、通信手段、どれもが同時に欠ける機会は無い、と言い切っても過言ではない。
常に恵まれたインフラを享受でき、そして食べ物がないということはあり得ない。

私は、それら全て無くなった世界を生きた。
人も、場所も、時間も。
まさに戦争後のような世界。

目の前の景色がとても非現実的で、まるで映画の中にいるような気持ちだった。
何もがなくなった。
これは夢なんだと、何度も願った。
どれだけ自分の顔をビンタしても、抓っても、朝が来れども来れども、現実は変わらなかった。

画像1


受験勉強なんてやれる場合ではなかった。
そもそも街も跡形無いし塾なんて無い。更地。

学校にやっと通えたのも震災から2ヶ月後。
沿岸部は道が無いので内陸部を迂回して学校まで片道毎日2時間。

17歳で毎日何百体と死体を見る日々を送る高校生活があるか?

しかも揚がってきた死体は海水でパンパンに膨れ上がりもはや誰だかわからない。
さらに普通の溺死ではない、重油が混ざった砂まじりの黒い海水で洗濯槽のようにもみくちゃにされた死体は、尚更誰だかわからない。
この死体だろうか、とわずかな特徴を頼りに死体を見て捜していく。
まるでよくできた剥製のようにしか見えない。

悍ましい雰囲気とともに、何百体と見ているうちにしかし段々と慣れていく。

それはもう人生の価値観も変わる。

人の亡骸を何百体とまじまじ見て回る機会など、この世の人生においてそうない。
普通に生活していれば、人の死に遭遇する機会など指で数えるほどだ。


一歩間違えていれば自分も死んでいた。
亡くなるのは、誰しもタイミング次第だったとしか言いようがない。

なぜ生き残されたのだろう。
しかもこの進路選択の17歳という時期に。

何か意味があるのではないか。
意味などないのかもしれないが、意味を持ちたかった。
亡くなった人の分まで生きる。

これが当時小学生だったり、社会人だったりして地元を離れていたら、思っていたことは全く違っていたのかもしれない。
多感な時期である「17歳」だからこそ思うことも多かった。

タイミング。

画像2

陸前高田では、市民の10人に1人が無くなっている。
津波浸水域人口に対する犠牲者率では10.64%にあたり、
岩手・宮城・福島県沿岸37市町村中最大。

誰かしら知り合いや友人、親戚、家族を失くしている。
私も、まだ見つかっていない幼馴染がいる。
家族を亡くしたことにより、後追いして自殺だとか、心も病んで病気で亡くなっただとか、二次災害も含めれば実際にはさらに亡くなっている。


未だに、安置所の光景が忘れられない。

緑芽吹く季節。
保育所、公民館、体育館でブルーシートの上に等間隔に木の棺桶に死体が納められ並べられている。
毎日、死体が上がってくる。
親戚や友人が上がってこないか、安置所巡りをする日々。
夜、消防団長だった父親の、今どこどこの行方不明者が見つかったという報告を蝋燭の明かりだけが灯る薄暗い部屋で聞いて寝るだけの日々。

そもそも電気がないので、携帯も無い、テレビも無い、本は読めない。娯楽がない。
電池のラジオは聴けるものの、毎日ずっと同じACのCM。ノイローゼ。
できることがなさすぎて、日の入りとともに就寝、日の出とともに起床。

画像8

空の表情はいつも通り。
外は潮の香りと腐敗臭が漂う。

瓦礫のゴミ山を寄せて、街に電柱を何百本と復旧させるまで数ヶ月。

朝は川に水を汲みに行き、ついでに皿洗い。
火は都市ガスでなくプロパンガスだったので無事。

まさに昔話のような生活。というよりスラム街。

冷蔵庫が使えなくなったので、震災直後は冷凍庫にある食材を使い切るべく、割と豪華な食事だった。
ところが、一週間もすると、食材が尽きてくる。

毎日、おかゆかカップ麺。
食べたくて食べているわけじゃない。必死の思いで食にありつく。

心象的な想いも相まって、食べたカップ麺を戻してしまったこともある。
その後身体がカップ麺を生理的に受け付けなくなり、以降5年ぐらい全く食べられなくなった。

今の日本では、コンビニやスーパーなど、お腹が減ればすぐ食べれる環境がそこらじゅうにある。
食品廃棄率世界トップクラスの問題さえある。

そんな日本で。
食べ物を探しに更地を歩く。

無いとわかっているのに。

画像3


瓦礫の中、やっと見つけた卵のパック10個入り。
なぜかうまく浮いて流れ着いたのだろう。
2、3個は割れていたけれど、食べられそう。

卵パックを見つけたときは神に感謝しかなかった。
ああ、こんなことがあるのか、と。

ただ、管理状態もずっと屋外でどこから流れ着いたかもわからず怖かったので、とりあえず家のワンちゃんのペットフードも底を突きかけていたこともあり、自分は1個食べて、あとはワンちゃんにあげた。

空はいつも通り青いが、現実を見れば畏怖する静けさの世界。
この瓦礫の下に死体が埋まっていそう、というオーラを感じながら瓦礫を渡り歩く。
変わり果てた少年時代を過ごした場所。津波によって、街は全壊し、過ごした学校や思い出の場所なんて当たり前のように無くなった。

画像9


三陸海岸はリアス式海岸ゆえに、道が寸断され半島は島となり、孤立した。
自衛隊が来たのは2週間後の話。

道路が流失し要路確保のための瓦礫の撤去で時間がかかった。
昔から三陸沿岸は「陸の孤島」と呼ばれてはいたものの、それがさらに孤島化した。

自衛隊が陸前高田に拠点を作って以降、物資を調達しに拠点まで片道8kmを自転車で通った。
そこでずっと遠方から来る車の案内をしていた。

瓦礫をかき分けた未舗装の道路を行かなければいけないので、自転車のタイヤがスタック、泥で重く、何より汗をかく。
帰りには食べ物やティッシュなど物資をもらって、自転車やバッグにパンパンにして帰った。

そうしないと生きていけなかった。

震災から3週間後、自衛隊の拠点に用意されたテント式の温水でやっと初めてお風呂に入る。
体は汗でベタベタ、髪はベトベト。水は真っ黒。
震災前は潔癖とまではいかなくとも清潔であることを気にするタイプだったが、それを機にそんなのはどうでも良くなりワイルドに生きるようになった。

まさにリアルサバイバル。

画像9

自衛隊が拠点を作ったことによって地域にもようやく配給物資が届くようになった。
地区長の家などに自衛隊の大量の食料物資が届き、それを地区の各家庭の人数構成を考えながら平等に分けていく。私もお手伝いとして何度も行った。

そしてそれを配り歩く。ガソリンは内陸部まで行かないと無く、とても希少だったので、当初、何を移動するにも人力で行けるものは基本的に人力。

そうして地域で支え合いながら過ごした。ライフラインが止まっている中で、石油ストーブ、井戸、発電機のどれかでも所持している家庭は強かった。個人的に震災三種の神器である。
特に発電機。所持している人はほとんどいないだろうが、もし何ヶ月と電気が使えなくなったときに最強のアイテムと化す。井戸で水を調達し、石油ストーブで暖を取り湯を沸かし調理ができる。

しかし、人は窮地に追い込まれると本性を表すものだ。

本当によく”人”が見える。

自分の家だけのことしか考え無い人もあれば、身銭をとことん切って協力的な人もいた。

また、震災が起きると治安が悪くなる。
各家庭戸締りは必須であり、半壊などで空いている家は格好の狙い目にされ荒らされていた。
流失した自動販売機や銀行の金庫などはこじ開けられ空っぽになっていたともよく噂に聞いた。
夜、真っ暗な明かりひとつ無い暗闇の中、遠方ナンバーの怪しい車が徘徊していたという噂もよく耳にした。

画像9


5月末、ようやく学校が始まった。

電車は線路と駅舎諸共無くなったので、大型バスが手配され学校に通うことに。
各生徒をピックアップしながら内陸側を遠回りして行くので、通常家から学校まで電車で片道40分の距離が、片道2時間超。
朝6時に出発するので、起床はまだ暗い。
なのに学校に到着するのは1時間目が始まる直前。

当時はガラケー。
ガラケーで勉強もできなければ、本を車で読むと酔うので何もできない。
一日往復4時間をバスで過ごした。

学校が始まるも、当時私は生徒会長をしていた。
震災直前に生徒会長になっていたのだが、見事に震災に被った。
ゆえに対応は慌ただしい。
たくさんの支援、義援金に対する御礼、お手紙の対応。イベント。
私だけ授業を抜け出してまで行くこともあった。

大船渡高校は地元では一応進学校。
岩手は本州一広い県なので、よりレベルの高い盛岡や仙台に行こうとすると確実に実家からは通えない。
ゆえに進学校だが、地元から様々な人間が集まる。
東大に行く人、チャラチャラヤンキーみたいな人、プロ野球選手やプロサッカー選手になる人、様々いるので人を偏見なく見る目を身につけられる。

そういった学校柄ゆえに卒業生や支援してくださる方も様々な方々がいた。

成長できた1年間だった。

この生徒会活動がなかったら、尚更今には繋がっていない。

タイミング。

画像10


一瞬で更地と化した街。

10年後に地元で産業を起こそう、と決意したのは、18歳。
震災があって、生き残されて、震災後1年間を過ごして。


ただ、高校生だったので、そのための実力を付けなければと思い自分に10年間の修行期間を課した。
そもそも街でその当時仕事をしようと思っても土木関係の仕事しかなかった。
道路の整備や建設など「ハード面の復興」ばかりだった。

まさに復興バブル。建設業者は潤った。

NPOもたくさん震災後に来たが、
10年と経たずに去っていったNPOがほとんど。


自分が関われることは「ソフト面の復興」なのだ、と。
10年後、まさにそこからが本気で勝負するところなのだ、と。

だから、17歳での震災だったのだ、と。

震災から10年後、自分は27歳。

これもまたタイミング。

例えば30歳を超えていたら家族や安定を優先してしまうかもしれないが、
10年経っても27歳。結婚適齢期だとは思うけれど、しかしまだ自分のやりたいことを優先できる年齢。

自分の目標のために、真っ直ぐ突き進み、いろんなことを犠牲にしてきた。

自分は”継役”なのだと。
後世に続いていける良いものを残す。と、煮えたぎる熱い想いを持って。


いざ、高校を卒業し、10年間の修行。

続く。Vol.2

画像10


私のnote、読んでくださってありがとうございます。 もしも「いいな」と思っていただけたら、感想と一緒にRTやシェアしていただけると嬉しいです。