2023/7/14「 「深い河/遠藤周作」読書記録Ⅱ 」

・なぜキリスト教は排除させられたのか
→豊臣秀吉は、キリシタン大名と宣教師の結びつきが強くなって大名が勝手に領地を譲るなどの都合の悪い行動が見られたことで宣教師を国外へ追放することにしました。しかし、宣教師が仲介する南蛮貿易の利益を無視できずに徹底されませんでした。徳川家康は、当初はキリスト教を黙認しましたが、徳川氏中心の体制をゆるぎないものにするために、最終的には全国にキリスト教禁教令を出しました。(なぜ日本はキリスト教を厳しく禁じたんですか? | 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 (kirishitan.jp)

歴史改めて学びたい。

・書籍「白い人」の内容にも通うものがある。
揺るがなさに対しての試し行動。
自分の中にある空虚感を埋めるために、自分には持ちえない強さを試すという行為を行ってしまう。
自分の中にもそういう傾向はあるだろうか。
自分のレベルに他者も下げることで安心しようとしてしまう。
62「美津子は信者たちに踏絵を踏ませることを強制した切支丹時代の役人の話をふいに思い出した。ひとりの人間から彼の信じている神を棄てさせた時、その役人はどんな快感を味わっただろう。
神など存在しないと、自分を納得させる材料にした。
自分の弱さを他者にも見出すことで安心しようとした。

自分より崇高なもの、美しく生きるもの、到底及ばないと思う存在を真のあたりにすると、愚かな私たちはどうしようもなく彼らの中にある綻びをみいだそうと躍起になる。

66「一人の男からその信じている物を奪う悦び。1人の男の人生を歪める快楽。
66「「神さま、あの人をあなたから奪ってみましょうか」この考えが美津子を退屈な授業から救ってくれた。

横取りすることの快楽は一過性のものだ。すぐに飽きてしまう。
それを繰り返していてもきっとどこまでも空虚だ。
長く心を満たしてくれる快楽は一体何だろう。
快楽をひとまとめにしてはいけない。
峻別できる冷静さと賢さを兼ね備える人でありたい。
自分の中にあるどうしようもない空虚感を消し去る方法を他者に委ねることも、他者から奪い取ることも、してはいけない。他者を絡めることで、更に空虚感は増していくことを忘れてはいけない。
【関連:暇と退屈の倫理学

今の私は一つの何か、1人の誰かを、絶対的なものとして信じ切ることができない。
全ては移ろうものだ。その速さはそれぞれであったとしても変わらず全く同じ形で存在するものはないのではないか。
「言葉」はどうであろう。
解釈は変わる。捉え方は変わる。でもそれは受け取る側のこちらの変化によっておこる。
「言葉」は変わることなくし続けるのではないか。
「言葉」や「本」は凪だ。指標になりえる。
変わらないもの、動かないもの。それらの持つ力とは。
そういうものがあるから、自分の移ろいを具体的に図ることができ、自覚することができる。
全てが動いていては自分の変化をどうしても自覚することができない。

信仰するということは1冊の本を、何度も何度も読みかえすことと通じるかもしれない。
その読み方(気に入った部分だけを何度も読む人もいるだろうし、一度読んで本自体をお守りのように携えている人もいるだろう、自分の意見と対比するように研究して読む人だっているだろう)頻度や、その内容をどれくらい自分の人生に落とし込むかは、人それぞれであるが、その1冊を心の拠り所としているというのは共通している。
スタイルがどうであれ、多くのひとにとっての拠り所として馴染んだというのは本当にすごいことだと思う。
そして昔はそのスタイルさえもきつく定められ、強要されていたのかもしれない。(その段階というのがカルトと呼ばれる?)やがってその頑なさが解かれ、信仰のスタイルはのびやかになって行って今に至るのかもしれない。宗教が社会に馴染んだということ。

・他者を完全に支配することなど可能なのだろうか?(洗脳?)
同じ「信仰」といっても、そのスタイルには大きな幅があるし、心の内を測ることは不可能だ。
心の中の全てを思い通りにコントロールすることなんてできない。
それって凄く面白くて魅力的だ。私は希望を抱く。

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