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掌編小説「夏の水魔」

 どこかで、水のにおいがした。
 雨、降るのかな。あんなに晴れてたのに。
 だらしなく寝そべっていたフローリングの床から、うんしょ、と起き上がる。見ると、窓はちゃんと閉まっている。外の空気は入ってこないはずだ。ベランダの隙間から見える空も、青く晴れ渡っている。
 めずらしく床を水拭きしたりしたから、その名残だろうか。さっきまで掃除を頑張っていた。全身、汗だくだ。クーラーを効かせているのに、なかなか涼しくならない。
 お盆に一斉休業という職場ではないので、今日は少しずらしてのお休みだった。のんびりするつもりだったのに、台所の汚れが気になったのをきっかけに、ついつい頑張って1DKの部屋中すべて磨き上げてしまった。
 シャワーを浴びて服を着替えよう、と頭では思うけれど、くたびれている。もうちょっと休憩してからでいいよね、ともう一度寝そべった。
 もう、においはしない。
 なんだったのかな、さっきの。まるで雨か川のにおいのようだった。
 川……と思うと、よみがえってくる記憶がある。
 どっぷーん、と水に飛び込みたいな。あの時のように。

 昔、川で溺れかかったことがある。
 もう二十年以上前のことだ。五歳だった。
 川の名前や場所は思い出せない。だが何度も反芻しているから、その時の情景はいつでも鮮やかによみがえってくる。
 真夏。今日のように暑い日だった。お父さんとお母さん。幼稚園で仲良しだったゆうちゃん、かなちゃん、さとるくん。そのお母さんやお父さん、小学生や中学生のお兄さん、お姉さんたちもいた。四家族で、山あいのキャンプ場に遊びに行った。
 大人たちが川原でバーベキューの支度をしている。子どもたちは川で水遊びをしていた。
 川はほとんど浅瀬だけれど、ところどころ深くなっているところもあった。
 大きいお兄さんたちが、その深くなった淵のほうへ行って泳ぎ始めた。私たちもついていこうとすると、「なっちゃんたちはダメだよ、あぶないから」と止められる。
 それで私とゆうちゃんは水から上がり、淵の上に張り出した一枚岩の上でおままごとを始めた。すべすべした小石や葉っぱや花を並べて、ご飯の支度。
 ねえねえ、ごはんができたよ。淵で泳いでいるお兄さんたちに、そう声をかけようとして、立ち上がった。その途端、頭がくらっとした。目の前が真っ暗になる。
 次の瞬間には、水の中にいた。
 あ、川に落ちたんだ、と妙に冷静に判断していた。少しも怖くなかった。
 仰向けになって、沈んでゆく。視界いっぱいに、光がきらめく水面が広がっていた。私の口から漏れ出た空気が、泡になって昇ってゆく。小魚の黒い影が、素早く目の前を横切った。
 浅瀬で遊んでいた時にはひどく冷たく感じた川の水も、かすかにひんやりとする、という程よさで、やわらかく全身を包み込んでくれている。
 ゆっくりゆっくり、水面が遠ざかってゆく。底のほうから、誰かが優しく呼んでいる気がした。
 おいで、なっちゃん。こっちへおいで……。
 水底のほうへ首をひねって、その声の主を確かめようとした。が、そこでまた意識が途切れた。
 実際に水中に落ちていたのは、ほんの短い間だったのだろう。
 途切れた意識が再びつながった時には、もう川原に引き上げられていた。
 大人も子どもも集まって、大声で騒いでいる。わんわんと鳴り響いて一つ一つの言葉が聞き取れないし、皆の顔は逆光で暗くなってよく見えない。助けられたはずなのに、かえっておそろしくて、私は泣き出した。

 あの時は、本当に気持ちよかったなあ。
 折に触れて記憶をよみがえらせるたび、その思いが深くなる。下手したら溺れ死んでいた、とは思うけれど、それでも。特にこんな日には、あの水の中へ戻りたくてたまらなくなる。
 目を閉じて横たわっていると、とろとろと眠気がやってきた。
 と、ぶるる、とスマートフォンが振動した。何かメッセージが届いたらしい。手の届くところに転がっているのを、よいしょ、と引き寄せる。
 タップすると、「なっちゃん、今、何してる?」と表示された。
 私を「なっちゃん」と呼ぶのは、両親か、ごく少数の幼なじみだけだ。
 あ、ゆうちゃんかな。確かさっき、今日も仕事暑すぎ、ってSNSでぼやいてた気がするけれど……半分眠っている頭のどこかで不思議に思いながらも、よく確認しないまま「今ね、睡魔に襲われてて」と入力した。
 が、変換がおかしくなって、「睡魔」が「水魔」になった。あれ変なの、と直すつもりが、間違ってそのまま送信してしまう。
 途端に、ぶわっと水があふれてきた。スマートフォンの画面から。
 驚く間もなく、狭い部屋がすべて水で満たされてしまう。
 ふわり、と水中に浮かぶ。仰向けに寝転がった姿勢のまま。
 ああ、これは。あの時の川の中と、まるで同じ。
 ゆうらりと、体が水の中をたゆたう。怖さも息苦しさも全く感じない。ただ心地よさに身を任せてしまう。いつしか天井が消え失せ、あの日の水面と同じように揺らめき、陽の光にきらめいていた。
 手から離れたスマートフォンが、ことりと床に――あるいは川底に?――落ちていった。その画面からは、ごぽごぽ、と水が湧き出し続けている。
 きっと、さっきのメッセージはゆうちゃんじゃなかったんだろうな。
 ではいったい、誰なのか……それはたぶん、あの時、水底から私を呼んでいた、あの声の。
 おいで、こっちへおいで。
 今度は私のほうから、呼んでみる。
 それに応えるように、がたん、とスマートフォンが揺れる。
 私は微笑み、手を差し伸べる。今日、掃除しといてよかったな、と思う。
 やっと会えるね。ずっと覚えていたんだよ。何して遊ぼうか。こんな暑い日には、水の中で遊ぶに限るよね。
 あふれ出る水とともに、スマートフォンの向こうから、何者かが現れる気配がした。

(了)

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