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「理論」と「理屈」の違い

石橋博史『最少人数で最強組織をつくる』を読んでいます。


著者の石橋さんがトヨタの工場でトヨタ生産方式の研修を受けていたときのエピソードの中に、このような文章が出てきました。

IE(生産工学)の専門家として海外でも高い評価を受けた人である。
大野氏に叱られて落ち込んでいる私を、新郷氏は「あの問題に気づいたのはいいことです。もっとこうしてみたら……」と陰ながらアドバイスをしてくれた。
理屈に陥りがちな私に理論と実践を結びつけてくれた忘れがたい人である。  (P.20)


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石橋さんが「理屈」と「理論」を使い分けていることが気になり、2つの言葉の違いについて調べてみました。

理屈
無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。
理論
個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。
また、実践に対応する純粋な論理的知識。


「理屈」と「理論」という言葉は一見よく似ていますが、言葉のイメージや、実際の意味はまったく異なります。

正しい意味を知らなくても、「理論」の方が「理屈」よりもきちんと考えられているような、筋が通っているような感じがしますし、「理論的」「理論派」と言われるのと、「理屈っぽい」と言われるのでは、後者の方がマイナスなイメージです。


「理論」の肝は、「実践に対応する」という点にあるかと思います。
実際の行動や態度に結びつけることありきなのが「理論」であり、単なる知識では終わりません。実践される知識こそ理論であると言えます。

一方「理屈」は、頭の中で無理につじつまを合わせた論理、こじつけ、といった意味を持ちます。「理屈」は実践には対応しません。
関係のないもの、あるいは薄いもの同士を無理矢理結びつけ、そこに関係性があるように考え、「考えて終わり」「言って終わり」なのが「理屈」であると言えそうです。


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石橋さんもご自身のことを「理屈に陥りがちな私」と仰っていますが、油断をするとすぐに理屈に陥ってしまう人は結構多いかもしれません。

私自身も、頭の中で物事をこねくり回し、それっぽいことを「考えて終わり」「言って終わり」で自己満足してしまうことがかなりある気がします。
自分の中ではきちんと物事を考えられているような気分にはなるのですが、外から見るとただの理屈っぽい人。

思考のレベルを「理屈」レベルから「理論」レベルに引き上げるためには、日常生活や仕事の場などにおける実際の行動や変化が不可欠です。
まずは自分の思考や言葉が「理屈」レベルなのか「理論」レベルなのか自己点検するところから始めてみたいと思います。

というように「理論」と「理屈」について「理屈っぽく」考え、文章を書いている自分がいるなと気づきます。危ない危ない。

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