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何者にもなれなかった、君たちと僕へ(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 思春期を過ぎたあたりって、なんで自分は愚かなんだろうと思うことがある。
 大学には入学をしても、体調の不良を理由に行かなくなって、家で一日中寝ていた。そのとき、演劇をやっていて、しかも役者だった、自分はある種の無敵のような、それでいて最低な人間のようにも思えた。
 稽古が終わるとどうしても一人いたい気持ちがあった。自分が悪いとかじゃなくて、なんか空っぽの人間のように思えたからだ。でも、稽古後の食事にはみんなと言ってバカ話をした。メンタルの不安定さはそこから来ていた。
 それとそれくらいから読書を久しぶりに再開することになった。最初は、演出家の好きな劇団の戯曲を読み、知り合いの好きな作家の戯曲を読み、いつの間にか小説に以降していた。そのときはエンタメを読んでいた。ミステリーが好きだった。謎を解明していくドキドキ感がたまらなかった。純文学に移ったのはいつからだろうか。もういい大人になってからだろうか。知り合いの人のつてで読むようになった。純文学は世界が広いと前のノートに書いたのでここでは省く。
 大学のとき、休んでる間にパチンコや競馬などのギャンブルにハマらなかったし、お酒も飲まなかった。麻雀はやったか。
 友達は多くはなかったが、少なくもなかった。
 でも、どこの場所にいても自分の場所を見つけることが出来なかった。彼女はいたが、落ち着いた時期と荒れている時期が交互に来るので、良いとはいえなかった。
 そんな鬱屈した大学生活をしたまま卒業した。
 もちろんいい思い出ではない。
 
 中上健次の『十九歳の地図』の主人公も鬱屈してひねくれた人間だ。昔だから出来たこととして、あそこの家が気に食わないからという理由で、地図にバツ印をつけていく。三つついたら、公衆電話から嫌がらせとも言える電話をする。
 主人公は浪人だが、大学には行く気がないと行っている。そのうちに、「玄海」という特急か寝台車を爆破するという予告を東京駅にする。ただ、それはあくまで予告だけで、実行する術を持っていない。最初は、爆破する弟だと言って、兄が爆破計画をしていると電話する。しかし、駅員はあまり真面目に取り合ってくれない。それでも、主人公は気が済んだのか話が終わると電話を切る。また今度電話する時は、兄になって絶対に爆破するからというと念押しみたいな内容だった。駅員は、一応対応するが本気かどうかは分からない。
 電話が終わると、電話ボックスから出るときに涙が出てくるが、だれも見ていないにもかかわらず誤魔化す。
 
 自分が何者でも無いことの不安や無力感には結局勝てない。僕だって今現在そうだ。インディーズの作家をやっているが、趣味の延長線上だし、なれるものならプロになりたいと思っている。
 つまり、肩書きが欲しいと思っている。部分がある。
 それはエゴなのだ、なんとなく分かっている。でも、そうでもしないと自分の中で落ち着かないのだ。
 言葉を言い換えるなら、承認欲求を埋めたいと思ってしまう。自分は他人から褒められるべき存在のはずだと思っているのだ。
 これも以前に書いたことだが、僕がノートを書く理由は、それを満たすための部分はある。
 そこで振り回されているのは、数字である。数字はシビアだし、目に見えてわかる結果だ。どれくらい見られているか、どれくらい売れたか、そういう所に目が行ってしまう。僕にとってはそこに目が行くのが当然なのに、そうではない人が不思議で仕方ない。ただ、僕のモチベーションはそこじゃない部分で動いているのもあるので、今こうして二十日以上も続けていられるのだが、数字じゃない人のモチベーションは何によって突き動かされているのか疑問で仕方ない。
 表現者である以上、見てもらう人がいないと成り立たない。でも、見てもらわなくてもいいという精神でやりたい気持ちと沢山見られたい気持ちで葛藤しながら書いている。これは下心100%だ。
 僕が達観する、大人になるには、まだそうとう時間がかかるのかもしれない。それは何回も挫折を繰り返しながら、なるべきものであって一気なるものではないと思う。これは人から言われた言葉でもある。
 僕はまだ大学生のままでいるのかもしれない。

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