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個性と同情とエゴと生きるということ

小さいころから、心の中で自分を悲劇のヒロインに置き換えるのが得意だった。
今、考えてみるとそれは「自意識過剰」の一言で片づけられてしまうのだけれど…、。

ただ、周りの子供たちよりも少し、感受性が豊か過ぎただけとでも言い換えておきたい。


そしてそれは、子供のころだけに留まらず、大人になっても当たり前のように「私の個性」として、我が物顔で私の隣にのっぺりと寄り添ってくる。


そして同時に、ふとした時に現れては、

「生きづらさ」を感じさせる。


「生きたくない」の衝動の根源となるのだ。



自分を客観視するなれば、他人から見た私は、

「にぎやかなお調子者」「宴会部長」「いい年こいておバカ担当」。

そんなレッテルを張られているアラサー独身愉快な女。

仲が深くないほど、私のことを「明るい」だの「ノリがいい」だのと言う人は多い。



だけれどそんなのはただのピエロで狂言でただの一人芝居で。

一人になった自分には目も当てられないほどに鬱鬱とした我が物顔の「繊細な陰気」に精神を乗っ取られないように、悶々と過ごす私がいる。


この「繊細な陰気」とは、どうしようもなく、致し方もなく、十何年も付き合ってきたということだけが事実なのにいまだにそのことに耐えられなくなる夜がある。



そんな自分をごまかすように異性に愛を求めたり、

自分の腕を痣になるほどに嚙んだり、

気の向くまま食べては吐くことを繰り返したり、

お酒で気を紛らわしたり…これは大体失敗するけれど。


そんな夜とも一人向き合って生きてきたつもりだった。


同時に、このことを他人に口外するのは、同情の安売りだ。とバカみたいなプライドが胸を突く。


きっと、そんなことも話せない人は友人とは言わないという人もいるだろうし、共感する人もいるだろう、もしかしたらもしかして、私のために泣いてくれる人もいるかもしれない。



だけれど、それは、一時の感情で。どうせ私の人生にかかわってくれるのなら、楽しい時間を共有したいと思うのだ。



こんな獣ののようなどす黒く突発的な感情と、朗らかな人柄を演じ続ける自分にいつかひずみが生じるその日まで、どうにか生きていたいと思う。



三浦春馬さんと同い年の私には、彼のニュースは心重くなるものが大きすぎた。
ご冥福をお祈りします。

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