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漱石は日本最初の引きこもりの元祖であり、語学留学挫折の元祖だった

夏目漱石は英文の本を世界に投じた経歴はない。しかし悪魔の書では日本英語を誕生させた四人目に彼を登場させているばかりか、漱石が英語と格闘していく様子がかなりのページをさいて書かれている。その格闘の様子はなかなか興味深く、ここでもそのくだりを引用、あるいは孫引きしていくことする。

明治三十三年、漱石は英語研修のために英国に派遣されるのだが、彼の英語はイギリスでまったく通じなかったはずだ、と悪魔の書では書きだされていく。そんなことを漱石は一言も書いていない。なにしろ第五高等学校の英語学の教授だったから、「私の英語はイギリスでは通じなかった」などといったみっともないことは書けない。しかし帰国後に書かれた「倫敦塔」の冒頭にそのことをにおわせる文章が記されている。

「余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を開いて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査でゆかぬ時は又外の人に尋ねる、何人でも合点の行く人に出逢うまでは捕えて聞き呼び掛けては聞く。かくしてようやくわが指定の地に至るのである」。

ロンドン塔にもこうしてやっとのことでたどりついたのである。たかだかロンドン塔見物でさえ何やら生命をかけた必死の戦いが必要であった。彼の英語がイギリスではまったく通じないのだ。英語学教授として世に立とうと研鑽してきた彼の英語が。彼の英語──シェイクスピアを読むための英語であり、シェイクスピア論を書くための英語が。彼の英語の危機は、彼の存在の危機でもあった。彼はそのことをこうも書いている。

「まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛りだされた様な心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維も遂に鍋の中の麩海苔の如くべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論に今更の如く大真理と思う折りさえあった」

事実、そこで書かれた通りのことになってしまった。研修半ばにして部屋に引きこもってしまう。今でいう引きこもりである。一歩も外に出なくなった。そのあたりのことを悪魔の書では、漱石の妻鏡子の回想を筆録した「漱石の思い出」から引用して照射している。
「その後当人から聞いたのですが、あたまの調子が少しずつ変になってくると、これではいけない、こんなことになっちゃいけないと、妙に焦り気味になって、自分が怖くなるというか、警戒し気味になって、だんだん自信を失っていく。それでなるべく小さくなって人に接しないように心掛けて、部屋に閉じこもったきり、自分を守っていくのだそうです。それが病気の第一歩で、さてそれから自分が小さくなっておとなしくしているのに、一向人がそれを察せず、いじめよういじめようとかかってくる。そうなるとこっちも意地づくになって、これほどおとなしくしているのに、そんなにするならという気になって、無性にむかついて癇癪を爆発させる。であとで考えてみると、その時はつまらないことが気になってその間絶えず、誰かが監視しているような追跡しているような、悪口を言われているような気がするのだそうです。このときも英国人全体が自分を馬鹿にしている、そうしてなんかと自分一人をいじめるし、これほどおとなしくしているのに、これでもたりないのでいじめる、それならこっちにも考えがある、もうおとなしくなんかしていないぞといった気持ちだったらしいです」

引きこもった漱石は、下宿部屋で何をしていたのか。彼の英語に取り組んでいたのである。彼の英語を完成させるために。壮大な大文学論を書き上げれば、もはや英国と英国人は自分を馬鹿にはしないだろう。
漱石の英語の力はなみなみならぬものだった。例えば、学生時代にある哲学雑誌に「文壇における平等主義の代表者ウォルト・ホイットマンの詩について」という一文を載せている。これは驚くべきことである。アメリカ本国でさえホイットマンの詩どころか、その名前さえも知られていなかった。漱石の英語の触覚は、アメリカの片隅で埋もれたまま去っていった無名の詩人の詩を探り当てていたのである。明治二十六年のことで、この年にはやくも「草の葉」は日本の読書社会に上陸していたことになる。

あるいはまたイギリス留学中に唯一クレッグというシェイクスピア学者の個人教授を受けるのだが、このクレッグ先生を描いた一文が残されていて、そこではこの教授の指導ぶりが敬愛をこめて描かれている。しかし漱石が早々にこの個人教授を打ち切ってしまったのは、つまるところこの教授から得るものが何もないとばかりに蹴飛ばしてしまったのだ。自分はクレッグ先生に教授されるまでもなく深くシェイクスピアを読みこんでいる、自分のシェイクスピア論のほうがはるかに深くシェイクスピアを照射している、と。事実、漱石の英語は本場のシェイクスピア学者を蹴飛ばすばかりの力をもっていたのだ。

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