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女性が「格上」を求める本能があることで、男性問題が生じているという視点ー本質の再考ー

男性学だの弱者男性だの非モテだの、男性問題を語るうえで欠かせないのは、一般女性が「格上」を求めること(結婚における上昇婚、群れの中のトップであるアルファオスを好む性向、男性に求める年齢・身長・学歴・年収・資産などのスペックにおいてできるだけ高い数値を求めるetc)が、あらためて言うまでもないが、男性同士の連帯を阻む本質であるように思うということである。従来の男性同士の連帯像である、ホモソーシャルとは、女性を見下して自分たちよりも下位の存在とみなし、男性同士の連帯をそれによって高めあう空間のような定義と考えるが、そうした女性蔑視はもはや今の女尊男卑社会令和日本には通用しない。

恋愛指南における、もともと自信が無かったとしても、自信のあるように振る舞うのが良い、といったような言説は、全て女性の手の中で踊らされている一例であり、無理に自信のあるふりをし合うことで、今時の言葉でいうと、「イキり」を発動させやすくなってしまい、連帯を困難にする。

女性の求める広義の「格上」は客観的指標で判断しうるが、男性の求める「美=容姿の良さ」は多様である


女性の求める「格上」は男性全体を同じ男性というステージの中で相対的客観的に評価しうる基準に溢れている。前述の年齢・身長・学歴・年収・資産地位・人脈などがそれである。もちろん逆の男性が求める「美」には当然「年齢」という客観的基準が含まれるが、ダブルスタンダードで何故か女性に対しては従来より、会ってすぐに年齢を尋ねるのはマナー違反とする言説に溢れていた。男性は令和においてもマッチングアプリにおいて一方的に金銭的負担を強いられる身分に晒されつつ、現実的には様々な客観的指標によって公にランク付けされる。それは、女性が、格上のみを相手にする、という原理によって発動する終わりなき競争である。女性においてこの競争がないのは、必ずしも美は一様でなく、客観的にランク付けすることが難しいからである。

弱者女性は存在しないが、弱者男性は強者男性と比較して客観的に評価されるがゆえに存在が観測できる

女性である限り令和日本においては人生の初期に長く恋愛市場におけるチヤホヤ期を体験することができ、その幻影を背負って生涯を終えることができるが、男性は男性であるのみでは、チヤホヤ期の質と量は担保されない。
女性の「美」は客観的にランク付けするのが難しく、また、それを男性によりランク付けされないために、多くの時代、女性を区別して何かのアクションをする(特定の女性にのみ、えこひいきして何らかの価値を提供する)ことはコミュニティ内において一般にマナー違反であるという言説によって、美の共産主義的な連帯を形成することを可能としていたのが女性社会ではなかろうか。

一方男性の場合は常に競争にさらされている。それは女性が格上を求めるからで、女性より格上になればなるほど、パートナーにできる女性が増えることを意味するからだ。しかもそれは客観的な指標で判断できる物事である。女性とは違いみんな平等は困難で、令和により格上になる難易度が上昇しているにも関わらず、常に競争にさらされているため、下手なことをすると格下に落ちるリスクが上がる。だから男同士は常に油断できないし、弱者と強者が客観的に判断できるようになってしまう。これに男性も意を唱えようとすると、そんな自信のない男はスペックも低い、格下に違いないという低俗な論理によって、弱者男性に転落してしまうのである。

女性が「格上」を求める本能?を肯定するなら、男性も女性に「実年齢の若さ」を求める本能を肯定すべき

主に令和時代の日本婚活市場において、女性はほぼ必ず男性に高収入を望む
。その反対に男性は本当であれば女性に若さを求めたい。しかしながら、「年収」は社会的なもので運や才能も含むかなり不確実性の高いパラメータであるが、「若さ(年齢)」はすべての女性が平等に手に入る生物学的時間のパラメータである。つまりそのスペックを手に入れる難易度が雲泥の差である。そうすると、婚姻率を考える際には、必ず男性のほうが格上の格上に絞られ、上澄みでなければ恋愛も結婚もできない社会に陥っているのではないかと思う。それが交際弱者男性を生み出しているのだ。
さらに言うと、近年では男性に容姿・美を求めるルッキズムは加速しているように思う。もちろんこれは女性同様多様性を含んでいるものの、清潔感やイケメン(容姿端麗)という要素には、女性の多様なファッションよりもだいぶ型にハマった姿を求められているように思う。さらに男性は狭い見た目、その多くは客観的指標である身長により競争に晒され、弱者に転落する率が高まっている。なぜなら、女性が男性に求める「格上」とは、男性のすべて客観的な要素に点数を付けられるからである。だから女性は一人のアルファオス、一番格上の男性に一斉に群がるが、男性ではそんな一人の女性を客観的なスペックで判断して殺到することはない(男性の選好における多様性の原理とでも呼ぼう)。逆が、女性の選好における客観性の原理とでも呼ぼう。

男性も多様性で選好される時代にはなってきた、そろそろ自意識により客観的に自己分析してしまう習慣から解放されよう

そろそろ年収ガー身長ガー資産ガー職業ガー実家ガーから解放されてもいいのではないか。客観的に自己を把握することに慣れすぎてしまっていて、もはや自分を客観性の檻に閉じ込めてしまっている。いまだに社畜を続ける選択肢だってもはや選択肢の一つにすぎない時代に、カード会社や入居審査や社会的体裁から?社畜を選び続けて、大量の税金をスマホ議員や老害や医者に養分し続けるのも選択の一つでしかない。さっさと個人事業主になっても無職ニートになってもバックパッカーになって旅に出かけてもいい。労働に縛られて年収でしか自分の価値を把握できなくなったらそれこそ令和日本女性様の思うつぼではないか。くだらない社畜を続けても、生活保護生活を開始しても、何を選択しようと、人生は一度きりという真理は変わらないでアッという間にジ・エンド。つまりは弱者だと選択するのは女性側であって、自ら弱者を名乗る必要なんてないし、客観的指標しか持たない奴らをあざ笑い永遠の中二病で生きていけばいいのではないか。というか、もはやそういう生き方しか弱者男性、特に社会不適合系弱者男性には許されていないのかもしれない。。。

※表紙絵はStableDiffusionにより筆者作成


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