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あんバタートーストと諏訪の記憶。

長野の諏訪に大好きなゲストハウスがある。去年の3月、どうしても仕事がうまくいかなくて、力がわかなくて、思いつきで諏訪に行った。初めて行ったのは大学4年生の時、高校からの親友と生まれて初めてのヒッチハイクの旅をした。5台の車を乗り継いで、いろんな人に出会いながらたどり着いた諏訪の街には涙が出るほどの感動するような時間があった。寒い冬だったけれど、温かい記憶だけが心に残っている。

その街にいると嘘をつけない。そこにいるみんなには嘘をつけなくなる。自分の心に素直になれる。素直になりたくて、諏訪に行った。あの時と同じ友達、七海と一緒に。その時の忘れられない出来事がある。

諏訪には新しいお店がいくつかできていた。ゲストハウスのスタッフの方に勧められて、そのうちの一つのコーヒー屋さんに出かけた。お店は朝早くからやっていた。30歳半ばくらいだろうか、髭を生やして、メガネをかけた優しそうな男の人が「いらっしゃい。」と声をかけてくれた。わたしはコーヒーが好きだ。自家焙煎のコーヒー豆がずらりと並んでいて。わたしと七海は「おすすめはなんですか。」と聞いた。お兄さんは、「おすすめはないんですよ」とニコッと笑った。「好きなものを飲んでもらいたいんで。」と続けた。わたしはハッとした。おすすめはしない代わりに、お兄さんはどんな時コーヒーを飲むか、どんな味が好きか、じっくりたっぷり聞いてくれた。わたしは、朝にぴったりのオリジナルのモーニングブレンドをチョイスした。浅煎りだけれど、しっかりコクがある、そんなコーヒーだった。

そのあとでわたしたちの後に、3人組の女性グループが入ってきた。私たちがきたときは、誰もお店にいなかったので、私たちは一番奥の4人席に座った。他にあるのは2人席だけだったので、わたしたちは後から入ってきたグループに気付き、席を移動した。お姉さんたちは「ありがとうね〜。」とニコニコ笑って楽しそうに話をしていた。私たちも席を移動して、話を続けた。

そうしたら、お兄さんが一口サイズの食パンにバターと餡子がたっぷりのったあんバタートーストを持ってきてくれた。席の移動をしたお礼らしかった。隣のグループには気づかれないくらいのさっとした一瞬の出来事だった。小さな声で「席、ありがとうね。」とだけ言った。わたしはうっとりしてしまった。思わず、「結婚したい。」と言った。3秒経って、その発言に七海が大笑いし、私たちは我に返ってお礼を言った。

そのささやかな優しさと、気づきと、心遣い。わたしはすっかりこのお店の虜になった。わたしはその頃、東京の旅館で働いていて、サービスやおもてなしがよく分からなくなっていた。ああ、こういう瞬間、こういう時間、わたしはつくれているだろうか。そんなことを思いながら、お兄さんはその後もたくさんのお客さんにコーヒーを淹れてながらにこにこしていた。

わたしは、しばらくしてお店をでたが、そのあとでやっぱりどうしてもお兄さんと話をしたくてもう一度お店に立ち寄った。「さっきは美味しいあんバタートーストをありがとうございました。」ともう一度お礼を言った。そして、淹れてもらったコーヒーと同じ豆を買った。お兄さんは、嬉しそうにおまけをつけてくれた。

お兄さんはここまでの苦労をちょっとだけ教えてくれた。お兄さんのこだわりの裏にある信念と、優しさの裏にある強さを見せてくれた。わたしは、またきます。と言って、いい気持ちでお店を出た。

「絶対にいい仕事をしよう」とその時に強く思った。それは仕事を変えるとか、やめるとか、そういう決意とも違う。いい、というのは稼ぐとか活躍するとも違う。とにかく、誇りに思える仕事をしたかった。それができるようになったら、お兄さんともっと話ができるようになると思ったからだ。お兄さんと、話をしたかった。あの時は聞くことで精一杯だったから。

あれから、もうすぐ一年がたつ。今なら、わたしは自分のことも話ができるような気もしているし、まだ何も語れないような気もしている。いつでも思い出す、あの日のあの時間は、わたしの心に棲みついて離れることはない。

自分がダメになりそうな時、心が弱くてたまらない時、あの寒い諏訪の、温かいコーヒーを思い出す。わたしの心の中に、芯はあるだろうか。お兄さんのような、優しさと強さを持ち合わせていられるだろうか。そう自分に問いかけている。

人にはきっと、忘れられない記憶とか言葉があると思う。それは何気ないことかもしれない。会話の中のちょっとした一言かもしれない。もちろん嫌な記憶もあると思う。傷ついた言葉や、怒りの琴線に触れてしまうようなこともある。だから、だからこそ言葉には魂が宿っていると心から思うし、大切にしたいと何度も思う。

昨日はちょっと久しぶりに考えることがあって、お兄さんを思い出した。コロナが落ち着いて、温かくなった頃に会いに行こうと思う。

きっと思い出すあの時間を、何年後も何十年後も守って、記憶が枯れないように。


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