自分を好きでいることができるか
人付き合いで大切なこととして「自分を好きでいられるか」がある。この軸を意識するきっかけになったポイントが二十歳から今までの間で何度かあった気がするけれど、すぐに思い出せるのは『脳内ポイズンベリー』という映画(原作は漫画)を見た時。クリープハイプが主題歌を歌うので見に行った。主人公は30歳目前で23歳に一目惚れしてしまうという設定で「なんだ、ただの私か」と思った。当時は24歳だったけど。詳しくは書かないが「その人といる自分が好きか」という点が大きなテーマとなっているので、変な恋愛にハマりがちな人は見ると脳内のパズルが完成した気持ちになれると思う。
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恋愛に限らず、わたしは、自分が自分を好きでいたいということよりも、もっと人から認められなければ、という気持ちが強い。
これはたぶん、幼少期父親に遊んでもらえなかったり、幼稚園で男子の集団(そこに好きな子もいた)にいじめられていたりといった色々なことに対して「自分が嫌われない子になって解決しよう!」としてしまった結果だと思う。解決なんてする必要がないのに。ただ諦めればよかった。そうすれば今ほどは複雑な性格になっていなかったと思う。
世の中理不尽な出来事はたくさんあるし、理不尽が降りかかる頻度はだいたい平等だと思っている。なので、環境にどうこう言う気はないのだが、自分の頭で考える力が備わっていない時期に傷つく出来事が重なってしまったことは少し残念に思う。
「解決しよう!」の矛先を、遊びや勉学など自分の身になるものに当てていたら。努力の方向をもっと早く変えていたら。「いまさら」ではあるけど、後悔を素直に後悔と認めることでしか今を改められない。
「特定の誰かのためにかんばる」のではなく「自分のために何かをがんばり、結果周りにいてくれる人を大切にする」というのがおそらく自然だ。
まわりにいる人とうまく信頼が築けていないときは、たぶんその前段階にある「自分のために何かをがんばる」が足りていないのだと思う。
あの人にモテるには?上司に気に入られるには?と個別に複雑な対応を練るよりも「自分のために何かをがんばる」という1点だけに集中したほうが楽だし結果もついてくる。気がする。
そして「わかっているけどできない」という壁があることも知っている。「自分のために生きよう」と思っていても、気づいたらここに戻ってきている。特定の人に認められたいと思っている。
うんざりするよね。でもさ、もうそうやって生きて来ちゃったんだもんね。それはそれで、よしとしようよ、もう。
急にうまくはいかないかもしれないけれど「人に気に入られようとせず、自分のための努力をする」って頭の中に標語をかけておくだけでも、少しずつ選択を変えていける気持ちがする。
「とはいっても、何からしたら?」という考えが浮かんだ人はとてもビジネスマン的だ。前に勤めていた会社では会議の終わりに「ネクストアクションは?」と聞くのが恒例となっていたが、プライベートでもけっこう唱えている。これに対するネクストアクションは、「自分のありたい姿に近づく努力」を大きなことから小さなことまであげて、できそうなことを1日単位でやるということだ。意味とか考えず。
ところで、感情的なのはとても良い個性だと私は思う。使い方を間違えると人間関係を壊してしまうけど、悲しくなったりうれしくなったり、その感情を殺したくない。そういうものが創作の根源だとも思う。
だから、考え方の歪みを間接的なところ(強制的に自分に集中すること)から変えていき、素直に喜んだり泣いたりできるような人間関係をつくるのが最終的なゴールだ。感情をコントロールしたりメンタルを強化したりするのとは少し違う。ずっと我慢強いことが素晴らしいと思っていたけど、我慢しなくていい人付き合いをすることはもっと重要に思う。
感情や意欲は自分のために使うんだ。認めてくれない人をいつまでも見ていなくていいんだ。と心底思えた時に、もう少し自分の人生に納得がいくのかもしれない。
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