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#16 エジプト珍道中 スークを北へ

サイイダ・アイシャ通りを北へ歩いている。

未舗装の道、続く渋滞。車列のわずかな隙間に滑りこむバイク、小刻みに連打されるクラクション。排気ガスとともに憤りが散る。店から漏れる陽気な音楽、バイクのエンジンの破裂音、食材をまとめ買いしようと値段交渉に熱をいれる客。喧騒に包まれる。前から後から、右から左から、意味不明の言葉が突然、飛びこんでは遠ざかってゆく。猛スピードで。

布のパラソルを広げた屋台が並んでいる。じゃがいも、トマト、オレンジ、すもも。座りが良さそうなものはピラミッド状に何段にも積み上げられている。崩れないのだろうか。にんじん、玉ねぎ、キャベツ、きゅうり、ピーマン、青唐辛子、茄子、ほうれん草。たいていの野菜はここで手に入る。陳列しきれずに溢れたキャベツが砂の地べたに転がっていた。張りがなくしなしなだった。鉄柵にロバがつながれている。おいらがここまで野菜を運んできたのさ。とろんとした目で訴えてきたが、しなびたキャベツのようにも見えた。

とそのとき、トゥクトゥクが、左の細い路地から急にぬわぁんと飛び出してきた。フロントガラスには西瓜ほどに大きな罅が放射状に広がっている。割れ目で光が散らばってドライバーの顔が見えない。ププププッ、プッププープー、ププププッ、プッププープー。視界悪シ、救助求ム──。モールス信号か。原チャを乱暴に乗り回す中学生の餓鬼さながら、一定のリズムで警笛を鳴らして去っていった。

店の軒先に何かが吊り下がっている。電動ドライバー、半田ごて、ニッパー、延長コード。ちょうど目線の高さになるように、商品が紐にくくりつけられている。工具の専門店か。釣り堀の魚よろしく目当てのものにぱくっと食いついた客は、そのまま釣り上げられてしまうのだろう。肉屋には牛がまるごと一頭ぶら下がっていた。

角にキオスク。昭和の煙草屋みたいな四角く切り取られた窓から店主が顔をだしている。まわりには、エジプトで人気のスナック菓子、飴、チョコレートなどがぎゅうぎゅうに積まれている。右にはガラス扉の冷蔵庫がある。瓶のコーラ、スプライト。見慣れた炭酸飲料に、見たことのない炭酸飲料。マンゴーにグァバ、百パーセントのフルーツジュース。視線を流すと……アクアフィーナがあるじゃないか!

──アクアフィーナは旅で一番お世話になった水だ。エジプトの下痢はその悲惨さから「エジ下痢」と恐れられている。原因のひとつは水。熱中症を気にするあまり、硬度が高い水をがぶ飲みすると良くないらしい。危険なのはバラカ。こいつは硬度が異常に高いくせに、街中でよく見かける地雷。ブラックリストに載せて警戒した。

水いくら? 三エジプトポンド。……!? 言葉を喪う。ルクソール神殿の売店では水と炭酸飲料一本ずつで百エジプトポンドだった。観光客相手にぼったくっているのは明らかだったが、鉄板の上で焼かれるような陽射しで意識が朦朧としていたので、言われるがままに支払った。地元の住民を相手にする店ではこんなに安いのか。マンゴージュースも手にとり会計。あわせて十エジプトポンド、当時のレートで七十円ほど。その場で蓋をあけてぐびぐび煽る。安いだけでなくおいしい。グァバジュースも買い足したが、こちらは味が薄かった。

気づけば昼になっていたので、コシャリの店で腹ごしらえすることにした。高校生から二十代のグループが数組いる。店に入るとじろじろ見られた。店の雰囲気を撮ろうとスマホをかざすと、高校生くらいの男の子が視線とピースを送ってくれた。人懐っこいのは客だけでなく店員も。店をでる前に一緒に写真を撮ったのだが、中指と人差し指のあいだに煙草をはさみ、副流煙を高らかに吹かしながらやってきた。

行き着いた先のロータリーを反時計回りにぐるりと迂回する。「靴を瞬時に記憶する男」がいるモスクを抜けてムハンマド・アリ通りへ。空き地には大量のごみが捨てられていた。

大通りを右にそれてイッ・スルギーヤ通りへ。野菜を積んだ屋台の足元の砂に赤や緑のしみがある。やはり高く積まれた野菜や果物は時折崩れ、車に轢かれることもあるみたいだ。魚に蝿がたかっていた。

縦にも横にも大きなおばさんが私の前を歩いている。白地に水色の縦のストライプが入ったTシャツに青いズボン姿。ゆっさゆっさと揺れる巨大な尻の肉と広い背中で前方の視界が遮られ、通りの向こうがよく見えない。おばさんの背中ばかり見て歩いていたら、水色の縞々が錯視のようにだんだんぼやけて波打ちはじめ、目の前で人差し指をくるくると回されたトンボのように目眩を覚えた。と、そのとき、おばさんの背中のむこうから急に、ぬりかべのような巨大な柵が迫ってきた。

ドゥーン! 少年の高い声が響く。その柵は障子のように木の棒を格子状に組んだもので、木枠の隙間から歯を食いしばって運ぶ少年の顔が見えた。どいて! と叫んだのだろうか。少年は私の脇をするりと抜けると、近くのパン屋に入っていった。あの木枠は焼き立てパンを並べるためのもののようだ。店先には丸くて平たいパンがたくさん並んでいた。

さらに北に進む。右側の路地から二人の少年が前に割り込んできた。左の黒いTシャツの少年は大股でずんずん先へ進み、右の白いTシャツの少年はちらちらと相手の顔色をうかがいながら、なだめるように左手を友人の肩に置いている。事を丸くおさめたい白の思惑は崩れ、黒の右肘が白の脇腹を小突いた。緊張感が高まる。

鼻先がぶつかりそうなほど、黒が白に顔を近づけて早口でまくしたて、早足で歩きはじめる。白は引き留めようと黒の腕にしがみつく。次の瞬間、黒が右肘で白の胸を勢いよく突く、止まる、睨み合う二人。──しばらくして白は先ほどよりも力を抜いて、相手の肩を柔らかくぽんぽんと二回叩いて、再び肩を組んで歩きだし、そのまま左の路地へと消えていった。

しばらく進むと、両側の建物の間に屋根が掛かり、ぎらついた光が落ち着いた。先ほどから歩いているのは市場で、地元の人たちはスークと呼ぶ。送る、運ぶ、手渡すという意味の動詞が語源らしい。ここより北にあるハン・ハリーリには土産物屋が集まり錦市場のように観光客で大混雑だが、今歩いているエリアは住民のためのスークだ。

カラフルな幾何学模様の刺繍が散らばっている。このあたりは、昔は軍用テントを納めていた職人の店が集まり、今は絨毯やタペストリー、クッションカバーなどの布製品を扱っている。店先には大量の布が地面から腰の高さまで積まれ、紅、桃、橙、山吹、淡青、群青、土、色とりどりの地層を形成し、その頂上で野良猫が柔らかい毛並みの腹を上下させながら昼寝をしていた。私は値段交渉に苦戦しながら、薄灰色のガラベーヤを買った。

ズウェーラ門をくぐる。路地が細くなった。横丁をのぞく。茶色い土壁が続く路地のつきあたりの二階のベランダに、赤いTシャツの男の子が立っている。奥の両開きの扉は開け放たれ、手すりには大量の洗濯物が干されている。路地から路地をたどっているうちにどんどん道幅が細くなっていった。

また店先に何かがぶら下がっている。サンダルだ。電動工具、牛、サンダル……。カイロの店先にはいろんなものがぶら下がっている。奥にはワイン色、芥子色、瑠璃色のワンピースを着たマネキンが並んでいるが、なぜかみな顔色が悪い。田んぼの泥を両手ですくってべったりと塗りつけたように血色が悪い。視線も伏し目がちだ。

さらにその奥には、ドラゴンクエストの踊り子の服でしか見たことのない大胆な服が壁一面に掛かっている。じゃらじゃらと金の鱗みたいな装飾がついたものに、シマウマの群れに違和感なく紛れ込めそうな全身縞模様、赤に銀色のラインなんてのもある。既視感に襲われる。赤に銀色……あれだ、ウルトラマンだ。まわりを歩いている女性は顔しか素肌を見せない人ばかり。こんなに派手な服はいつ着るのだろうか。

気づけば、右も左も女性の下着だらけ。いつの間にか、婦人服の店が集まるスークに迷い込んでいた。場違いな雰囲気を察して足早になり、ずぶずぶと、さらに横丁の深みへとはまってゆく。どこに向かっているのか。目的地にはたどり着きそうにない。

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