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短編小説「餌のりんご」

 健康に飼うこつは、1日1個、りんごを与えることです——そんな情報がテレビで流れたのかもしれない。それはいつもの飯とは別枠で、りんごをくれるようになった。An apple a day keeps the doctor away.中学のときに覚えた英語のことわざをぼんやり思い出しながら、俺は久々のりんごを囓った。そうしながら、英語でも日本語でもない音——およそ、言語とは思えない機械的な音だ——が、耳を流れていくのを感じた。俺がテレビと呼ぶその光は、まぶしすぎて直視できない。けれど、それは確かにそこから情報を得ているようなのだ——まるで俺たち人間が見ていたテレビのように。

 ふと伸びたそれの柔い触手が俺を撫で、引き寄せる。俺はその温もりを感じながら、遠いあの日のことを思った。それが地球にやってきた日。そして、いままで当たり前のように保証されていた自由、そして尊厳というものを失った日。

 その日は、薄曇りの月曜だった。俺は高校生で、帰りの道を一人で歩いているところだった。月曜日は塾に行かなければならない日で、行きたくないなあ、面倒くさいなあ、などと、そんなことを思いながら。異変が起きたのは、そのときだった。あの妙な音が空に響き、目の前に巨大な何かが現れた。何かはそれだった。同時に身体がふわりと浮いて、俺はそれの全体を見た。毛に覆われた平たい丸に、イソギンチャクの触手のようなピンク色のひらひらが何本かついている。大きさは工事現場のプレハブ小屋くらい。と、その触手が俺に伸びて——俺は悲鳴を上げ、以来、この生き物と暮らしている。いや、俺だけではない。その時間、その瞬間、それは同時多発的に地球に現れ、ありとあらゆる人間を捕獲したのだ。短い間だったが、後に一緒に暮らすことになったおばさんとの話を総合すると、どうやらそういうことらしかった。

 おばさんのその瞬間は、犬の散歩をしている最中だった。やはり身体がふわりと浮かび、現れたそれに掴まったそうだ。ちょうど挨拶をしていた近所の人も、同じように別のそれに掴まったらしい。可哀想なのは吠え立てたおばさんの犬で、触手にバチンと叩かれ、潰されてしまったという。おばさんはその瞬間がトラウマで、それのことをひどく嫌っていた。どんなにそれの触手が優しく触れようが、手を変え品を変え、さまざまな飯が出されようが、まるで見向きもしなかった。そのせいで、おばさんは弱り、死んでしまった。陽樹くん、あいつらのことを信用しちゃだめ。隙を見て逃げなさい、私らはあいつらのペットなんかじゃないんだから——そんなふうに言い残して。

 ペット。確かにこの境遇はそれだった。俺たちが犬や猫や、他の動物を飼うように、それは俺たち人間を飼っている。餌を与え、住まいを与え、話しかけたり撫でたりして、危害など加えることもなく、成る程それは俺たちを可愛がっていた。何せそれは、それを嫌うおばさんまでもを最後まで見捨てず、優しく看病したのだ。おばさんの嫌がることはせず、けれど心配そうに最後までおばさんを見守っていたのだ。

 おばさんが死んでからも、それは変わらなかった。その行動や仕草を見ていると、それには俺たちの言葉は通じなくても、気持ちは通じているようだった。俺が嬉しいとそれも嬉しそうで、俺が悲しそうだと、悲しんでいるように見えるのだ。

 とはいっても、おばさんの「信用するな」という言葉は、俺の心に強く残っていた。いや、それ以前にそれのせいで、俺は家族や友達と——いや、人間社会と引き離され、ひたすら無為な時間を過ごさなければいけないことも理解していた。俺がニートや引きこもりだったら、この状況にも諸出を挙げて喜んだかも知れない。けど、俺は違う。行きたい大学だってあったし、やりたいことだってあったし——好きな子だっていた。だから願わくば、元の生活に戻りたかった。家族と過ごし、学校に行き、塾に行き——そんな平凡な、いまとなっては得難い幸福な日々に戻りたかった。こんな毛むくじゃらにペットとして飼われるなんて、頭が狂いそうだった。俺たちは人間だ。犬猫とは違う。俺は時折、それに噛みつくように訴えた。そんなとき、それは少し悲しそうに、俺を優しく抱きしめるのだった。

 しかし無情にも時は経ち、俺は大人になっていった。時間を知る手がかりもなく、あれから何年経ったかは分からなかったが、10年くらいは経ったかもしれない。犬の1歳は人間の15歳くらい——そんな話を昔、テレビで聞いたような気がするけれど、同じように、人間とそれとでは流れる時間が違うのだろう。それの見た目はまったく変わらず、俺は目に見えて年を取り——ある日のことだった。俺はあれから初めて外の世界へ連れ出された。

 俺は透明なシャボン玉のようなものに入れられ、それと一緒に空を飛んだ。見下ろした町は、驚くほどに様変わりしていた。記憶にあるような家や道路、ビルやマンションはそこにはなく、地面はカエルの卵のような半透明な塊に覆われていた。俺たちが目指すのは、その一つのようだった。ということは、俺が住んでいる家も、空から見ればカエルの卵みたいなのだろうか——そんなことを思っているうちに、飯に何か入っていたのだろうか、俺はぐっすりと眠ってしまい、目覚めると金玉がなくなっていた。俺は去勢されたのだ。

 やはり、それらは人間を管理しているのだ——俺はいまさらながらに戦慄した。まさに犬だ。人間が犬の繁殖を管理したように、それらも人間の繁殖を管理し、飼育しているのだ。人間が犬を可愛いと思うように、きっとそれにとって人間は可愛く、手元で飼いたい存在なのかもしれない。餌を与え、おやつを与え、清潔な家を与え——そうして自由を与えないことさえ、すべてはそれの愛情なのだ。それの社会に合うように作り変えられた外の世界は、きっと人間にとって危険だから。迷子になり、腹を空かせて町をさまよう人間の姿など、それにとっては想像もしたくないほど辛いことなのだから。

 その日を境に、俺はとうとう考えることを止めてしまった。俺は人間だ。けれど、人間よりも高次の存在が現れたことによって、人間はかつての犬の存在に落とされたのだ。1人では何も出来ない存在に、生活を保障されながら、尊厳を剥ぎ取られた存在に。

 それからまた何年経っただろう。あれから必ず1日1個与えられるりんごの甲斐もなく、食っちゃ寝の生活を続ける俺はぶくぶく太り、少し動けば息切れするようになっていた。老いはまだ遠かったが、このままでは病気になって死んでしまうだろうと自分でもそう思った。それも同じ思いらしく、俺は時折あの透明なシャボン玉に乗せられ、病院のような場所へ通った。薬の混ぜられた飯は不味く、俺はそれを残してりんごを食べた。すると、とにかく食べられるものをと思ってか、りんごは日に日に種類が増えた。けれど、俺はそんなことはどうでもよかった。気が向けば食べ、気が向かなければ食べない。どうせ命を長らえても、やりたいことなど何もないのだ。

 そんなある朝のことだった。頭が妙に冴えていて、俺は久しぶりに考えるということをした。それの管理下に置かれた人間。そろそろ俺のような、以前の世界を覚えている人間はいなくなり、いまの世界しか知らない人間が、それらの元で増え続けている頃だろう。たいていの人間は一時に1人しか産まないから、多産の遺伝子を掛け合わせて、多産の人間を生み出している頃かもしれない。この世界にビジネスという概念があるのかは分からないが、一度に何人も生まれた方が便利には違いない。肌の色や目の色、性質や気性を選び抜き、それらに都合の良い人間を生み出し、飼育する。いままで人間が動植物に対してやってきたことを、それらがしないとは思えない。人間の時代は終わったのだ。そして、人間の代わりに支配者となったそれらだけが人間を、他の生物を管理下に置くことが許される。私たちは彼らを愛しており、彼らも私たちを愛しているから一緒にいてくれるのだと、ひどく一方的に、けれど固く信じ込んで。

 ぼろぼろになった身体を横たえ、俺はほんの少しだけ口角を上げた。己の悲観を、これからの世界を、どうしても笑わずにはおれなかったのだ。

 なぜなら、以前の世界を知る俺たちは、最初で最後の犠牲者だった。それ以降の人間は——幼いうちに親から離され、どこかのそれに可愛がられて育ち、それが普通だとそう教育されれば、人間は順応する動物だ、きっとこの生活は苦にならないと思ったのだ。何の心配もせず、何の不安もなく、それに愛された生物として、安全な空間で飼われる人生。最高に良い人生じゃないか。もちろん、そこに人間の尊厳などというものはなく、俺たちの生はそれらの管理下にしかない。けれど一体、そんなものが何だというのだ。外に出られないから何だというのだ、金玉を取られたから、繁殖させられ、品種改良されるから何だというのだ、初めから尊厳というものを知らなければ、それは生きるためにまるで必要のないものだ。

 俺は唐突に咳き込んだ。死の気配を察知したそれが——俺の飼い主が心配そうに顔を覗く。奇妙な音が俺に囁く。大好きだよ、またいつかきっと会おうね——。大方そんなことを言っているのだろう。そして、俺が死んだ後は、墓にりんごを供えるのだろう。この子はりんごが好きだったから——そんな見当違いな台詞と共に。

 そんな想像に瞼を閉じて、俺はゆっくり息を止める。そうしてペットとしての半生は静かに幕を下ろしたのだった。

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